時が、流れた。
ふたたびの戦火が、新たなる領土を包む。
限界まで引き絞られた新領土軍の弓は、烈風の矢を帝国軍へ降らせた。
一国に王は並び立たず、反逆者は奸臣と呼ばれるのみ。それでも、双璧のひとりと尊称された男は、美しく猛き皇帝へ反旗を翻したのだ。
望むは宇宙の覇権か、あるいは死か。
それは、ロイエンタール本人にさえ分かっていなかったことだろう。

「双璧の二人が指しで勝負をしたら、どちらが勝つか」
帝国軍の下士官にとって、長い間、それは良い酒の肴だった。
ひとりが「『疾風ウォルフ』に一日の長有りだ」、と主張すれば、ひとりが「攻守の調和に優れたロイエンタール元帥の勝ちだ」と主張する。
決して答えが出ないと自明だからこそ、彼らはそれを楽しんでいたというのに。
新帝国歴2年、最後の月―――。
ランテマリオ星域にて、雌雄は決せられた。
なんとも苦い形で……。



 立体TVが、また同じ内容の臨時ニュースを流している。
『内部の背信行為により新領土軍は瓦解。艦艇が続々とハイネセンへ帰投しつつあり。間もなく今回の戦役は終結の模様…・・・』
未だ興奮冷めやらぬ様子のアナウンサーの顔から、エルフリーデは視線を外した。
 彼女には裂けなかった、ロイエンタールと皇帝の強靭な絆。
それを結局、ロイエンタールは己の手で断ち切ってしまった。おそらくは、一番大切な存在である親友をも巻き込んで。
エルフリーデは簡素なベビーベッドの傍に寄り、小さな足を動かして遊ぶ息子の顔を見つめる。
「エヴァン…」
呼ぶ声が、掠れた。
 あなたの父親は、やはり、破滅の道を選んでしまったわ。自ら望むようにして…。
ロイエンタールを止められなかった。意図したことは、何ひとつ成し遂げられなかった。
病院を脱け出してから今日まで、ずっと彼女を苛み続けた無力感がまた大きく膨らむ。
「負けたわね」
部屋の隅のソファに腰掛けていた女が、短く言い放つ。
エルフリーデの逃亡を助け、山中に在るこの隠れ家に匿ってくれたその女は、ドミニクといった。
『ローエングラムが嫌い』と言った彼女は、ここへ着いても、あまり多くを語らなかった。
エルフリーデに分かっているのはわずかなことだけ。、自分にまだ利用価値があると見込んだのが、野望を捨てられない旧フェザーン自治領主ルビンスキーで、ドミニクは彼の”片腕"ということ。その他には、具体的な計画だとか、自分がどんなふうに「利用」されるのかなどは、一切分からないままだ。
エヴァンと引き離されたくない一心で、言われるがままついて来たものの、特に何かを命じられるわけでもなく、もう半年以上もの月日が過ぎた。その間彼女はこの部屋で、混迷する帝国の事象を、全くの傍観者として見守らねばならなかった。
「…そうね。馬鹿な男だわ」
ため息とともに、エルフリーデは答える。
真実も、本心も、誰にも告げる気はなかった。
ドミニクは彼女とエヴァンに多くの気配りをしてくれたが、どこか得体の知れないところがある。ルビンスキーに従順なように見えて、その実自分なりの戒律に従っているような…。
エルフリーデは手を伸ばし、病身には少しつらく感じるほど重くなった息子を抱き上げた。
そして、赤い髪の妖艶な女を振り返る。
「ドミニク」
「なに?」
「これで、私の利用価値は無くなってしまったわね。…親切にしてもらったのに」
「世間では、あなたはずいぶんな悪女みたいに言われてるっていうのに、意外とお人よしね」
ドミニクが少し、ほほえんだように見えた。
エルフリーデはそのまま彼女に歩み寄る。
「勝手なのは分かってるわ。だけど、私を出て行かせて」
もう、ここには居られなかった。
エルフリーデが死の手に沈められようとしているのと同じく、遠く新領土に在るロイエンタールもまた、死の奈落へ急ごうとしている。
残された少しの時間の中で、エルフリーデには為さねばならないことがあった。今ならまだ間に合うかもしれない。
ただひとつの果報が、無力感に萎える彼女の足を支えていた。それは、彼女の病状が小康状態にあることだ。時折、酷い咳に襲われるのは変わらなかったが、自分の体が自由になる寸手のところで、悪化は免れている。
「……行くつもりなの?ロイエンタール元帥のところへ」
瞳に複雑な色をたたえて、ドミニクが訊く。
エルフリーデは答えなかった。それが答えの代わりになっただろう。
「分かったわ。地上車を用意してあげる。あとは自由にしなさい」
いつもの優雅な身のこなしで、ドミニクが立ち上がる。
「ドミニク……ありがとう」
短い言葉に多くの想いをこめて、エルフリーデは言った。
素っ気なくはあるが、手厚く遇してくれたことや、彼女が望む処方箋――-不治の病の、苦痛を和らげるだけの薬―――を手に入れてくれたこと。多くの事情を、問わずにいてくれたこと。
「会えると、いいわね」
最後まで謎めいていた女は、何か懐かしいものを見たような目をしてから、部屋を出て行った。



