エルフリーデは、ただ茫然と部屋の中で佇んでいた。
彼女は甦ってくる記憶に居たたまれず、庭から駆けて自室へ戻ってきたのだ。ニルケンスが夕食の準備が出来たことを知らせに来てくれたが、 食欲がないと断った。ロイエンタールの前でどんな顔をすればいいのか分からなかった。
 あれから何時間経ったのだろう。部屋には闇が落ち、わずかな恒星の光だけが部屋の窓から差し込んでいる。
エルフリーデはいつの間にか握りしめていた右手に視線を落とす。指の力をゆるめると、灰色の小さな塊の重さがよみがえってくる。まざまざと。
 忘れがたい、あの春の日。父に連れられてオーフェルマイス家を訪れた。子爵は工部省で父の最初の上司だったのだ。
その広い庭で、生まれて初めて命あるものの「死」に直面した。愛おしくとも、冷たくなった雛の体。胸に重しを乗せられたような圧迫感で、本当の 悲しみを知った。まだそれを癒す方法も分からない彼女は、ただ泣くしかなかった。
 そして、救われた。リラの木蔭からふと姿を現したひとりの少年に。
彼女にかけられたのは、決して優しい言葉ではなかった。だが、幼い心ながらも、戻らない「命」と「死」という現実を受け容れることで、悲しみが やわらいだのを、確かに感じたのだ。
『…まだ小さすぎて、ひとりじゃ生きていけないんだ。かわいそうだけど』
 不器用そうなあの声と、涙を拭ってくれたシャツの感触を、今も覚えている。悲しみに遭遇したとき、何度も思い出してはなぐさめられた。流刑地の 荒れ果てた収容所で。(私はもう小さな雛ではないわ。だからひとりでも大丈夫……)粗末な毛布にくるまって眠りながら、そうやって幾夜自分を 励ましたことだろう。
 エルフリーデは右手を左手の掌で包み、そっと胸の上にのせた。彼女はその裡で、ゆっくりと疑問の氷が溶けるのを感じていた。
エルフリーデは、力でロイエンタールに肉体を支配されることをずっと拒みつづけてきた。その一方で、得体の知れない感情が彼を受け容れようと するのだ。それがどうしても分からなかった。
 憎しみしか抱いていない相手を受け容れられるほど、女の体は鷹揚ではない。ロイエンタールの底知れない孤独に共鳴する心が、 エルフリーデのいやだという強い思いをやわらげたからこそ、彼女の体は応えたのだ。
 判っていたんだ、私……。
エルフリーデは、自覚すらない心の奥底で、幼い悲しみを癒してくれた人に気付いていたのが不思議だった。
 そして、やはり哀しかった。それならもう少し早く気付きたかった。そうすれば何かが変わっていたのかもしれないのに。
 なんとも表現しがたい、皮肉な想いでエルフリーデの唇がわずかにゆがむ。
(十五年以上の月日を経て、再び会ったのがこの状況だなんて・・・)
 心躍る再会になるはずだったことを、捩じ曲げてしまったのはどちらの仕業なのだろう。さすがに、ロイエンタールの所為だけだと言い切るわけにはいかない。
彼の加担したクーデターで地の底へ落とされ、絶望の中、昔教えてくれた言葉に救われた。そして彼を殺そうとした。その事実に、エルフリーデは細かい棘を持つ 布で強くこすられたような痛みを感じていた。疑問を溶かしきった心が、ひりひりと熱を持って痛む。
 皮肉な定め。どうしてもふたりにまとわりつく言葉。
目を瞑り、またやさしい陽差しと花びらを舞わせるリラの花を思い出す。ふりそそぐような花香でさえ、ここにあるように生々しい。そして右眼を白い眼帯で覆った 少年が姿を現すのだ。
 あの包帯の下には、黒く沈む方の眼が隠されていた。類い希なる金銀妖瞳。そんなこと、彼女は知らずに……



