乾いた寒風の中、ニルケンスは広い庭の片隅で佇んでいた。
視線の先には、淡い外灯に照らされた小さな苗木がある。か細く頼りなげに見えるが、小枝からほんのすこし顔をのぞかせた若芽が、たしかな息吹を示す。
日常のささいな事以外何も望まなかったエルフリーデが、彼にたったひとつした依頼。それは、リラの苗木を見つけてほしいということだった。
「春の盛りに、きれいな花が咲くのよ」
ニルケンスが細い根に気をつけながら土に植えている横で、彼が好きな、そしてそれがエルフリーデの本来の姿なのだと信じて疑わない優しい目をして、彼女は言った。
 なぜ植えるのか、なぜリラでなくてはならないのか、ニルケンスは理由を問うていない。
あれから、幾月が過ぎたことだろう。
エルフリーデはこの屋敷から姿を消してしまった。屋敷の主人は、探すそぶりさえ見せなかった。
秀抜な執事である証に、己の職域をわきまえたニルケンスは、決してロイエンタールの生活に口出しをしない。しかし、エルフリーデが居なくなってから後、大切な主人の表情には尖鋭さが増してきたように思われて、心懸かりなのだ。
 そして今夜、久しぶりにここへ帰ってきたロイエンタールは、ニルケンスに上着を渡しながら、
「安心しろ。あの女はもう二度とここへは帰ってこない」
そう告げた。
「エルフリーデお嬢さまが、どうかなされたのですか?」
ニルケンスが問いかけると、
「俺を反逆罪で司法省に告発した。やっと復讐を実行する気になったらしいな」
ロイエンタールは金銀妖瞳をかすかに伏せ、冷ややかな笑みを口元に刷く。
「そんな……」
茫然とするニルケンスを置いて、彼の主人は背を向けて行ってしまった。
委細を問うことも、エルフリーデを庇う隙も与えられなかったニルケンスは、飲み込んだ言葉が喉に苦しく詰まる。
ロイエンタールとエルフリーデ。彼らを隔てるものが何なのか、ニルケンスは知らない。だが、過去数多の女性を一顧だにしなかったロイエンタールが、唯ひとり傍らへ束縛したエルフリーデとの間には、おそらく言葉にならない複雑な想いがあるのだ。
 その忖度を裏付けるかのように、階段を昇ってゆくロイエンタールの背中に、ニルケンスは隠しきれないかすかな落胆を見つけてしまったのだった。

 ロイエンタールは、誰の手にも負えないと匙を投げられた気難しい子供だった。
不貞の子という出生の憐れさを差し引いてもなお、子供らしい可愛さを持たない小癪な跡取りは、使用人たちに疎まれていた。
 ニルケンスが、彼の不器用な優しさに気づいたのはいつの頃だったろう。
 なぜかニルケンスだけが、ロイエンタールに仕えることに気詰まりを感じなくなっていた。或いは、身寄りを持たないという同じ境遇が何処かで共鳴したのかもしれない。
 風を受けた麦穂が逆らわずなびくように、素気無いロイエンタールの言葉の真意を汲み、もう二十年以上もの月日、ニルケンスは彼と共に在る。だからこそ、ロイエンタールの変化を察して心痛が増す。
 復讐、反逆罪。何と唐突で嫌な響き。
 なぜエルフリーデがそんなものをロイエンタールに投げ付けたのか、ニルケンスには分からない。彼に分かっているのは、二人はきっと分かり合えるはず…という事だけだった。何故なら、ニルケンスはエルフリーデにもまた、自分やロイエンタールと同じ孤独の面影を見たのだから。
 小さな悲鳴に似た音をたて、枝々の間をまた風が抜けていく。
「帰って来てください、お嬢さま・・・」
その風から庇うように、ニルケンスは苗木の傍へひざまずいた。




 同じ時刻。
ロイエンタールは、椅子に深く身を預け、暗い天井を見上げていた。
