新しい年が明けても、物語はなお幾許かの時を残している。


 ミッターマイヤーは、自らの執務室の窓前に佇んでいた。
真冬にはめずらしいあたたかな日差しが、彼の明るい色の髪を透かす。窓外では、常緑樹を励ますようにやさしくふりそそぐのが見える。
緊張に強張る顔を、ミッターマイヤーはわずかにゆるませた。

図らずも、皇帝に次ぐ地位と権力―――しかも今は唯ひとり―――を得た身にとって、その人を見つけるのは、さほど難しいことではなかった。軍と警備と司法の力を恃めば、彼女が身を寄せる小さな医院はすぐに見つかった。
躊躇がなかったわけではない。 間接的にとはいえ、亡き親友を謀反の罠に落とそうとした女、エルフリーデ・フォン・コールラウシュ。
彼女には複雑な思いがあるからだ。
迷う彼の背中を、妻のエヴァンゼリンが押した。あなたはフェリックスのお母さんに会うべきです、と。いつもの彼女らしくない頑強さで。

『会って、この子はきちんと私たちの手でたいせつに育てますと伝えてください。もし会いたいとおっしゃったら、ここへ連れて来て』
『だが、エヴァ、彼女は…』
『あなた。血の繋がっていない私たちでも、もうこんなにフェリックスが愛おしいのよ』
そう言って、彼女は腕の中で眠る息子に頬ずりする。
『……なのに、あの方は、どんなにつらかったことか……』

妻の涙声が、耳によみがえった。
ミッターマイヤーは窓から離れ、簡素な応接セットの方へ歩をすすめる。
もうすぐ、エルフリーデがこの執務室に現れるだろう。
ミッターマイヤー家ではなく、軍の執務室を指定したのは彼女の方だ。しかも、目立たぬように人の少ない休日を、と希望してきた。何の意図があるのか、ミッターマイヤーにはまだ分からない。現在の居場所が医院だというのも気になる。
 コン、コン。
彼の物思いを、ノックの音が断った。いよいよだ。
「入れ」
短く答えると、特別に出勤してもらった副官のアムスドルフが扉を開いた。
「お見えになりました」
告げる声は硬い。背後にエルフリーデが居るのだろう。
「通してくれ。お前は下がっていいぞ」
「はい」
扉の間から、アムスドルフの姿が消えた。ミッターマイヤーは我知らず息を止める。
黒い外套を腕に抱え、飾り気のない灰色のワンピースを着た小柄な人影が扉の傍から姿を現した。一歩、一歩、静かな足取りで彼の方へ来る。
亡き親友が唯一腕の内へ留め置いた女。フェリックスの母。
ロイエンタールの叛意を告発し、さまざまな媒体を賑わせた日々から十ヶ月。ミッターマイヤーの記憶にあるその姿と、現在の彼女はあまりにも違っていた。
あの時のエルフリーデは、薄く鋭い刃物のようだった。目には険が在り、傷ついた獣の、人を寄せつけない痛ましさを感じさせた。だが、今彼の目の前に居るのは、先ほどの日差しを思わせるおだやかさを湛えた女性だ。淡い青の瞳は驚くほど澄み、ミッターマイヤーの視線を受けとめる。
「初めてお目にかかります。エルフリーデ・フォン・コールラウシュです」
エルフリーデが会釈と共に名乗った。やや幼い印象を与える外見とはうらはらに、その声は落ち着いている。
「ウォルフガング・ミッターマイヤーです」
しばしの沈黙が、流れる。
ふたりは言葉を続けず、ただ灰と青との瞳で見つめあった。相手の心をよぎるものが数多くあることを、十分すぎるほど分かっていたから。
 


アムスドルフが慣れない手つきでコーヒーを持って現れたのを潮に、ふたりはやっとソファへ腰を下ろした。
「あの子は、元気にしています。ミルクをたくさん飲んでよく眠る、いい子です」
先に口を開いたのは、ミッターマイヤーだ。
「……名が、分からなかったので、フェリックスと呼んでいます」
「フェリックス…。可愛い名ですね」
彼にはエルフリーデがかすかに笑むのが分かった。
「古い言葉で幸福を意味するそうで、妻が名づけました。でも、もしあなたのつけた名を教えていただけるのなら、これからは元の名で呼ぼうと思っています」
それは、エヴァンゼリンも承服していることだ。親のつけた名を残す方がいい、と彼らは話し合って答えを出した。
しかし、エルフリーデは首を振る。
「私のつけた名も、同じような意味の名でした。だからどうか、そのままフェリックスと呼んであげて下さい。新しい名と新しい生活があの子にあることが、私も嬉しいのです」
我が子の成長を祈るように、彼女の白い指が組み合わされる。ミッターマイヤーも強くは押さず、
「では、そのままで…」
と小さく返した。
エルフリーデを前にして、なかなか言葉が出てこない。
居所を見つけたとの報を受けてから今日まで、言いたいことや訊きたいことを数多く抱えてきた。なのに、今日はそれらの詰まった箱を何処かに置き忘れてきたような気分だ。

