男は白い小さな墓石の前に跪いた。

朝の光を受けて、芝生に下りた露の粒がちいさく輝く。

「・・・春が、来ましたよ」

男はそっと墓石に語りかけ、うす紫色の花束を墓石のそばへ置いた。

自分の名を墓石に刻むことさえ許さなかったひと。昔を懐かしむような遠い目をして、たったひとつ、春が好きだと教えてくれた。

 今は天上で、常春を過ごしているのだろうか……。







黒の贖罪と青の福音




大本営のフェザーン移転、ハイネセンの不穏な空気など次々に降りかかる難題で、ロイエンタールは多忙な日々を過ごしていた。
 統帥本部総長の肩書きは重いが、彼はそれに見合う才をふるって大部隊の編成作業も同時進行させている。必然的に自邸へ帰れる 回数は少なくなった。本部内にある私室には宿泊に十分な設備が整っており、不自由は全くない。
 帰りたくないという気持ちがあるのだろうか。ロイエンタールは自問してみる。彼の家にひっそりと住まう、女とも少女とも言い難い 存在と顔を合わせるのを、無意識に避けているように思えるからだ。
 常に、己を直視して対峙してきたロイエンタールにはめずらしい事だった。
エルフリーデを鬱陶しいと感じる一方で、狭い檻に閉じこめておきたいと望むほどの独占欲がある。このあからさまな矛盾はなんだろう。
考えるほどに絡まる感情をもてあまして、ある日の夕暮れ時、ロイエンタールの足は自邸へと向かった。
 実に半月ぶりの帰宅だ。
「おかえりなさいませ」
送りの車が停まる音を聞き分けたのか、玄関でニルケンスが出迎える。
「お仕事、宜しいのですか?」
軍服の上着を受け取りながら、ほほえんで訊く。学校から帰って来るロイエンタールを出迎えていた時分と、少しも変わらぬおだやかさだ。
「ああ。久しぶりにキリがついた。今日はゆっくりする」
「それは良うございました。さっそくお茶でも淹れましょう」
丁寧にお辞儀をして、ニルケンスは身を翻す。その背中へ、
「あれは?」
ロイエンタールは問うた。独特の言い回しで。
「お嬢さまでしたら、お庭にいらっしゃいます」
ニルケンスにとっては、エルフリーデがこの館に居ることが当たり前になっているのだろう。いつものように、とでも言いたげに振り返って答える。
二階の自分の部屋へ行くため階段に足を掛けたロイエンタールは、わずかな逡巡の後、再び玄関の扉へ向かって歩き出した。