当初、司法省へ持ち込まれた反逆の告発は、内国安全保障局へと管轄を変えた。「あの」ラングとオーベルシュタインの手に渡ったというわけだ。彼はさして驚きはしなかった。尤もな理由でもつけて、ブルックドルフの手からもぎ取ったのだろうと予想はつく。
 幸いな事にラインハルトはその告発を憂慮こそしたものの、ロイエンタールをその場で断罪することはなく、謹慎に留めた。
「ではよい…」
そう言った瞬間、ラインハルトの表情に差した明るさで自分の信任の厚さを知った。ラングとオーベルシュタインの諫言を悉く聞き入れるつもりなら、わざわざ昔日の話など持ち出さなかったはずだ。
 今のロイエンタールには、明確な反逆の意思はない。
 体の奥深く、形を成さぬ凶獣のように蠢く黒い宿志は、未だ封じられている。
 ロイエンタールは視線を下ろし、半分だけカーテンの引かれた窓辺へ移す。しかし、その金銀妖瞳には昼間遭遇した景色が映し出された。
 形ばかりの書類を作成するために足を運んだ内国安全保障局で、彼は三ヶ月ぶりにエルフリーデに会った。否、「見た」というべきか。
 社会安全保障局は、平行に通った二本の渡廊で繋がれた小規模のビル二つを接収して置かれていた。
 ミュラーに先導されてその渡廊を進んでいると、もう片方の渡廊から三つの影が現れた。前列に尉官の軍服を着た男二人。後列に、俯いて歩く女の影―――淡い色の長い髪が、風にさらわれてふわりと舞う。場違いなほどしなやかなその様子に、リラの花びらが散る幼い日の幻影が重なる。
 妊娠七ヶ月と聞いているから、かなり膨らんでいるであろう彼女の腹は、渡廊の塀に隔たれて見えなかった。
 前を歩く尉官二人が、向かい側に見えた首脳幕僚二人に気がついて歩みを止める。素早く姿勢を正して敬礼をした後、慌てた様子で後ろから来るエルフリーデに何か声をかけた。ロイエンタールの名を告げたに違いない。しかし、彼女は尉官に向けて顔を上げただけで、こちらを見はしなかった。ただの一度も。
 ロイエンタールの目には、ひたすらに前を見据えるエルフリーデの横顔だけが映った。その表情は、堅牢な意思に裏打ちされて、傑出した刃物のように美しかった。
 ―――それでこそおまえだ。
奇妙な喜色が、ロイエンタールの胸を満たす。彼女がこれまで見てきた女たちと同じに、依存してくる存在に成り下がっては興醒めだった。どうやらそれは杞憂で済む。
 彼が破滅するところを見届ける、と言ったあの言葉をエルフリーデは果たすつもりなのだ。最初の一撃はロイエンタールとラインハルトの間に在る信任が盾となり、息の根を止めることはできなかったが。
 そうだ。忘れてしまえ。あの夜のことなど。他人と心が通じ合ったなどと思うのは錯覚だ。
ロイエンタールは瞼を閉じ、右目の上を掌で覆った。かすかな脈動が疼痛を運んでくる。
「これで、いいんだ。……憎しみだけでいい」
彼の掠れるほどの低い声音は、夜陰に吸い込まれて消えた。




 私はここで死ぬんだわ。
エルフリーデは本気でそう思っていた。それほどの痛みが、わずかな間を置いて襲ってくる。命を産む最中に、こんな死に近い縁に立たされるとは……。
 陣痛が強くなり始めて、もう半日近く。彼女はやっと分娩室まで来たが、まだお腹の子は生まれてきてくれない。
 痛みに霞みがちな意識の中、エルフリーデは後悔に苛まれていた。「今死ぬなら、あの男に会っておけばよかった」と。
 もう三ヶ月近くも前、内国安全保障局でたった一度だけ与えられた機会を、彼女は黙殺した。
 ロイエンタールの姿を一目でも見てしまったら、縋るような目をしてしまいそうだったからだ。それでは、自分が必死に考えた計画が水泡に帰す。エルフリーデは惧れ、一切視線を合わせなかった。
