体温が移るほどしばらく、ロイエンタールはドアの把手を握っていた。
時計は疾うに零時を回り、館の中は静まりかえっている。壁に沿ってしつらえた、葡萄の蔓を模したランプだけがほのかに廊下を照らす。
ちょうど自分の体で影になったドアのすき間から、洩れる光はない。部屋の主はすでに眠っているようだ。
それでも、ロイエンタールは躊躇していた。以前にも同じようにエルフリーデの部屋の扉の辺りでためらったことがあったのを思い出す。あの時はすぐにドアを開いた。しかし今日はそれもできないでいる。だんだん臆病になっているということか……。
小さな吐息をひとつして、ロイエンタールは静かにドアを開ける。
エルフリーデは、窓の傍にある寝椅子で眠っていた。休んでいるうちに眠り込んでしまったのだろうか。うす青の長い夜着を着た彼女の姿が闇に白く浮かび上がる。長い髪が臙脂色のクッションに映えて黄金色に見えた。表情は冒しがたい神聖さを感じさせるほど穏やかだ。
エルフリーデはひとりの時、必ず拳を握りしめ、その手を体全体で抱くように背中を丸めて眠る。繭に似たそれは、何かから身を守っているようにも見えた。
ロイエンタールはそっと片腕をクッションとエルフリーデの背中の間、もう片腕を膝の裏に滑り込ませ、彼女の華奢な体を持ち上げた。
「…んん…」
開きかけたエルフリーデの唇から、かすかな声が洩れる。
このまま彼女が目を覚ましたらどうすれば良いのか、とロイエンタールは迷ったが、エルフリーデはそれ以上口を開かず、すこし身じろぎをしただけだった。
そして、自分でも理由の分からないまま、彼は腕にかかる重みを感じながらしばらくの間じっとしていた。
ロイエンタールは気付いていない。それは彼が我が子をたった一度、抱き上げた瞬間であったことに。……ひどく間接的に、だったけれども。
夜気に冷えたエルフリーデの体を、ロイエンタールは静かにベッドの上へのせた。彼自身は端に腰を下ろし、エルフリーデを覆うために上掛けを引く。その時、身にしみついてしまった癖なのか、また彼女はじわじわと背を曲げて丸くなろうとする。
「…エルフリーデ」
ロイエンタールは小さく呼んで彼女の傍に手をつき、その細い指をとって拳をほどく。握りしめていた掌の中から、ふわりと熱が伝わってきた。
何かに曳かれるように、ロイエンタールはそのままエルフリーデの手を寄せ、親指の付け根に唇をつける。
幾夜、この美しい指が彼の肩を押し戻そうともがいたことだろう。腕の中に在ってさえ、エルフリーデは屈することを拒んだ。
物言わぬ頑なな静寂と、火焔の如き烈しさを併せ持つ女。唯一彼を感情的にさせた女。だからこそロイエンタールは、彼女だけを自分の領域に住まわせた。他の誰の手も届かないように。
ふたりの間には、過去から紡がれる不思議な絆がある。ほどくことがかなわないほど縺れながら、それでも断ち難く二人を繋ぎとめる。
ロイエンタールはそっと手を離し、腕を回してエルフリーデを抱き寄せ、自分も身を横たえた。彼女が目を覚ましている時には、決してしない動作。細い体が、心地よい重さを彼に預けてくる。ロイエンタールは少しだけ、腕に力をこめた。
羽根枕に頭をのせる。
疲れた、と思う。
幼い頃から自分につきまとって来た闇が、足元を侵し始めているのを感じていた。理由は分かっている。
なぜ自分は、煌々と翻るあの黄金獅子の旗を仰ぎ見るだけでは飽き足らなくなってしまったのだろう。なぜ清冽に生きる親友のように、信じるものに忠義を尽くす生き方ができないのか。
ロイエンタールは苦々しい思いを奥歯で噛みしめる。これは病だ。右目に巣喰う、不治の病。
彼は顎を引き、エルフリーデの額へ顔を寄せる。間近に見える彼女の睫毛が、かすかにふるえた。突き離すこともできず、ロイエンタールは黙ってそれを見つめる。
やがてすこしだけ開かれた瞳は霞みをふくんで、彼女の意識がまだ夢幻の間をさまよっているのが分かった。
「・・・ひとりでは…眠れないの…?」
エルフリーデが小さく訊く。そして答えを聞きもせず、また瞼は閉じられた。すぐにすぅ、と子供のような寝息が聞こえ始める。
この女はこうやって時々、まったく無防備な顔で真実を突く。これならまだ眉根を寄せて刺々しい事ばかり言ってくれている方が楽なものを……。
