脈動が、傷口から新たな血を滲ませるのが、分かった。
本来なら生命を維持するはずの働きが、死を早めている。それさえ皮肉に感じて、ロイエンタールは自分に嘲笑を向けた。
負けた、のだ。すべてに。そして破滅した。本懐が遂げられて、満足というべきか?
静かに、執務室の扉が開く。
「じゃまをせんでほしいな」
ただ、ひとりで居たかった。わざわざ無様な自分の姿を人に見せようとは思わない。
その時。
「……ひさしぶりね。やっぱりお前は大逆の罪人となったわ」
一瞬、衰減しかけた聴覚が幻の声を拾ったのだと、ロイエンタールは思った。それは、決してここに居るはずのない人物の声だったからだ。
『見届けてやるわ。おまえの破滅を。おまえのそばで』
『それなら、よかったね!』
『・・・ひとりでは…眠れないの…?』
十七年の歳月。時も場所もばらばらに、声の主が口にした言葉が甦ってくる。
ゆっくりと、ロイエンタールは視線を上げた。
執務机を挟んだ先に、黒いケープを羽織った小柄な人影が立っている。肩にかかるクリーム色の髪。自分のそれよりも淡い青の瞳。
 ―――エルフリーデ・フォン・コールラウシュ。
見紛うはずがない。抗えぬ運命で軛かれた、彼の零落のかたわれ。

 ここまで、来たのか。

驚きを、口には出さなかった。その代わり、
「リヒテンラーデ公の生き残りか」
わざと、そう呼んだ。
感傷的な別れなど、自分たちにはふさわしくない。



 喉の奥から込み上げかけた咳を、エルフリーデは何とか抑えた。
端正な顔に死の影を落として、なお毅然と在ろうとする目の前の男を見つめる。
死に際に間に合ったのだ、という安堵と、やはり救えなかった、という絶望が混和し、どちらの気持ちがより強いのか分からない。
ただ、この誇り高い男が同情を必要としていないことだけは確かだ。
「お前が自分自身の野望につまずいて、敗れて、みじめに死ぬところを見物にきたのよ」
可能な限り冷たい声でエルフリーデは言った。
「そいつはご苦労だった…」
唇に笑みを刷こうとしたのか、ロイエンタールの口角がかすかに動いた。
「もうすこしだけ待っているがいい。望みがかなう。どうせなら、おれも、女性の望みをかなえてやりたい」



 やはり、おまえでなければ、ならなかったのだな。
死迫る自分の姿を目にして、怯む素振りのないエルフリーデを、ロイエンタールは称賛したい気分だった。
羽根を飾った甲冑に身を包み、槍を携えて、戦いで死した男を天上へ導くというワルキューレ。今の彼女は、まさにその神話の具現だ。
「……それにしても、ここまで誰につれてきてもらったのだ?」
まさか、翼馬に跨って来たわけではあるまい。
最初に浮かんだ疑問を、ロイエンタールは投げた。



 意外な質問に、エルフリーデはどう答えるべきか迷う。まさかこの男が、そんな事を気にかけるとは予想していなかったからだ。
「親切な人に」
ただ、そう答えた。フェザーンで見送ってくれたサンズ医師たちのみならず、行き先を知ってあれこれと助言をくれたベリョースカ号の人々の姿も思い出す。
「名は?」
さらに重ねて、ロイエンタールが訊いてくる。
「おまえの知ったことではないわ」
エルフリーデは、きっぱりと撥ねつけた。強い言葉を返していないと、その場にくずおれてしまいそうだった。
非情な死神の鎌が、今にもロイエンタールの命を薙ごうとしている。

 死なないで…!

口にできない叫びが、胸の中で虚しく木霊する。
「そうだな。たしかにおれの知ったことではないな……」
彼がそれ以上問うのを止めたのでほっとしかけた時、急に、腕に抱いたエヴァンが身じろぎをした。ずっとおとなしく眠ってくれていたが、目を覚ましたようだ。
みるみるうちに頬が紅潮し、眉根を寄せて泣き声を上げはじめる。実用一点張りの執務室に、その声は大きく響いた。
痛みのせいか、わずかに細められていたロイエンタールの金銀妖瞳が、見開かれる。彼はやっとエヴァンの存在に気がついたのだ。
時を同じくして、エヴァンの青い両の瞳も、椅子に掛けた男の姿を捉える。
「おれの子か……?」
ロイエンタールが問うた。
錐を打ち込まれるような鋭い痛みが、エルフリーデの胸を撃つ。
会わせることができた。たとえ、エヴァンの記憶に一切残らないとしても。
この時、この場所で。たしかに、三人の…ロイエンタールとコールラウシュの血の眷族は揃ったのだ。



