黒の贖罪と青の福音 - 3 - の前に





「先生、今日のカルテの整理終わったから、帰るわね」
 コンピュータのキーを叩いていたサンズに、看護婦のジェマイエ夫人が声をかけた。
「ああ、遅くなって悪かったね。ファムクが拗ねてるかな」
ファムクは、ジャマイエ家の四歳になる末っ子だ。
「ご心配なく。今日はブルギニヨン仕込んできたから、今頃上の子たちが晩ご飯の用意してるわ」
「ブルギニヨンか。おいしそうだね」
 サンズはキーを打つ手を止めて想像する。
「早くお嫁さんもらうといいのよ。料理上手の」
ジェマイエ夫人はやれやれといった風情で腰に手を当てた。
「こんな貧乏医者のとこに来る物好きなんていないよ」
「それもそうねぇ」
はっきり言われて落ち込むそぶりを見せるサンズをジャマイエ夫人は快活に笑い飛ばし、戸締まりを忘れないで、と付け加えてからドアの外へ消えた。
それを苦笑いで見送った後、サンズは事務机からコーヒーを淹れに立ち上がる。今日はもう少し医学雑誌に寄稿する論文を書くつもりだった。 大学病院勤めの医師達は面倒がる仕事だが、町医者にとってはいい小遣い稼ぎになるのだ。
 このフェザーンが独立しようが帝国に併呑されようが、子供は腹をこわすし風邪は流行るし老人はあちこち痛くなる。役人どもが泡喰って保身に走ったり していても、ここらの下町は活力と喧騒満ちて相変わらずだった。
 コーヒーメーカーの保温ポットから、明らかに煮詰まったコーヒーをマグカップに注いでいると、キィと遠慮がちな音がして診療所のドアが動いた。
 蝶番がズレて開きにくくなっているドアを開けにくそうに押して、細い影が姿を現す。その姿に、サンズは思わず手を止めた。入って来たのは、二十歳そこそこに 見える華奢な女。腰に届くほどもあるクリーム色の長い髪と、伏し目がちな青い瞳が美しい。しかし顔色は青みを帯びて、ハンカチを握った手を胸に当てているのが痛々しかった。
「今日の診察はもう終わりでしょうか?」
しんと静まり返る小さな診療室を見て察したようだが、それでも女は確かめるように訊いた。
「あ、まぁ、そうですが…」
 祖父の代にこの下町に診療所を開いてから、診療時間がどうとかで患者を拒んだことはない。夜中だろうが朝っぱらだろうが、老人だろうが赤ん坊だろうが診るのが、 代々のサンズ医師のささやかな信条だった。
「気にしなくていいですよ。どうぞ」
サンズはマグカップをコーヒーメーカーの隣に置き、女を手招きした。患者がいなくなってから落としていた天井の灯りをつけると、女はゆっくり歩いてくる。
 その所作に、サンズは違和感を覚えた。今まで彼が見たことのない上品さだったからだ。シンプルなワンピースに長めのカーディガンというごく普通の身なりだが、すっと背筋を伸ばして 立つ姿や表情にただよう雰囲気は隠しようがない。
 帝国貴族。
ただ単純にそう判った。しかし、自分で思うのも何だが、なぜこんなところに来たのだろう。
「ありがとうございます」
 合成樹脂張りの丸い患者用椅子に腰掛け、女は小さな声で礼を言った。
「どうしましたか?」
 サンズはコンピュータで書きかけの文書を一時保存してから、女に向き直る。
「ずっと熱っぽくて。息をするとこの辺りが痛むんです。そんなに強い痛みではないのですが」
 ここへ入って来た時に当てていた場所と同じところに、もう一度手をやってみせる。
「そうですか。ちょっと診てみましょう。ボタンを外してもらっていいですか?」
 サンズは耳に聴診器の聴音部分を差し込みながら言う。女はうなずいて、白く細い指でボタンを上から外した。淡いモスグリーンの襟からのぞく華奢な鎖骨に目を奪われないように 気をつけて、サンズは女の胸から送られてくる音に耳を澄ます。位置をずらして何箇所か。
 背中側からも音を聴いた後、サンズは女にことわっていくつかの検査をした。
 注射器で少し血を抜いて古びた分析機械にかけ、総合病院の医師に笑われそうな時代遅れの磁気共鳴装置で女の身体の断面図を撮る。
 女は黙々とサンズの指示通りに動き、彼がこれで検査は終わりですと告げると、疲れたようにまた椅子へ腰掛けた。
サンズは背を向け、分析機械からゆっくり吐き出される血液検査のロール紙と、コンピュータに取り込まれた断面図を交互に見ていた。