 外は、涼しい風が吹いていた。昼間に蓄えられた暑気をさらうように木立の間を抜けてゆく。
ロイエンタールは自然さを活かしながら刈り揃えられた低木の傍を通り、庭園の奥へと歩いた。辺りは静寂に満ち、菩提樹の葉がすれ合う音までが 聞こえる。軍務の煩雑に没頭し、ささくれ立った神経が鎮められる気がした。
 エルフリーデは、庭の一番奥に居た。
 白い七部袖のブラウスに、青みがかった灰色のロングスカート姿。ロイエンタールには気付かず、目の前に立つケヤキの木をじっと見上げている。
 彼女の視線の先にあるものを追うと、中ぶりの幹と幹の間に、藁で作られた野鳥の巣が見えた。うす茶色の雛鳥が五羽ほど、身を寄せ合っている。
何を思っているのか、エルフリーデの青い瞳は悲壮なほど懸命だった。その瞳に奇妙な既視感を感じて、ロイエンタールの足が止まる。
チチッ、と雛の一羽が鳴いた。まだ飛べもしないのに、小さな翼を震わせて。
「何をしている」
思わず、ロイエンタールは声をかけていた。エルフリーデの細い体がびくっとして、視線がぱっと彼の方へ飛ばされる。声こそ上げなかったが、相当に 驚いたようだ。まさかロイエンタールがこの時間に帰ってくるとは思わなかったのだろう。
「親鳥が、ずっと戻ってこないのよ」
反射的に、エルフリーデは答えていた。ふいをつかれたせいか、いつものようなきつい言い方はできず、不安さが顕わになる。
 ロイエンタールはエルフリーデの傍まで行き、ケヤキを見上げた。一羽が鳴いてからはおとなしく、雛たちは身を寄せ合ってじっとしている。
「ずっと、なのか」
幼いながらも、野鳥らしい精悍さを感じさせる雛たち。ロイエンタールの記憶の扉が反応する。
 雛……?
口には出さず、胸の裡でつぶやく。
「そうよ」
また視線を戻して、エルフリーデは小さく言った。
「もう、二時間くらい帰ってこないの。親鳥を待っているのに……」
彼女が心配そうにつぶやいた瞬間、雛たちが一斉に首を伸ばした。木の上空から、小さいがたくましい羽ばたきでヤマガラの一種らしい赤茶色の 小鳥が舞い降りてくる。くちばしにはエサの昆虫をはさんで。親鳥だ。やっと帰って来たのだ。雛を見捨てて飛び去ったわけではなかった。
 巣の端へ降り立った親鳥は、先ほど小さく鳴いた雛のくちばしへエサを落とす。雛は見事に一口でそれを飲み込み、満足そうに首を伸ばした。
「……親鳥の足の下にいれば、雛鳥は死なない」
無意識のうちに、ロイエンタールの口から言葉がこぼれる。彼の視線の先で、追いすがる雛たちをなだめた親鳥がまた飛び去っていく。日暮れまで、 エサを探しつづけるのだろう。
「どうして……」
 ふいにエルフリーデの驚いた声がして、ロイエンタールは彼女の方を向く。
「どうしておまえがその言葉を知っているの…!?」
エルフリーデの青い瞳は見開かれ、唇が震えている。彼女は一歩足を引いて後ろに退いた。ロイエンタールは金銀妖瞳に怪訝な光を満たして、 エルフリーデを見返す。
ざわっと木立を渡る風が強くなった、その一瞬。
 まさか―――!
先ほどから胸の裡に霧をかけていた奇妙な既視感が、ロイエンタールの記憶の扉を開け放った。



 時は、遡る。十六年前へと。
仕官学校への入学を控えたロイエンタールは、伝染病を患った。といっても、生命に拘わるようなものではない。入学前の体力測定日に初期の 結膜炎を患っていた者が居り、運悪く水泳の種目があった為に、その日測定を受けた少年達の多くに伝染ってしまったのだ。
 ロイエンタールが患ったのは右目だけで、しかも症状が重かった。片目だけこんなにひどくなるのは珍しいと首をかしげながら、医師は彼の右目に 眼帯を巻く。その言葉を聞き、ロイエンタールは心の内で皮肉っぽく笑っていた。
 先生、そちらの目は呪われているんですよ。何せ母親が抉りだそうとしたほどですから。
そう口に出したら、この医師は何と返すだろうか。

