「ねぇ、お願い。母さま。いいでしょう?」
不意に袖を引かれて、エルフリーデは我に返った。
淡い茶色の髪をふわふわさせた、5歳ほどの男の子が彼女を見上げている。ぱっちりと青い瞳を開き、必死な様子が可愛らしい。
「だめです。あなたのお願いばかりきいていたら、お部屋が本だらけになってしまうわ」
当然のように、エルフリーデは首を振った。
「そんなぁ〜。父さまはいいって言ったもん」
言い終わると同時に、薔薇色の頬がぷうっと膨らむ。
「面倒だからって、何にでも『いい』というのは止して」
エルフリーデの視界が背後に移ると、ソファにゆったりと腰掛けたロイエンタールが、片方の眉だけをすこし上げる。全く反省している様子はない。彼女はひと睨み牽制して、男の子のほうへ向き直った。
「よくお聞きなさい、・・・・・・」



名前は、聞き取れなかった。目が覚めてしまったから。
エルフリーデは灰色の天井に変わった視界を了知して、それが夢だったのだと解った。
ぎゅっと目をつぶると、瞳いっぱいに溜まっていた涙が目尻から流れ落ちる。かすかに温い。すっかり涙もろくなってしまっていけない、と彼女は自嘲する。
おだやかであまりにも普遍的な「家族」の情景。それなのにエルフリーデは泣いていたのだった。なぜなら、それは決して訪れることのない未来だからだ。予め失われてしまった幸福。ずっと考えないようにしていたから、夢に見たのかもしれなかった。
(・・・・・・行こう。手遅れになる前に)
おそろしいほど鮮明だった夢を、暗く秘めた計画で塗りつぶし、彼女は決心した。
「おはよー、エルフリーデさん!」
明るい声とともに、軋みながら病室の木扉が開く。エルフリーデはさっと袖で涙をぬぐった。
「おはよう、ファムク」
枕元に駆け寄って来た元気な男の子に、ほほえみかける。くすんだ金髪に茶の瞳のファムクは、夢の中で見た子の外見とはまったく違う。だが、ほとんど毎日会っているのだから、少なからず影響を受けたに違いない。
「ファムク、朝からさわがしくしないのよ!」
つづいて、母で看護婦のジェマイエ夫人が姿をあらわす。エルフリーデはもう一度、目尻をぬぐった。涙の跡など見られたら、この人の良い看護婦はますます心配するだろう。
「おはようございます、ジェマイエ夫人」
「今朝の調子はどう?」
問いかけながら、大柄なジェマイエ夫人は色の褪せかけたカーテンを開ける。真冬の硬い陽光がさっと差し込んで、ベッドの足の方を照らした。
「良いです。熱もないみたいだし」
エルフリーデはなるべく明るく答える。それでもジェマイエ夫人は、彼女の顔をのぞきこんで額に手を当てた。
「本当ね。よかったわねぇ」
にっこり笑って、今度は傍らの椅子に置いてあったクッションを取って、起き上がるエルフリーデに手を貸してくれる。そろそろ妊娠7ヵ月を迎える体が楽なように。
ここの病院に入院して3ヶ月。荒地を裸足でゆくような彼女にとって、サンズ医師とジェマイエ夫人、そしてファムクの存在は頼もしい硬い杖と同じだった。
「今日はお天気もいいことだし、朝ごはんを食べたら、お散歩にでも行ってらっしゃいな」
「ぼくも行くー!」
すかさずファムクが手を上げる。
「あんたはこの前、野良猫追っかけてどっか行ったりして、エルフリーデさんを心配させたばっかりでしょ」
ジェマイエ夫人は息子の襟首をぐいと引っ張った。
「もうしないから。行きたいんだもん…」
「いいわ。とってもゆっくり歩くことになるけれど、それでもいいなら行きましょう」
口をへの字に曲げるファムクがおかしくて、エルフリーデは彼の頭を撫でる。叱ったり、なだめたり、抱きしめたり。四人の子を育てるジェマイエ夫人は、エルフリーデにとって完璧な母親に思えた。彼女自身は小さな頃から乳母に育てられたのだが、ふたりを見ていると、自分の手で子供を育てる事こそが母親の本当の幸福なのだという気がする。
 ―――あなたを、叱ったりすることはできそうにないわね……。
右手をそっと大きく膨らんできた腹にあて、エルフリーデは心の中で語りかけた。お腹の子がファムクの年頃になるまで、彼女の命は決してもたない。
 その代わり、一緒にいられる時間は、あなたをずっと抱きしめてあげるわ。一生分に能うほど。