 女が痛むと言った肺に目をやる。
 ざわっと、肩の辺りが粟立つ。
もう一度血液検査の結果を見る。また肺の断面図に視線を戻す。それを二回繰り返した後、サンズは椅子を立ってカルテ棚の間に押し込まれた分厚い医学書を取り出した。 女には背を向けて。
 目当てのページを指でがっしりと押さえ、一心に読む。悪寒に似た冷たさは背中全体に広がっていた。
 自分の顔色も青くしたサンズは、医学書を閉じて自分の椅子に戻る。
何も言わずにあれこれと動いている彼が不審だったのだろう。女はわずかに眉根を寄せ、問いただすようにサンズをじっと見つめている。
「……ご家族に、ヨルゲンセン結核を患った方はいますか?」
 サンズはなるべく落ち着いた声で訊いた。
すぐに、答えはない。女は一瞬瞳を見開き、視線を自分の手元に落とす。やがて一つだけ肩で息をしてから、再び顔を上げた。
「父の妹がそうでした。それと…私は会ったことがありませんが、曾祖母もヨルゲンセン結核で亡くなったと聞いています」
きっぱりと女は答える。ほとんどの人には馴染みのない病名だが、表情に動揺は見いだせなかった。
 ヨルゲンセン結核は、人間が地球以外の惑星で暮らすようになってから発生した結核の一種である。発症者のほとんどは女性で、はるか昔に流行した結核に症状が似ているため "結核"の名を含んでいるが、厳密には細菌性の病気ではない。ヨルゲンセン博士が発見してから二百年以上経っても正確な病因は判明しておらず、大気構成分説、ホルモン説など 諸説に分かれている。現在では遺伝性との一説が有力だ。
そして……治療法が確立されていない、数少ない不治の病のひとつに挙げられる。患者は病巣の広がりと共に体力を奪われ、末期は感染症を併発して命を落とす事が多い。

「そうですか……。でも、まだはっきりしたわけではありません。すぐに紹介状を書きますから、明日にでも総合病院へ行って再検査をしてもらって…」
 つとめて明るく、サンズは女に言いかけた。その時。
「先生」
 ほとんど穏やかといっていい表情で、女は彼の言葉を遮る。
「お気遣いは要りませんわ。ここの検査機器で判るほどの影が映っているんでしたら、間違いないでしょう」
 サンズは、反論することができなかった。彼女の右肺を細かい網で包むように映る白い病巣。医学書に載せられていた画像よりはるかに大きい。
「失礼なことを言ってすみません」
 女ははっとしたように軽く頭を下げる。
「え?」
意味が分からず、サンズは問い返した。
「ここの検査機器を馬鹿にするような言い方をして……」
 まっすぐな瞳が、彼に謝罪していた。 「いや、そんなことは気にしなくていいですが」
そう返しながら、サンズはつくづく不思議に思っていた。いくら近親者に患者がいたとはいえ、ヨルゲンセン結核と聞いて我を失うどころか、人の心情を慮るほど落ち着いているとは。 予知でもしていたというのだろうか。
「それより、緊急を要することがあるんです」
 彼は割り切れない思いを抱いたまま、声を低くした。女がわずかに首をかしげる。
「妊娠、されています」
「……え」
サンズの言葉に女は体を引き、ガタンと椅子が軋む。唇がわずかに開いたまま固まり、息もできないようだ。彼が「家族にヨルゲンセン結核の患者がいるか」と問うた時の何倍も うろたえている。
「今、三ヶ月に入るところです。早く処置をしないと、今の体には大変な負担に……」
続けて説明するサンズの言葉が耳に入らないように、女はハンカチを握りしめて茫然としていた。




 河面が、向こう岸のビルの灯りを映して鈍く光っている。
岸に沿って設けられた柵に両手をかけて、エルフリーデはそれをじっと見つめていた。辺りに人気はなく、せせらぎの音だけが聞こえる。
 ヨルゲンセン結核。
目立たないよう、下町を選んで行った診療所の医師から告げられた病名は、彼女を驚かせなかった。度重なる発熱に加え、気管が細く絞られるような痛みを感じ始めた時から、 脳裏で叔母と自分とを重ね合わせてきたからだ。もう一年以上になる。
 叔母は、曾祖母と同じヨルゲンセン結核と診断され、四年の闘病生活の後三十三歳でこの世を去った。