 その時、ゆっくりと部屋の扉が開いた。目を開けると、廊下の灯りを背にして、長い影がエルフリーデの足元まで伸びてくる。
めずらしく、影は部屋へ踏み込むことを躊躇しているようだ。いつもは無遠慮なきつい足取りで彼女の腕を取りにくるというのに。
 エルフリーデも、影に半身を向けたまま顔を上げることができない。言うべき言葉が浮かび上がるのを待つように、じっと絨毯を見つめる。
やがて、彼女の足元から徐々に影が消えた。部屋が薄闇に戻る。ロイエンタールが扉を閉めたのだ。
 彼が入って来たのか出ていったのか、それすらエルフリーデが確かめられないでいると、しばらくの静寂の後、ためらいがちな足音が、ひとつひとつ、 彼女の方へ近づいてくるのが聞こえた。




 ロイエンタールは、足の重さを感じていた。
歩き慣れたはずの絨毯に、靴の裏が貼りつくような錯覚を覚える。扉から、俯いて立つエルフリーデの前に立つまでの距離を、彼は時間をかけて歩いた。
 この部屋の扉を開けた時、彼女に近づいてどうするつもりだったのか分からなくなった。経験したことのない困惑が、さらにロイエンタールをとまどわせる。
彼の視界に、クリーム色の長い髪が映った。その表情はうかがえないが、ブラウスの襟ぐりからのぞく肌の白さは、少女の頃と変わっていない。
『それなら、よかったね!』
 自分の目の病はもうすぐ治るのだと言ったとき、ただ純粋によろこんでくれた少女。
その笑顔は春の陽光の下で、この世のすべての善きものの象徴の如く、ロイエンタールの青い左目に映った。あの瞬間、言い表しようのない慈しみが、 彼を癒した。黒い目の病ではなく、生まれながらに負った罪の傷の方を。
 十代の半ばで嫌というほどの厭世観を植えつけられ、冷えきった魂に血が通うのを、少年だったロイエンタールは自覚した。胸の奥に湧くあたたかさ。 それが今少し、彼を支えてくれそうだった。
 そして、彼はその後仕官学校を経て進んだ軍隊で、少女の与えてくれたあたたかみに似た明るさを持つ、唯一無二の理解者を見つけたのだ。


 無意識のうちに、ロイエンタールは手をエルフリーデの頭へ伸ばしていた。あの日と同じように撫でることはできず、ただ置いていた。
息を吸うかすかな音がした後、エルフリーデは動いた。細い顎が上がり、ゆっくりと長い睫毛が開いて、明るい青の瞳がロイエンタールを見上げる。美しい。 この館に来てから、初めに感じた幼さはほとんど消えていた。彼自身が容赦なく蹂躙したせいだ。あの幼さは、昔日ロイエンタールをなぐさめた純粋さであったと いうのに…・。
 ふたりは、何も言わなかった。ただ互いを見つめていた。
相手が、同じ事を自分自身に問うているのが分かる。

あの遠い春の日から、何を誤らずにいたら、こうならずにすんだのか……

 時間という決して動かせない律の前に、皮肉な定めと言いあらわす他ない。
複雑な感情をどうすることも出来ず、ロイエンタールはエルフリーデの額に自分の額を寄せた。両手で頬を包み、掌に伝わる彼女の体温を確かめる。 口づけることはできずに。
 エルフリーデは、ロイエンタールの腰に両手を伸ばしてそっと当てていた。抱き寄せることはできずに。
だが…決して溶かせないわだかまりの氷一枚を隔てて、それでもふたりは相手のぬくもりを感じとろうとしていた。未だ自分の体の奥に残る、あの日の 陽光のあたたかさを伝えたかった。
 ロイエンタールの視界の中で、エルフリーデの青い瞳に涙の膜がかかる。複雑な色を織る虹彩が潤んで、頬に当てた彼の手に伝わる熱が増した。 目のふちからあふれた涙が、長い下睫毛をゆっくりと濡らし始めたとき、ふいにエルフリーデの顔に幼さが蘇る。
 一瞬、ロイエンタールは心臓がきりりと糸で縛り止められるような苦しさを感じた。
「・・・・・・・泣くな」
 それは命令というより、懇願。
ロイエンタールの小さな声が聞こえるのと同時に、エルフリーデは抱き寄せられていた。しかし、彼女は涙を止めることができない。ロイエンタールの 声の響きで胸が痛んだ。彼の腰に当てていた手を背中にまわし、ぎゅっと力を入れる。
 今だけは、すべての苦い記憶を消したかった。