 外は、本当に良い天気だった。
オーディンの冬は曇天が多かったものだが、フェザーンは少し気候が違うらしい。澄み渡った空は青さを増し、白い薄雲がかかるとマーブル模様を成す。
その空へ、今一隻の帝国艦が成層圏を目指し浮上を始めていた。銀色の艇首が陽光を反射し、見上げるエルフリーデの目を細めさせる。
「うわー。でっかい船だね。乗ってみたいなぁ」
手をつないで歩くファムクが、はしゃいで言う。
「あれは軍の船ね。軍人になりたいの?」
エルフリーデが訊くと、ファムクは慌てて首を振った。
「ぼく、軍人にはならないよ。お医者さんになるんだもん」
「サンズ先生みたいな?」
「うん」
当然というように、彼は大きくうなずく。
「サンズ先生はえらいんだ。困った人を助けてあげるし、真夜中でも具合が悪かったらすぐ来てくれるんだよ」
ファムクがサンズ医師を尊敬していることは、エルフリーデも知っていた。毎日のように母と診療所へやって来て、不器用な手つきでガーゼを切る手伝いをしたり、コーヒーを持って来たり、何か役に立とうと頑張っている。サンズ自身も自分の息子のように、彼をあたたかく見守っている様子だった。
「そうね。サンズ先生は本当に良いお医者さまね」
エルフリーデはファムクにほほえみかけた。
サンズを尊敬している点では、彼女も相違ない。
”エルフリーデ”としか名乗らず、診療代は最後の財産の小さなダイヤモンドの粒だけ。堕胎の進言も撥ねつけ、別棟の一室に居座る難渋な患者である自分を、サンズとジェマイエ夫人は詳しい事情を追求せずに、思いやりをもって手厚く遇してくれていた。
 人の命を救うことを使命とする医者と看護婦にとって、決して治る見込みのない患者というのは、精神的にも重荷であろうに……。
 ふたりが並んで歩く小道の脇を、元気な犬を連れた少女が小走りで通り過ぎていく。ファムクは一瞬犬へ目をうばわれかけたが、母の小言を思い出したのか、エルフリーデの手をぎゅっと握りなおした。こんな素直さが、彼女にはいとおしく思える。
「あのね。お腹の赤ちゃん、男の子かな?女の子かな?」
ちょうど視線の高さにあるエルフリーデの腹を見つめて、ファムクが訊く。
「さあ…どちらかしら?」
性別は知らなかった。けれど、彼女は不思議に男の子だという気がした。今朝見た夢で確信を得た訳ではないが。
「どっちでもさ、僕が遊んであげるよ!」
うきうきした笑顔で、ファムクは跳ねた。末っ子の彼にとっては、弟か妹ができるような気持ちなのかもしれない。
「よろしくね。ファムクはきっといいお兄ちゃんになるわね」
 ああ、また……。見てはならない未来のやさしい夢を見てしまう。
絶望に萎えそうになる心を、エルフリーデは何とかとどめた。自分を憐れんでいる時間などないはずだ。
 連れ立って歩いて来たふたりは、診療所のある下町の界隈を抜け、フェザーンの中心街へと近づいてきていた。目の前の大通りを渡ってしばらく行けば、帝国政府が官庁機関のために接収したホテルが並ぶ街区に着く。
エルフリーデはそちらの方角へ目をやり、褐色のひときわ高いビルを確認した。あれが、司法省の入る建物。
 ロイエンタールの叛意を告発するなら、司法省と決めていた。
軍務省に直接行くのは得策ではない。軍務省は彼の牙城。統帥本部総長の地位を以って、直接的・間接的に握りつぶされる惧れがあった。国務省でも同様だ。産声を上げたばかりのローエングラム王朝は、皇帝の気風を示すかのように、軍事と政治が非常に密着している。国務省の内部にもロイエンタールの信奉者が多く居る可能性が高い。
 そうなると、残るは司法省だ。エルフリーデが度々病床を抜け出して必死に調べた結果、幸いにも司法尚書のブルックドルフは生え抜きの法律家で、軍部に関わったことがないと分かった。当然義理立てする理由もないだろう。
 司法省に、ロイエンタールの叛意を訴え出る。これが公式に問題視されれば、公平を旨とするローエングラムは彼を査問せざるを得ない。そして、この告発には”自分"という動かぬ証拠がある。”故リヒテンラーデ公爵一族の者"、しかも彼の子供を宿した女。『お腹の子のために、至高の地位を目指すと言った』という証言で、よりいっそう疑惑は真実味を帯びる。
 そうなれば必ず、懲戒は下されるだろう。いくらロイエンタールが開闢の功臣といえども。
 処刑はありえない。多くの信奉者と―――何より、彼が唯一心を許す双璧のかたわれ、ミッターマイヤーが庇う。彼なら絶対に阻止する。
ロイエンタールが軍の中枢から身を退かされれば十分だった。手足となる兵力を失うことで、あの男自身が叶わぬと解っている皇帝打倒の非望は潰える。破滅の死から逃れられる。
それこそがエルフリーデの真の目的だった。
「生きるのよ。私の代わりに」
たったひとつの願いを、もう一度ちいさくエルフリーデはつぶやく。
「なぁに?何か言った?」
傍らでファムクが見上げる。彼女は立ち止まり、腹をかばいながら膝を折った。ファムクの視線の高さに、自分のそれを合わせる。
「あのね、ファムク。お願いがあるの」
「なぁに?」
茶色の無垢な瞳が期待に煌めく。何かを任されるのが嬉しい年頃だ。
「先にサンズ先生のところへ帰って、伝えてほしいの。私はどうしても行かなければならないところが出来たけれど、しばらくしたら戻ります、って」
「え?今からどこかへ行っちゃうの…?」
急に表情を翳らせて、ファムクの声に力がなくなる。病名は知らずとも、本当に心配してくれているのだ。
わきあがる愛おしさを掌にこめ、彼女はファムクの頬を両手で包んだ。
「大丈夫。ちゃんと戻ると約束するわ。だからそう伝えてね」
「……うん。わかったよ」
不承不承といったふうに、彼はうなずいた。そしてエルフリーデの手から離れ、二歩ほどさがってくるりと背を向ける。
「約束だからね!」
何かを感じ取ったのか、足を踏み出しかけたファムクは、顔だけ彼女に向けて念を押した。
「ええ。約束よ」
もう一度、エルフリーデは言う。それを聞いて、今度こそ駆け出す小さな背中を、彼女は見送った。
 胸が軋む。ファムクから伝言を聞くサンズとジェマイエ夫人は、なおさら心を痛めることだろう。何度感謝しても足りない彼らの厚意に、なにひとつ報いるすべを持たないことがつらくてならない。
 ファムクの姿が完全に見えなくなってから、エルフリーデはゆっくりと立ち上がった。
 目指すビルをまた見上げる。
大それた詭計ということは分かっている。皇帝までも巻き込もうというのだから。しかし、ロイエンタールとお腹の子を救うために、残された時間で彼女にできることはこれしかない。
 エルフリーデは通りを渡るために、一歩を踏み出した。