すこし歳の離れた妹を大事にしていた父は、親戚中の人々からそっくりだと言われるエルフリーデを心配していた。彼女がちょっとでも咳き込むと、すぐ医師の往診を頼んだものだ。
 父の心配は当たっていた。それが病名を聞いたエルフリーデが驚かなかった理由のひとつ。
 そして、それよりも強い理由がある。
 当然の報いだ、と彼女は思っていた。遺伝だとかの説明は重要ではない。
 復讐は彼女が生きている唯一の理由だった。だからそれが成った時、自分の命も終わる。誰からも利己的と非難されるであろう復讐の代償に、運命の神は彼女の命を以て臨んだのだ。 ヨルゲンセン結核の予兆を感じた時から、エルフリーデは覚悟を決めていた。だからこそオスカー・フォン・ロイエンタールに直接刃を向けるなどという大胆なこともできた。
 ・・・・・・しかし。運命の神は彼女の想像より残酷だった。
『妊娠、されています』
サンズ医師の言葉を思い返す。子を授かることは、何かの恩寵のように言われるではないか。それをなぜわざわざ自分たちに与えるのか……。
 思わずエルフリーデは、下腹部に手を当てた。この体の中に宿っているという小さな命。自覚さえもないのに。
『・・・・・・・泣くな』
 ロイエンタールの、ささやかな願いの声が記憶の中に響く。そっと涙をぬぐう指。初めてやさしいと感じた口づけ。視界を支配する閃光・・・
 あの夜しかない。エルフリーデの体に甦るぬくもりがそう告げる。
 一夜、忘れがたい過去との邂逅に心が近づいた。それがまるで罪であるかのように、ふたりはあれから互いを避けている。
フェザーンに居を移すのが決まった時、ロイエンタールは一度エルフリーデを突き放した。しかしすぐ後に、「そばにいて破滅を見届ける」という彼女の言葉を意外なほどあっさりと受け容れて、 オーディンでの生活と同じように遇している。最近は度重なる軍政両面の事件の為か、大本営の置かれたホテルに居るようで、ほとんど姿を見ることはない。
ただ、一週間ほど前の夜中、急にロイエンタールはエルフリーデの部屋に姿を現した。ひどく疲れた様子で。金銀妖瞳には剣呑な光が宿り、見たことがないほどの鋭さが表情に暗影を 落としていた。そしてなぜか、彼女に自分の過去を語ったのだ。自分は生まれながらにして罪人なのだと、呪うようにつぶやいて。
 あの男が、この子を祝福などするはずがないわ。
 エルフリーデは確信を持って言えた。
同時に、目の奥が熱を溜めて涙をあふれさせるのを止めることができない。彼女は地面に膝をついてくずおれる。噛みしめた歯の間から嗚咽がもれ、頬を流れた涙が顎から伝い落ちた。
 父親であるロイエンタールと、自分のお腹の子が同じ定めであることが、たまらなく哀しかった。望まれずに造られた命。皮肉な符丁。その哀しい連鎖を断ち切るのが、 死を予言された自分の役目なのだろうか。
 サンズは、茫然とするエルフリーデに堕胎を薦めた。薦める…というより、決定事項の説明と言ってよかった。ヨルゲンセン結核の病状がすすんだ彼女に、妊娠出産は負担になりすぎるのだ。 場合によっては即、命取りになる。処置は早い方がいい、明日にでも来るように、と。
「いや……!」
自分の腕で自身を強く抱いて、エルフリーデは小さく叫んだ。自分でも分からない。思ったままの言葉が口を衝いたのだ。彼女はお腹の子を殺すのがどうしてもいやだった。 ロイエンタールが決して喜ばないことも、命にかかわることも痛いほど分かっている。けれど、そんな理屈を彼女の心は受け入れない。
この、生きようともがいている小さな命を殺すなんていや。産むわ。命と引きかえでもいい。
 クーデターの首謀者達に復讐を誓った時と同じ強さで、エルフリーデは決心した。ゆっくりと立ち上がり、両の掌を腹の前で重ねる。自分ではない命在る者との繋がり。守らなければならない。 この気持ちが母性というのなら、何て強靱な力なのだろう。
 この命を喰んで育ってくれればいい、とエルフリーデは願う。
 自分勝手な母親の命など、喰い尽くしなさい。
 あなたを産もうとしている私を、どうか赦して……。




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