 サンズの診療所は、半年前とまったく変わらぬ佇まいで、そこに在った。
診療時間は終わっているが、中からかすかに、サンズ医師とジェマイエ夫人の声が聞こえる。
意を決して、エルフリーデは扉を開いた。
「エルフリーデ!あなた…!」
まず声を上げたのは、ジェマイエ夫人だった。
「あの、すみません、私…」
言い終わらないうちに、エルフリーデは腕の中のエヴァンごと、ジェマイエ夫人の胸に抱き寄せられていた。
「ニュースを見て、驚いたし、心配したのよ!」
どうやらふたりは、彼女の素性に気づいたようだ。ロイエンタールの告発者として、大々的に報じられたのだから仕方がない。
それでもこうやってあたたかく迎えてくれることを、エルフリーデは感謝した。胸が熱くなり、涙があふれそうになるのをぐっと堪える。彼女に残された、たったひとつの居場所。自分には過分なほど、やさしい人たち。
「とてもかわいい子ね」
腕を離したジェマイエ夫人が、エヴァンの顔をのぞきこむ。エルフリーデはほほえんで、息子の体を彼女に預けた。手馴れた様子で、ジェマイエ夫人はエヴァンをあやし始める。
「よく、無事で…」
後ろに控えていたサンズが、エルフリーデの傍に寄った。元々華奢な人だったが、青白く見える顔色が、さらに彼女を幽遠に見せている。思わず、彼はエルフリーデの上腕を掴んでいた。皮肉なことに、平熱より高く感じる体温が、彼女の生きている証となる。
「先生、本当にすみませんでした」
エルフリーデが、申し訳なさそうに眉を下げてうつむく。
そんな彼女の様子と、報道番組や新聞で伝えられたエルフリーデ・フォン・コールラウシュの姿が、サンズの中では重ならない。
英雄を陥れようとした、偽りの告発者。彼女が、本当に…?
素性が分かった後でも、謎は深まるばかりだ。
『惜しくありません。自分の命は。でも、この子の命は惜しいんです』
そう言わしめたのが、復讐の心だとは思えない。
仇敵の子なら、なぜ堕胎を薦めた時、彼女は頑なに拒んだのか。残り少ない命を賭してまで。
あまりに多くの疑問に、サンズはどれも問うことができなかった。仕方なく、エルフリーデの腕から手を離す。