 客室から寝台を運び出しただけの、急づくりの聴取場所なのだろう。エルフリーデが通された部屋は机と椅子二脚があるだけでがらんとしていた。
「ロイエンタール元帥の叛意は間違いありません」
彼女の声が妙に大きく響く。
すると、司法尚書だと名乗った目の前の男の口元へかすかな笑みが走った。我が意を得たり、とでもいうように。
エルフリーデはそれを見た瞬間に気づいた。この男は、自分が言わんとしていることを解っていて、続く言葉を期待している。
 やはり、ロイエンタールには信奉者と等しいほど、多くの敵がいるのだ。彼の気質を鑑みれば至当なのだろうが。
ゆえに、本来なら先ずは虚言と疑われて当然の告発に、こんなにも直ぐ司法省の首班ともあろう者が飛びついて来た。皮肉な話だが、好機と言えなくもない。
「私が妊娠を告げた時、彼は私を祝福してくれました。そしてこの子のために、自分は至高の地位を目指すと言ったのです」
自分があまり出来の良い女優でないことをエルフリーデは知っていた。けれど今は、いくら白々しくとも、この男の望む科白を言えばいいだけだ。
「・…それは看過することのできぬ発言だな」
ブルックドルフは厳かな風貌をさらに険しくする。
「至急、関係機関に連絡を取るとしよう。皇帝の御耳にも入れる必要がある」
「お任せいたします」
エルフリーデの言葉を聞くのと同時にブルックドルフはペンを取り、手元の帳面に何かを書きとめた。そしてしばらく黙考したのち、口を開く。
「ひとつ提案なのだが、貴女自らが出頭して来たとあっては、些か告発に不審を招くおそれがある。そこで、この件は私の召喚に貴女が応じたということにしてくれまいか」
皇帝さえ動かせるなら、誰の手柄であろうとエルフリーデには関係ない。
「結構ですわ」
彼女はうなずいた。
「では、貴女の身柄は当分こちらで預からせていただく」
急いた様子で、ブルックドルフは席を立った。大股で扉へ向かう彼の姿を目で追いもせず、エルフリーデは青と黒の瞳へと思いを馳せる。
舞い散るリラの花びら、白い眼帯。腕を掴む力強い手、冷たい口づけ。「……泣くな」と掠れる声。抱き寄せられた、腕の中の安堵。父と母の相克も知らず、羊水の中で静かに眠る子。万華鏡を覗きこんだように、胸の中が複雑に彩られる。
 ―――おまえの望む破滅などさせてやるものか。さあ、疾く身の内で研ぐ反逆の矛を納めなさい。
殊更強く独白し、彼女は拳をにぎりしめた。


嚆矢は放たれた。もう止められない。
オスカー・フォン・ロイエンタールを狙う暗い陰謀の顎。その内へエルフリーデも呑み込まれようとしていた。
ただし、細く鋭い針として。







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