「……あの子をあなたに育ててほしいと願ったのは、ロイエンタール元帥自身です」
少し低くなったエルフリーデの声が、思い沈むミッターマイヤーを我に返らせる。
「あいつが…?」
従卒から『この子を渡してくれと頼まれた』と聞いた以外、ふたりの間にどのようなやりとりがあったのか、ミッターマイヤーは知らない。
 今、初めてそれが明かされる。
「はい。死の間際、我が子を託せるような友を持つことができて自分は幸福だ、と彼は言いました」
「…幸福…」
我知らず、彼はつぶやく。
そのひと言が、ミッターマイヤーの胸を熱で満たした。
「確かに、そう言いました。自分は幸福だと」
ゆっくりとエルフリーデはくり返す。
「そう…ですか…」
ロイエンタールの端正な面影が脳裏をよぎる。
幼少から心に傷を負い、重い枷を曳きながら生きてきた親友。ささやかな幸福を追い求めながら、ついに其処へ安住することがかなわず、逝ってしまった。
冗談めいた口調で野望を語る彼の、言葉に混ざる本気の棘に気づいていながら、結局は止められなかった自分。
許せなかった。誰よりも、自分自身が。
おれはたったひとりの親友を救うために、本当に力を尽くしたと言えるか?
絶望の中で死なせてしまったのではないか?
あの日からくりかえし続けてきたきつい自責の縛めが今、そっとゆるめられる。

最期に、幸福だと思ってくれたのか……。

「だからどうか、ご自分をお責めになりませんように……」
エルフリーデのやわらかな声で慈しみに包まれ、ミッターマイヤーは彼女を見つめる。
その視界がにじむ。
こらえようとする間もなく、頬を涙がすべり落ちていく。
静かに。次々と。

ロイエンタールを失った。
その、純粋な悲しみが胸に抑えかねてあふれだす。

おれは、さみしいんだ、ロイエンタール。それが何よりもつらい……

誰にも言えない、正直な弱音。
それを自覚することで、また少し気持ちが軽くなってゆく。
不思議だった。信頼する部下の前でさえ涙は隠したというのに。やり場のない無念から一度は憎んだことさえあるエルフリーデに、彼は救われたのだ。
ミッターマイヤーは懐からハンカチを出し、濡れた頬をぬぐった。
水色の生地が、濃い青に変わる。
視線を上げると、瞳にうっすらと涙を浮かべて、しかしおだやかさは失わずに、エルフリーデが彼を見つめ返していた。

―――この人は、失われようとしている。
ふいに、ミッターマイヤーの武人としての本能が告げた。
今のエルフリーデの目は、『皇帝をたのむ』と言った彼の親友の目と同じだ。
死の覚悟と、諦めと、優しさを秘めて、見る者の記憶へ永遠に刻まれる目。
ミッターマイヤーは、フェリックスをここへ連れてこなかったことを悔いる。
彼女の居所が病院だったのは、おそらく病のため。ロイエンタールの遺言を守り、愛しいわが子を手放したのも同じ理由だろう。
今日、この執務室を指定してきたのは、もう息子に会うつもりがないからなのだ。エルフリーデがフェリックスを腕に抱けば、どうしても自分たち夫婦は複雑な感情を覚える。その心情を慮ってのことに違いなかった。

フェリックス……。

今頃、お気に入りのクリーム色の毛布に包まれて眠っているはずの息子に、ミッターマイヤーは遠く語りかける。

 おまえが大きくなったら、誰よりも誇り高く怜悧だった父の思い出をたくさん語ってやろう。
 そして、悖る運命に翻弄されながらも、おまえというちいさな光を守った、愛情深い母のことも……。



「では、私はこれで…」
小さく言って、エルフリーデは立ち上がる。
酸素吸入器の助けなしで行動できる時間の、限界が来ようとしていた。おそらく、初めてこの部屋に入って来た時より、顔色がくすんで、青白くなっているだろう。この場で倒れるわけにはいかない。
「もう、ですか?」
思わずというように、ミッターマイヤーも立ち上がる。
その問いに、エルフリーデはただうなずいた。
ロイエンタールの遺した言葉を伝えること。
……最後に残された彼女の役目は、終わったのだ。
「どうぞ、ご健勝で。あの子をお願いします」
腕によみがえるあの柔らかな重さ。小さくて力強い指。甘やかな香り。
エヴァン――今はもうフェリックスと呼ばれ、愛されているに違いない息子の事を思い出すだけで、エルフリーデの肺の痛みは去ってくれる。
「フェリックスは、私たちの手でたいせつに育てます」
真摯さが伝わってくるミッターマイヤーの表情に、エルフリーデはあらためて、ロイエンタールの遺言の正しさを知った。