ロイエンタールは心の裡で言い、自分も目を閉じた。腕の中のぬくもりと夜の静けさが、精神に鈎爪を立ててくる自嘲から彼を救う。そして、久方ぶりにおだやかな眠りへといざなってゆく。
ロイエンタールはもう一度目を開けてエルフリーデへ視線を落とした。
―――――おまえでなければ、ならなかった。
声には出さず、つぶやく。共に堕ちるかと訊いたあの言葉を、彼女は覚えているだろうか。それが半ば本気であったことも。
極上の絹を掛けられたように、眠りがロイエンタールを包み込む。ゆっくりと閉じる視界の中で、彼の目にはエルフリーデの表情がすこしほほえんでいるように映った。
それが、ロイエンタールがこの家で彼女を見た最後だった。
まだ、夜の支配が強い払暁の時刻。ほんのかすかな朝陽の先達が、窓から淡い光を部屋の中へ射かけている。
コートに身を包んだエルフリーデは、ベッドで深い眠りについている男を見下ろしていた。
未だ肩に残る、ロイエンタールの腕の感覚。……残された生涯、忘れえぬはずの、この感覚。
助けて。
エルフリーデは運命を司る見えない存在に祈った。一族の復讐も、力ずくの蹂躙もすべて忘れて。自分を生まれるべきではなかったと否定し続けているこの男を助けてほしい。本当は見届けたくない。破滅なんて。
ロイエンタールはエルフリーデに、復讐する気なら早くしろと言った。
『でないと俺は…』
途切れた言葉の先を、彼女は読んでいた。
この男は破滅へ向かおうとしている。自分よりも大きな力に対して、逆らわずにいられぬ不屈の矜持。それが自分自身を追い立てているのだ。ローエングラムという太陽の光が増すごとに、この男の背後に落ちる影は濃さを増すのだろう。
かなうわけがない、あの皇帝に。自分でそう言ったのに。
祝福などしてくれなくていい。でも、わたしとは違う、幸福になれる可能性を秘めたまだ見ぬ子のために生きて。
破滅の死に向かわないで。
「生きるのよ。私の代わりに」
エルフリーデが小さく言った時、青い瞳から一筋の涙が滑り落ちる。彼女はそれを拭いもせず、迷いを断ち切るように踵を返した。
サンズは、事務机からぱっと顔を上げた。
見回すと、診療所の中は朝陽に燦々と照らされている。彼は目をしかめて、手元のランプを消した。昨夜、調べものをしかけたまま寝入ってしまったらしい。首と肩の筋肉が硬く張って軋む。
「ふぁぁ……こんなんじゃ、またジェマイエ夫人にあきれられるなぁ」
欠伸交じりにサンズはつぶやき、立ち上がって大きくのびをした。机の上には、方々で借りてきたヨルゲンセン結核に関する資料が広げてある。
あれから、姿を見せない人のことが気がかりだった。次の日に来るようにと強く言い渡したのに、彼女は来なかった。妊娠を告げた時の茫然とした表情がサンズの脳裏をよぎる。
病状の進んだ、しかも身重の体で、今頃どこにいるのだろう………。
しゃっきり目を覚まそうと彼はコーヒーメーカーのそばに寄り、挽いた豆のパックをセットする。開院時間を考えると、自宅に戻る暇はなさそうだった。仕方ない。裏の別棟でシャワーだけは浴びておくかな、とサンズが思い立った時、ふと彼は診療所の扉の方へ目をやった。
妙な胸騒ぎがする。
考えるより先に、体が動いた。早足で扉の前へ行き、鍵を上げて把手を引く。
「あっ……!」
まさか内側から開くとは思わなかったのか、扉の側に立っていた人物―――エルフリーデは驚いて目を見開いている。
サンズも同じくらい驚いた。ついさっきまで彼の思考を占めていた人が、そこに居たのだ。
「あなたは…」
改めて、彼女の名さえ知らないことに気づかされる。
「中にいらっしゃったのですか…」
「え、ええ。ちょっと仕事があって昨夜から籠もっていたものですから。とにかく、そこは寒すぎます。早く入って」
サンズは慌ててエルフリーデを中へ手招いた。高級そうだが、冬の早朝には薄すぎるコートを羽織った彼女の唇は色を失い、頬は青ざめている。そして…目の縁が、たくさん泣いた後のように赤い。
口の端にのぼる多くの疑問を飲みこみ、サンズはとりあえずエルフリーデをエアコンの前に置いた椅子へ座らせた。事情はどうあれコーヒーを飲ませるわけにはいかないので、冷蔵庫からミルクを出してあたためる。