 それが、結局は仇になってしまったのかもしれない。
陣痛がすべての虚勢を剥ぎ落とし、素のままになった感情が訴える。
 会いたい。
威丈高な金銀妖瞳も、額にかかる濃い色の髪も、冷たいだけの背中も、何もかもが懐かしかった。
 荒い呼吸で、喉の奥が絞まる。下半身の張りつめた痛みと相俟って、苦しさが増す。エルフリーデの脳裏に、サンズが見せてくれた白く霞む右肺の画像が浮かんだ。私の肺は、この難行に最後まで耐えてくれるだろうか。
現実的な不安が、却って彼女の意識を鮮明にさせた。
 駄目。ここではまだ死ねない。
「しっかりして。頑張るのよ」
淡い緑のスモックを着た看護師が、額に吹き出す汗を拭いてくれる。それと同時に、また腰骨を粉々に割られるような激痛が突き上げてきた。
「・・・・ううっ」
エルフリーデは思わず、食い縛った歯の間から声を洩らす。
医師が不思議がるほど、お腹の子は陣痛の間隔が短くなっても彼女の胎内にすがっていた。まるで、待ちかまえる“現実”の厳しさを知り、拒んでいるようだ。
 ―――大丈夫よ。
知らず知らずのうちに、エルフリーデはお腹の子に話しかけていた。
 私が愛してあげるわ。長くは一緒にいられなくても…たくさん愛してあげるわ。だから、どうか怖がらないで。

 それからさらに二時間の後、ロイエンタールとエルフリーデの子はついに生まれてきた。
「おめでとうございます。男の子ですよ」
看護師が疲れた顔にほほ笑みを浮かべながら、嬰児をエルフリーデの胸に乗せてくれる。まだところどころ血に濡れたその子は、思いがけないほど重く感じた。小さな口に溜まった羊水をむせて吐き出した後、激しく泣き始める。無機質な造りの分娩室に、なまなましい生の謳が響く。
「私の、子…」
エルフリーデは震える手で、わが子の赤い頬に触れる。温かい。みるみるうちに目に涙が浮かび、頬を伝って流れていった。
 彼女の生きた証。ちいさな分身。誰にも顧みられない、哀しい愛の形見。それでも、例えようがないほどいとおしい。
 神が生まれ来る子に等しく与えるという祝福を、どうかこの子にも……。
切実な祈りは、目に見えぬ至高の存在に届くだろうか。
ほとんど直感的に、エルフリーデはその子の名前を決めた。
 「エヴァン」(福音)と。




 病院中が寝静まった深夜。ミルクを飲んで満腹になったせいか、エヴァンはエルフリーデの腕に機嫌よく抱かれていた。
時折、母親の顔を確かめるように、じっと彼女を見上げる。
その瞳は澄んだ青。明るさを湛える両の瞳を見つめていると、エルフリーデは安堵する。きっとこの子は自分の力で負の連鎖を断ち切るに違いない、と……。
 首元に丸まった肌着の襟を折ろうと手を伸ばすと、エヴァンは小さな指でエルフリーデの人差し指を握った。生まれてまだひと月足らず。自我も定かでない息子の、可愛い癖。
 エルフリーデはささやかな幸福にほほ笑む。しかし、すぐに激しく咳き込んだ。思わずエヴァンをベッドの傍らに下ろす。ヨルゲンセン結核が感染性のものでないことは判っていたが、自分の咳が息子の健やかさに影を落とす気がして、エルフリーデは彼と逆の方へ身を離した。
吹子で強い風を送られたかのように、胸の中で燻ぶる病巣の火種が燃え上がる。呼吸のいとまを与えず、咳は後から後から彼女の肺を揺さぶった。
 サンズの忠告通り、妊娠・出産が体に与えた損傷は多大だったようだ。確実にエルフリーデの余命を削り取っていった。彼女は決して後悔していないが、同時に少しでも長く我が子のそばにいたい、という願いが叶わないことを思い知るのは切ない。
「大丈夫なの?」
不意に声をかけられて、驚いたエルフリーデは声のした方へ顔を上げた。