私たちより、はるかに親としてふさわしい人たち。その通りね…。

「親鳥の足の下にいれば、雛鳥は死なない」。あなたが教えてくれたことを守ったわ。


最後に再び、扉の前でふたりは向かいあった。
ミッターマイヤーが、大きな手を差し出す。
エルフリーデの細い指が、その手をそっと握る。
「…さようなら。ミッターマイヤー元帥」
「さようなら。フラウ・コールラウシュ」
できるかぎりの笑みで、ふたりは別れを告げた。
ロイエンタールと、フェリックス。ふたりを繋ぐ、ひとりの死者とひとりの生者とを想いながら……。




軍務省の建物を後にすると、朝吹いていた木枯らしは止み、午後の日差しが煉瓦の道をあたためていた。
エルフリーデは目を細め、肺に負担がかからないようにゆっくり深呼吸する。熱の倦む胸に、冷たい空気が心地いい。
かつて手にしたもの、すべてはもう、この手にない。けれど、哀しみは湧かなかった。
すべてを終えて、ただ安堵だけが彼女の心をつつむ。
ニルケンス、サンズ、ジェマイエ夫人、ファムク……そして、フェリックス。
どうか、残してゆくすべての人々が幸せでありますように―――。
心からエルフリーデは祈った。

足を止め、清冽に澄む真冬の青空を見上げる。
『…エ…ルフ…リーデ…』
とぎれとぎれに、彼女の名を呼ぶ声が甦る。
オスカー・フォン・ロイエンタール。
今は憎しみが洗い流され、ただ、彼が恋しい。
「オスカー…」
一度も呼べなかった名を、エルフリーデは空の青へそっとささやく。
白い息が淡くけぶって、消えた。








「せんせーい!」
最近、やっと元気を取り戻してきた声が聞こえてくる。
墓石の前にひざまずいていたサンズは、背後を振り返った。
「おはよう、ファムク」
「おはよう、先生」
丘を登ってきたファムクとジェマイエ夫人が、声を合わせて答える。
「やっぱりここだったのね。今年初めてのリラを花屋で見つけたから、ここに違いないと思ったわ」
自らもリラの大きな花束を抱えて、ジェマイエ夫人がほほえむ。彼女とファムクはサンズの隣に並んだ。
「エルフリーデさん、春が来るの楽しみにしてたのにね」
残念そうに眉を下げて、ファムクが墓石をみつめながら言う。
「そうね。春の盛りに咲くリラが好きだって言ってたのに…」
「待たずに、逝ってしまったなぁ」
すっかりあたたかくなった風が、リラの薫香をさらっていく。遠く、天上まで。


エルフリーデが息を引き取ったのは、二月の初めの寒い夜だった。
彼女は、ヨルゲンセン結核の末期を迎え、薬による延命も酸素吸入器の助けも拒んだ。そしてその夜、今墓石の前にいる三人が見守る中、深い眠りに落ち、そのまま目を覚ますことはなかった。
『ありがとう』
消え入りそうに言ったのが、最期の言葉だった。
遺言はたったひとつ。
丁寧に絹のスカーフに包んで抽斗にしまわれていた、一丁のブラスターと共に葬ってほしい、とだけ。
そのブラスターは、彼女がハイネセンから戻った時、小さな息子の代わりに胸に抱いていたものだった。持ち主はたぶん―――
ロイエンタール元帥。
高き矜持ゆえに叛した英雄。歴史にはそう記される。
そしてエルフリーデは、英雄を罠にかけようと企てた悪女として、歴史に染みを落とす。
しかし、彼らだけは知っている。
察しがたい秘密を胸に抱きながら、残りわずかな命をひたむきに生きた、ひとりの女性のことを……。