「ジェマイエ夫人。我侭を承知で、お願いがあるんです」
少し経った後、きつく握った拳を胸に当て、エルフリーデは顔を上げた。決意に、表情が硬い。
「私に何か出来ることがあるんなら、直ぐにおっしゃい」
間髪を入れず、ジェマイエ夫人が返す。
「ご主人のいらっしゃる船に、乗せていただけないでしょうか?」
「・・・船?ベリョースカ号のこと?」
さすがに、次の返事は遅れる。
 別棟に入院したばかりの頃、ジェマイエ夫人は夫の職業が航法士だとエルフリーデに教えてくれた。船が駐ハイネセン弁務官オフィスの所属になったりした事もあって、年の半分以上は家に居らず、ひとりで子供たちの面倒みるのも大変なのよ、と苦笑交じりにこぼしたのだ。
彼女はそれを覚えていた。
「…まさか」
そう言ったのは、サンズとジェマイエ夫人、ほぼ同時だった。
「ロイエンタール元帥のところに行くつもりなの?」
「無茶だ」
それぞれの言葉が続く。
内乱の決着はついたと聞いているから、航行の方は何とかなるかもしれない。しかし、ワープ航法に今のエルフリーデが耐えられるのかどうかは不分明だ。
「この子を、父親に会わせなければ」
エルフリーデの青い瞳に、強い光と、涙が宿った。熱に灼かれて強さを増す鋼のように、死を前にした彼女は毅然として立つ。
それを目にしたサンズとジェマイエ夫人は口をつぐんだ。
ロイエンタールの戦死は未だ、報じられていない。ただ、敗戦だけは確実になった。たとえ生き残っていたとしても、死罪と決まっている。

 その前に。どうか……

痛々しいほどのエルフリーデの願いが、沈黙の中につたわる。
「いいわ。夫から、船長に頼んでもらうわ。しばらくイゼルローンに居たけど、一週間前に帰ってきたの。何とかなるでしょう」
頷きながら、ジェマイエ夫人はついに言った。サンズは、黙したままだ。
「ありが…」
「その代わり」
お礼を言いかけたエルフリーデを、ジェマイエ夫人が遮る。
「約束してちょうだい。必ず帰って来る、って」



 ほとんどが軍用に徴収されたフェザーン宇宙港の片隅。小さく区切られた貨物用エリアに、ベリョースカ号は駐められていた。
だんだんと、核エンジンの低い唸りが大きくなる。
「帰ってくるのよ、いいわね。必ず帰ってくるのよ」
乗員用の圧力扉の前で、ジェマイエ夫人は繰り返した。同時に、エルフリーデの両肩をぐっと握る。その肩の薄さが、いっそうジェマイエ夫人の胸を苦しくさせた。
「だいじょうぶだよ。前もね、エルフリーデさんは、ぼくとの約束まもってくれたもん」
サンズに手を引かれたファムクの声は明るい。司法省に向かう道の途中で交わした約束を、彼はまだ覚えていた。
「みんなで、待っているから…」
片方の手で栄養剤と痛み止めの入った袋を渡しながら、サンズも言う。
「はい。必ず帰ってきます。わたし、ここが好きですから」
慣れない音に怯えてか、むずがりはじめたエヴァンを抱き直し、エルフリーデはなるべく大きな声で答える。
「さぁ、そろそろ行きますよ、お嬢さん」
扉の奥から、いかにも人の良さそうな風貌をしたベリョースカ号のマリネスク事務長が顔を出した。その背後にはジェマイエ夫人の夫が居て、任しておけ、と言いたげに胸を叩く。
「ごめんなさい。ありがとう…!」
ジェマイエ夫人の手から離れ、エルフリーデはタラップを昇った。あっという間にそれは内部へ収納され、圧力扉が閉まり始める。
「エルフリーデ!」
サンズが名前を呼ぶと、小さな丸い窓ごしに、また『ありがとう』と動く彼女の唇が見えた。
ベリョースカ号から出発の信号弾が撃たれ、その赤いレーザーは青く晴れた空に吸い込まれる。
ひときわ大きく駆動音を響かせた直後、小ぶりで有能そうな船体は宙へ浮かび上がった。
心配そうに見上げる、三つの影を地上へ残して。








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