 広いベッドの上で、厳かな儀式のようにふたりは向かい合って座っていた。
まだエルフリーデの目尻に溜まる涙を、ロイエンタールは右手の人差し指を曲げて拭う。その手首に、エルフリーデはそっと左手を当てた。ゆっくりとした 仕草でブラウスのボタンが外されても抗わず、彼の顔に残る少年の面影を探すように見つめる。
 ロイエンタールは、エルフリーデの視線をうけて、やはりまっすぐだと感じていた。少女の頃、失われた小さな命を悲しんでいた時からずっとそうだった。 自分の命を狙って飛び出してきたときも、「私を殺しなさい」と言い放ったときも。
 この純粋なまっすぐさだけは、壊すことができなかった。それが唯ひとつの救いのように思える。
こわれものを置くようにそっと、エルフリーデの体は横たえられた。ロイエンタールの体の重みと温みが彼女の体に下りてくる。
 見つめあったまま、彼の顔が近づくのが分かったエルフリーデは、そっと顎を上げた。ロイエンタールの右目へ唇を寄せる。ほとんど無意識に彼は瞼を閉じ、 彼女のやわらかい唇を受けた。生まれて初めての、瞼への口づけ。原罪を宿す重い黒瞳が、かすかに軽くなる。
 ロイエンタールは瞼を開き、彼の腕の下で頭を枕へ預けているエルフリーデを再び見つめた。彼女の額にかかる淡い色の髪を指で梳き、枕へ流す。 そしてそっと白い額を掌で撫でる。
 エルフリーデは、何か言いたそうだった。すぅっと軽く息を吸い、言葉を探し、見つからずに少しづつ息を吐く。何度かのくりかえし。
分かっている、とロイエンタールは心の中でつぶやいた。何も言えないことはわかっているから、いい。
 またエルフリーデが息を吸う気配がした瞬間、ロイエンタールは唇をわずかに開き、彼女の唇を塞いだ。驚いてエルフリーデがロイエンタールの背に手を 伸ばすと、勢いでシャツがめくれ、素肌に指がかかる。しなやかな筋肉に覆われた背中の、ちょうど背骨の窪み。迎え入れられるように、指先が止まった。 不意打ちの感触に、ロイエンタールは項の辺りが熱くなる。
 エルフリーデは、やさしさと荒々しさがない交ぜになったロイエンタールの口づけに、鼓動が早くなるのを感じていた。肋骨の下が、燃えるようだ。 今まで味わったことのない感覚に動揺し、助けを求めて唇を開くと、いっそう口づけは深くなる。
 やがてお互いの熱を留めおけなくなり、ふたりは体を重ねた。やさしさを持ち寄るように、そして快感を貪るように。
 ロイエンタールの額には汗が浮き、息遣いが激しくなる。エルフリーデは自分の体を侵蝕する甘い感覚に、初めて声を殺すことができなかった。彼女の かすれて濡れた声が闇に細く響き、ロイエンタールの冷静さを切り刻む。
 最後の瞬間、思わずふたりはしっかりと指をからめ、手を握り合っていた。脳裏に浮かぶ閃光が昏い記憶を灼き、一瞬、本当にすべてを忘れさせる。

 抱き合ったまま埋まるように落ちていく眠りの途中、ロイエンタールはリラの花香をかいだ気がした。
 




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