いつの間にかドアのそばに、女がひとり立っていた。濃い赤の髪の、艶やかな美人だ。
「あなた…誰?」
痛む胸を片手で押さえながら、エルフリーデは本能的にエヴァンを体で庇った。
「私はあなたを助けに来たの。怖がらなくてもいいわ」
「助けにって…」
女の言う意味が理解できないエルフリーデは、不信感でさらに眉根を寄せる。
「いいの?内国安全保障局は、あなたからその子を取り上げるつもりよ」
「えっ」
思いがけない女の言葉に、息が詰まった。
「あなたは知らないでしょうけど、オスカー・フォン・ロイエンタールは昇進して旧同盟領の総督に任命されたの。だから今後余計な問題が起きないためにも、早めにその子をあなたから引き離して、他人へ養子に出すらしいわ」
二つの事実が、巨大な槌のごとくエルフリーデを打ちのめした。
 彼女は内国安全保障局に身柄を移されて以来、局内の施設でもこの病院でも常に軟禁状態にあり、外部の情報を得ていない。ただ、まだ局内に居た頃、監視人達が「謹慎させられたらしい」と話していたのだけは聞いて、ロイエンタールが死罪を免れた事実に安心していたのに。まさか、あの一件が罪に問われないなどということがあり得るだろうか。
「信じないなら、これを見て」
彼女の心の内を覗いたように、女が折り畳んだ紙切れを広げる。それは新聞の記事だった。女の言葉を裏付ける見出しが、大きく記されている。
「そんな…」
言いかけて、また咳き込む。だが、今は胸の痛みより、皇帝とロイエンタールとの絆を綻ばせることが出来なかったことの方が、エルフリーデに重くのしかかっていた。しかも、旧同盟領の総督に任命されたとは。軍事に明るくない彼女でも、より強大な力を得たことが分かる。
 あの男に兵力を持たせてはならないのよ…!
それは、破滅への導火線に他ならない。
「これで、私の言っていることが本当だとわかったでしょう。その子を渡したくないなら、一緒にいらっしゃい」
口に当てていた手を外したエルフリーデは、女をまじまじと見つめた。
「あなたは一体何者なの?なぜ私にそんなことを教えてくれるの?」
「私はローエングラムが嫌いなだけよ。別の場所に着いたら詳しく教えてあげるわ。とにかく、今はあまり時間がないの。一緒に来るわね?」
女が初めて、少し焦れた様子を見せた。背後の扉を振り返って、外を気にしている。
エルフリーデは、エヴァンに視線を移す。いつの間にか、小さな息子は眠っていた。母の苦悩も知らぬげに、満ち足りて穏やかな寝顔だ。今のところ彼の世界のすべてである母が、護ってくれるとただ無垢に信じている。
 迷ってはいられないのだ、とエルフリーデは悟った。女の素性がどうであろうと、このままここに居れば何の行動も起こせず、ロイエンタールは破滅し、エヴァンは奪われてしまう。
「行くわ」
エルフリーデはベッドから下りた。軽い眩暈がしたが、足に力を入れて踏みとどまる。私服は取り上げられているので仕方なくガウンを羽織り、厚いタオルでしっかりと包んだエヴァンを抱いた。
「それじゃ、行きましょう」
女が促す。その後に続いてドアの外へ出ると、いつも詰めている保障局の警備員二人が、だらしなく来客用のソファにもたれて眠っていた。足元の床には、飲みかけの紙コップが転がって見える。女が何か細工をしたらしい。
 得体の知れなさが不安をかき立てたが、エルフリーデは唇を引き結び、照明の絞られた廊下を早足で駆けていく女の後姿を追った。
 目を覚まさないで、と腕の中の息子に願いながら。







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