サンズが湯気の上がるカップを持ってエルフリーデの前へ戻る頃には、少しだけ彼女の顔色が戻っていた。
「あたたまりますから、どうぞ。熱いので気をつけて」
「ありがとうございます」
エルフリーデはカップを両手で受け取る。ほんのり上がる甘い香りがやさしい。
「…体は、大丈夫ですか?」
彼女の正面へ自分の椅子を引いて来たサンズが、心配そうに問うた。
「すぐに参らず、申し訳ありません」
エルフリーデは素直に謝罪する。彼女は目の前の誠実そうな医師と、幾分くたびれた印象のこの狭い医院に不思議な安堵を覚えていた。
「それは、気にしなくていいんです。それより、酷なことを言うようですが、今日すぐにでも堕胎手術を受けるのをお薦めします」
真剣な面持ちで、サンズは言いづらいことを口にする。これだけは後回しにできない。
だが、エルフリーデは静かに首を振った。
「いいえ」
「……え?」
「私、この子を産みます。先生」
瞳に強い光を宿して、彼女はきっぱりと言う。それを聞いたサンズの眉間には、深い縦皺が刻まれた。
「子供を産む?正気ですか。命が惜しくないんですか!」
思わず荒い声になる。しかしエルフリーデは怯まない。
「惜しくありません。自分の命は。でも、この子の命は惜しいんです」
母なるものに与えられた言霊の力が、サンズの苛立ちを圧した。言い返す言葉が見つからず、彼は脱力して肩を落とす。
「そんな……産まれるまで、生きていられるかどうかも分からないんですよ……」
「私には、まだやらなければならない事があるんです。だから大丈夫です。きっと」
サンズが顔を上げると、エルフリーデはわずかにほほえんでいた。その表情に、妊娠を知った時の困惑はかけらもない。彼女を翻意させる力が自分にはないことを、サンズは悟った。
「……わかりました」
椅子に腰掛け直して、彼は両手の指を組み合わせる。
「どんな不測の事態が起こるか分かりません。入院して様子をみるのが一番良いと思います。この近くだとフェザーン総合医大に知り合いがいますから…」
「あの」
エルフリーデが遮った。
「ここに、おいていただくことはできないでしょうか?」
意外な問いかけに、サンズはぐるりと診療所の中を見回す。祖父の代から使いこまれた無骨な棚や隅がくすんだ壁。自分の体はここに馴染んでいるが、正直言って時代遅れも甚だしい造りだ。
「裏の小さい別棟に入院用の部屋はありますけど、あんまり古くさくて、患者さんに嫌がられるような場所ですよ」
彼は背後の扉の方を指差しながら答えた。『オバケが出そう』とか『立体TVがないから退屈』等の苦情が多いので、最近では入院が必要な患者はすべて、最新の設備がある医大で面倒をみてもらっているのだ。
「かまいません。お恥ずかしい話ですが……私、どこにも行くあてがないんです。大きな病院ではなくて、こちらにおいて頂けると助かります」
彼女は医大のような人が多いところに居たくなかった。お腹の子と密かに企図している計画のために、静かな時間が必要なのだ。
すこし目を伏せて、エルフリーデの声が小さくなった。
サンズはあらためて彼女を見つめる。
二十歳そこそこに見える外見とはうらはらの、翳を含んだ話し方。貴族然とした身なりと所作。死の病に冒されながら、望まぬ妊娠を受け入れた意思の堅牢さ。まだうっすらと赤い目の縁。
そして……行くあてがない、という言葉。どれもが謎だらけだった。
それでもなぜか、この人を見守ろう、と彼は決めた。ジェマイエ夫人には『んもぅ、お人好しなんだから!』と叱られるだろうけれど。
「……貴女がそれで良いとおっしゃるなら、お引き受けしましょう」
サンズはうなずいて言った。
「ありがとうございます。先生」
精一杯の感謝をこめ、一瞬だけエルフリーデは無垢にほほえんだ。思わずサンズもつられて、口元がほころぶ。
「では……とりあえず、お名前から教えていただけますか?」
彼はやっと、目の前の女性の名前を知ることができそうだった。
新帝国歴元年、暮れ。
不穏な気配を孕む風が、罪を背負う者たちに容赦なく吹きつけていた。
―――時は、悲劇にむけてその足取りを早めてゆく。
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