「おまえの息子よ」
少しの間をおいて、エルフリーデから答えが返ってくる。
「この子を、おれに見せるために来たのか?」
ロイエンタールはそう言いながら、乳児の顔から目を離すことができなかった。

鏡を見るたび、忌まわしさと共に目にした自分の容貌。
見間違えるはずがない。
その面影が、確かに、この子に在る。
己れでも理解できない感情が、湧き上がる。
ただ、断絶を願ったロイエンタール家の血。だが、慮外に生まれた跡嗣ぎ。忌まわしいはずなのに、「父性」としか表しようのない喜びが、一瞬、淡いベールのように彼を包む。

おまえに、さみしい時がないように。声を殺して泣くようなことがないように。
自分も他人も、愛することができるように。
おまえの父に似ること勿れ。
あの無二の親友のような生き方を、おまえに―――。

澄んだ青い両の瞳に願う。
「これから、どうするつもりだ……?」
その問いは、無意識に口をついた。
幼い息子から外した視線の先で、エルフリーデの唇が引き結ばれる。
 あの遠い春の日、小さな命の墓標を作るロイエンタールの隣で、涙を堪えていた少女。縺れ、歪つにねじ曲げられながらも、さだめの絆は二人を繋ぎとめてきた。
 それが、やっと終わる。
「ウォルフガング・ミッターマイヤーに会って、その子の将来を頼むがいい。それがその子にとっては最良の人生を保障することになる」
あの男なら、過当なほどその依頼に応えてくれるはずだ。ロイエンタールには、確かな自信がある。
そして。

―――おれからも、おれの血脈であるその赤ん坊からも解放されて、おまえは自由に生きろ……。

その思いは、口には出さなかった。
 肋間に、また痛みが走る。なまくらの剣で突かれたような鈍痛だ。鼻腔に血の匂いが充満し、視界が霞む。エルフリーデと幼い息子の姿を目に灼きつけようとしたが、うまくいかない。目をひそめる自分に一瞬、エルフリーデが駆け寄ろうとしたのが分かる。
 ロイエンタールは、初めて、彼女をいとおしいと思った。
もどることの叶わぬ昔、青の瞳に刻みつけられた無垢な笑み。
闇夜に閃く白刃。挑むように、睨みつける視線。少女と女の狭間で香りたつ艶。白く美しい指。
驚きと、涙と、穏やかな寝顔……。
断片的な記憶が、綾織りになって見える。
やがてそれは、薄闇に包まれてゆく。
「殺すなら、いまのうちに殺すのだな。でないと、永久にその機会を失う。武器がないなら、おれのブラスターを使え……」
慄く手を腰に伸ばして、ロイエンタールは冷たい銃を引き抜いた。

 たったひとつ、おれに残されたもの。
 この命を、おまえにやろう――――。




 ブラスターが跳ねて執務机の上に転がる。
ロイエンタールの頭部が傾いだのを見たエルフリーデは、エヴァンを部屋の傍らのソファへ寝かせた。
息があることを祈りながら、椅子に歩み寄る。
 跪いて見上げると、生々しい血の匂いに混じって、男がかすかに呼吸しているのが分かった。意識を手放しただけのようだ。

エルフリーデはためらいがちに両手を伸ばし、ロイエンタールの頬を包む。そして額を寄せた。
彼の孕んだ熱が、掌に伝わってくる。滲む冷汗が、命の終わりを告げる。
「何と引きかえなら、おまえを救えたの…?」
絞り出すような声で、エルフリーデは問いかけた。
「死なないで…」
届かぬ願いを、それでも口にせずにいられない。
ずっと、そうだった。体中に在る憎しみをかきあつめても、いとおしい気持ちには勝てなかった。この男以外、他の誰も愛することができなかった。
堪えていた涙が、温い流れとなって頬を流れ落ちる。
「…死なな…いで…」
母の不貞、生誕の原罪。この男は、それらを自らの血で贖ったというのだろうか。

 生きていてくれるだけでよかったのに……。

その時。
エルフリーデの両手の狭間で、ロイエンタールの睫毛がふるえた。
青と黒の瞳がわずかに開く。肘掛に垂れていた片手が、エルフリーデの肩に当てられる。
「…エ…ルフ…リーデ…」
現実と幻聴の端境で、彼女は自分の名を聞いた。
我に返った時、男の意識はまた失われていた。力をなくした手が肩をすべり落ちる。
エルフリーデの涙が、雫となって顎から零れた。