終   章


大学病院の廊下は、顔をしかめる患者と慌しい看護師、医師を呼ぶ館内放送で賑々しい。
早足でやって来る看護師長の徽章をつけた女性を避けて、その学生は観葉植物の陰に隠れた。
腕時計に目をやると、約束の待ち合わせ時間をもう十五分も過ぎている。
念のため、もう一度ドアに貼られたプレートを見た。『呼吸器科助手室』。やっぱり間違いない。だが、部屋には鍵がかけられ、人の居る気配はしない。
どうしたんだろう。ここを紹介してくれた教授のところまでもどろうか――そう考えた時、
「おーい!」
バタバタという足音と共に、大柄な男が廊下の向こうから呼ばわった。年は三十ほどだろうか。
「遅くなってすまんな。入ってくれ」
近寄って来ると、さらに迫力が増す。だが、伸び放題跳ね放題のくすんだ金髪、所どころカギ裂きのある白衣、すこし猫背ぎみなところなどが、奇妙な親しみやすさも感じさせた。
助手の男はポケットからカードを出すと、部屋の扉を開ける。
学生は会釈をしてから、その後に続く。
予想通りというべきか、部屋の中は雑然としていた。壁にぎっしりと設えた書庫にも収まりきれず、床にまで本が積んである。
「しかし君も酔狂だなぁ。軍人か官僚を目指せばよかったのに、フェリックス・ミッターマイヤー君」
自分の机の上の、雪崩を起こしそうな書類の山を申し訳程度に整えながら、助手の男は言った。
一瞬、学生の動きが止まる。どうやら男は、山の一番上に置いた自分の資料を見ているらしい。 故ロイエンタール元帥の実子にして、ミッターマイヤー国務尚書の養子。重いふたつの名を負うフェリックスは、二十歳になった。そして、父たちとは違う、医者という道を選んだ。
「そうですねぇ……」
小さく、フェリックスは苦笑する。
今まで何度も他人の口から聞いた台詞だが、助手の男の言い方には、勘繰るような嫌な感じがない。彼はただ純粋にもったいないなぁ、と思っている様子だ。
「軍人も官僚も、僕には向いてない気がしたんですよ」
だから、フェリックスも素直に返した。それ以外の理由はなかった。
父も母も、自分の好きなようにしていいと言ってくれたことだし。
「へぇー。そうか。まぁ、万年人手不足のうちとしちゃ、たとえ研修医でも嬉しい限りだけどな」
感心したようにうなずいて、助手の男はそれ以上根掘り葉掘り訊ねない。
さらに、遠慮なくバリバリ働いてもらわなくっちゃな、などと穏やかでないつぶやきも付け足す。
「先輩は、どうして医者になったんですか?」
何となく、居心地の良い場所を見つけたような気がして、フェリックスは嬉しくなってきた。
「おれ?おれはな、初恋の人がヨルゲンセン結核で死んじまったんだよ。だから、治療法の研究がしたくてさ」
「ロマンチストなんですね」
「顔に似合わず、な」
二人は、顔を見合わせて笑った。それが許される雰囲気が、もう二人の間には出来上がっていた。
ふと思い出したように、助手の男が首から提げた身分証の札をつまむ。
「まだ名前言ってなかったな、すまん。俺は呼吸器科助手のファムク・ジェマイエ。よろしく」
節のしっかりした手が、机の向こう側から差し出される。
「よろしくお願いします」
フェリックスは笑顔で、その手を握り返した。







+++ ende +++











<長い長いあとがき>

長々とおつきあい、ありがとうございました。
ロイエンタール×エルフリーデ好きといたしましては、常々「このふたりの関係の設定ってかなり意味深で良いのに、一緒のシーンが少なくてさみしいな」と思ってました。それで、よりふたりの関係を妄想で固めて(いつもの事ですが…)、長い物語に仕上げてみました。
書きたかったことは、まぁ、だいたい書けたかなぁという気がします。
特に最終章のミッターマイヤーとエルフが会うシーンは、ロイエンタールの本当の遺言を伝えられるのはエルフだけで、これこそが彼女の存在意義だと思っていたので、書けて満足しています。ロイエンタールからみれば、「光」のかたわれがミッターマイヤーで、「闇」のかたわれがエルフリーデだったのかなという気がします。

後悔は、フェザーン下町トリオのサンズ・ジェマイエ夫人・ファムクをあまり上手く書けなかったことでしょうか。孤立無援のエルフの心の拠り所として、もっと登場シーンを多くしたかったのですが、なにぶんにもオリジナルキャラですし、少し控えました。
ラストに加えた終章は、完全に私の自己満足です(笑)。こうなったらいいな、という……。

これで私の書くロイエル話は終わりではなくて、まだまだ二人が暮らしていた頃の話などを書きたいと思ってますし、「黒の贖罪〜」の反動か、ロイエンタールがラインハルトに背かなかったという設定でのパラレルなんぞにも手をつけていますので、しょうがない、読んでやるか…という貴重な方は、どうぞおつきあい下さいませ。

2006.09,06