 ―――これでいい。
 私の想いは、報われた。
 もう嘆くのはやめよう。

自分に誓って、彼女はそっとロイエンタールの唇に口づけた。命の残照の、乾いたぬくもりが伝わる。
そして、淡紅色――リラの花と同じ色――のハンカチを取り出し、彼の額に浮いた汗をやさしく拭った。すこし迷ったが、また目覚めた時に必要かもしれないと、そのまま置いていくことにする。
 エルフリーデは、ロイエンタールを武人として死なせてやりたいと思った。誇り高い彼は、自分を裏切った女に見取られることなど望まないはずだ。早く、この場所から去らなければ。



 ソファから、うとうととし始めたエヴァンを抱き上げた時、エルフリーデはその場に凍りつく。
『ウォルフガング・ミッターマイヤーに会って、その子の将来を頼むがいい…』
ロイエンタールは、確かにそう言った。遺言のつもりなのだろう。
 エヴァンがゆっくりとまばたきし、エルフリーデを見上げた。ケープの布地をぎゅっと小さな指で掴む。泣いた跡の残る目が、安心したように閉じていく。
『…それがその子にとっては最良の人生を保障することになる』
 残酷なことを言うのね、最期まで。
俯いたままのロイエンタールを、エルフリーデは振り返った。
エヴァンと離れるのは、身を引き裂かれるのと同じだ。できれば自分の命が尽きる瞬間まで、エヴァンと一緒にいたかった。けれど……。
「……いいわ。それがおまえの望みであるなら」
意思が挫けてしまわないよう、エルフリーデは声に出して言う。
まだオーディンに在った頃、一度だけ見たことがあるミッターマイヤーの面影を、彼女は思い出していた。
 手放そう。恃む人のない命僅かな身より、あの初夏の陽光に似た男の元の方がふさわしい。不吉な死の影で、エヴァンの人生を翳らせたくない。「福音」の名の通り、幸せであってほしい。
エヴァンを抱いたまま、エルフリーデは再び執務机の側に寄った。
 体を屈め、ロイエンタールの額に口づける。そのまま、同じように息子の額にも。今まさに逝かんとする父親のぬくもりを移すように。これが、最初で最後の両親からのおくりものだ。

「さようなら…。ヴァルハラで、会えるといいわね…」
ひそやかに、ささやく。
そして、エルフリーデは机の上に転がるブラスターを懐の内へ仕舞った。




 執務室の外では、従卒のランベルツ少年が不安げな顔をして立ちすくんでいた。
「あの…ロイエンタール元帥は…?」
「今、少し休んでいるわ」
自分の名を知りながらも、中へ通してくれた少年にエルフリーデは答えた。
「あなた、この子を預かってもらえる?」
「え?」
とまどいながら、それでも反射的に、ランベルツは差し出された乳児の体を抱きとめてしまう。
エルフリーデは、自分の命が削がれるような思いで、やわらかな感触を腕から離した。ミッターマイヤーを待ってはいられない。これ以上時が経てば、エヴァンを手離せなくなってしまう。
「この子を…ミッタマイヤー元帥にお渡しして…ほしいの」
声が震える。体を移してもなお、自分のケープの布地を握ったままだったちいさな指を、一本一本外していく。
 ―――ああ、きっと、この薄桃色の爪さえ恋しく思い出すわ。
真摯な少年の表情と、何も知らないエヴァンの穏やかな寝顔が涙でにじむ。
ランベルツは、自分には重責すぎる使命を口にするエルフリーデから目が離せなかった。言い知れない哀切と慈愛が伝わってきて、彼は奥歯を噛み締める。この願いに「否」の答えは有り得ないのだ。それが分かる。
「…わかりました」
ぎこちなくエヴァンの体を抱き直して、彼は答えた。
「ありがとう」
言い終わるかどうかのところで、エルフリーデはランベルツに背を向けた。そして廊下を歩き出す。彼はその背中を黙って見送る。
華奢な後影は一度だけ立ち止まったが、ついに振り返らず、自分の肩を抱くような仕草をした後、足早に曲がり角へと消えた。




新帝国歴二年十二月十六日、夕刻。
十七年にわたって刻まれたロイエンタールとエルフリーデの時は、ロイエンタールの死によって永遠に止まった。







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