 入院するほどの事ではないそうです、宜しかったですね、とニルケンスから病状の報告を受けたロイエンタールの父は、これ幸いと息子を知人の オーフェルマイス子爵家の老夫婦の屋敷へ預けることにした。ロイエンタール家では出入りする者が多く、誰に伝染してしまうか分からない。 その老夫婦は子供もなく、大きな屋敷にごく少数の使用人と共に暮らしている。そこでなら本人も気を遣わず、ゆっくり養生できるだろうというわけだ。
 表向きの理由を見つければ、父の行動は速い。医師の診断が下りた次の日、ロイエンタールは最低限の身の回り品と共にオーフェルマイス家の 扉をたたくことになった。
 その家と父にどんな繋がりがあるのか、ロイエンタールは知らずに来た。しかし、当主の老夫婦はあたたかかった。伝染りますから、と敬遠する 孤独な少年の世話をあれこれとやき、優しく言葉をかけてくれた。ロイエンタールにとっては何もかも初めての経験だ。しかし、それがたまらなく 彼に居心地の悪い思いをさせるのも事実だった。
 だから彼は日がな一日、オーフェルマイス家の広大な庭で過ごした。狭い視界に気をつけながら木々の間を歩き、花を眺め、草むらの上で本を 読む。誰も彼を咎めない。
 その日も、ロイエンタールは広葉樹の陰に寝そべって科学書を読んでいた。春の陽差しが彼の体を温める。
 集中しすぎて左目が疲労し、目を閉じて眠りの入り口をさまよっていると、耳慣れない声がロイエンタールの耳にかすかに聞こえた。
 耳をすましながら、ゆっくり体を起こす。気のせいではなかった。少し離れた場所から、か細くふるえる声がする。  手入れの行き届いた芝生の小道を通り、声のする方へ近づくと、今を盛りに薄紫色の花が咲きほこるリラの木の下、小さな少女がうずくまっていた。
 歳は四、五歳ほど。淡い色の髪を二つに分けて耳の横で結び、ピンクのリボンで飾っている。繊細なレースで仕上げられた白いワンピースも靴も極上品と 見えた。おそらく貴族の娘だ。しかし、オーフェルマイス家に住むのは老夫婦と使用人だけ。今日は客人があったのだろうか。
 ロイエンタールに気づかず、少女がまたしゃっくりを上げた。小さな左手を目に当て、あふれた涙を懸命にぬぐう。じっと見ると、彼女が地面に下ろした 右手の掌には、灰色っぽいふわっとした固まりがのっていた。白く変色したくちばしのようなものも見える。野鳥の雛だ。その様子からいって、もう命がある ようには見えない。
「えぅっ…うっ…」
 少女の唇から、先ほど聞こえた震える声がもれた。
 そうか、泣いている声だったのか、とロイエンタールは気づいた。その声は彼が識る泣き声とは全く違っていた。母の金切り声、父の呻き…それが彼の識る 泣き声のすべて。自分が泣く時に、声はない。
「親鳥の足の下にいれば、雛鳥は死なない」
 ロイエンタールは、少女に向かって古い格言を言った。突然掛けられた声に驚いて、少女がはっと顔を上げる。明るい青の瞳が彼を見上げた。涙で朱に 染まる柔らかそうな頬が痛々しい。
「だが、親鳥からはぐれた雛鳥は生きていけない……」
 続けて言うロイエンタールの言葉をじっと聞いた少女は、自分の掌にのせた雛鳥の亡骸に視線を落とした。冷たくなったその体を一度撫でてから、再び 彼を見上げる。
「ひとりじゃ、死んじゃうの…?」
 小さな声。他者の痛みを自分の悲しみとする、純粋な感情。
少女のあまりにも無垢な様子が、頑ななロイエンタールの感情にあたたかさを染みこませる。
 彼は、少女に近づいてひざまずいた。
「ああ。まだ小さすぎて、ひとりじゃ生きていけないんだ。かわいそうだけど」
「ほんとにかわいそう…」
眉をしかめる少女の頬に、瞳に満ちた涙があふれて伝わる。ロイエンタールは腕を伸ばし、白いシャツの袖で涙をぬぐってやった。
「お墓…作ろうか」
彼の提案に、少女は深くうなずいた。ロイエンタールは平たい石を見つけてきてしゃがみ込み、芝生の張っていないリラの木の根元を 掘る。ほんの浅く掘っただけで、雛を入れるには十分な大きさになった。
「ここにしよう」
 隣に佇む少女に言うと、少女は小さな手を差し出した。いつのまにか雛の亡骸は白いハンカチに包まれている。自分の高価なチュール レースのハンカチを惜しげもなく使ったようだ。小さな命を弔うために。
 ロイエンタールは真っ白な軽い塊を穴に置き、石を使ってそっと土を被せた。そしてそのまま石を墓石代わりに土の山の上へ立てかける。 その間中、少女は何も言わず、涙をこらえてじっと彼の手元を見ていた。
「おにいさん…ありがとう」
 石を置いた手を引いたところで、やっと少女が口を開いた。
「おにいさんは、だいじょうぶなの?」
 少女の視線は、同じ高さにあるロイエンタールの眼帯へと注がれている。
「ああ。俺は大丈夫だ。もうすぐ治るよ」
心配そうに瞳をくもらせる少女に向かって、彼はほんの少しほほえんだ。治れば、また陰鬱に沈む家に戻らなければならないが…と思いながら。
「それなら、よかったね!」
 やっと明るい声になった少女が、初めて笑顔を見せた。柔らかな頬はまだかすかな朱を帯び、涙に濡れた睫毛は乾いていない。しかし、自分のことの ように喜んでいる。
 今度は本当にほほえんで、ロイエンタールは少女の頭のてっぺんにそっと手を置いた。
 やさしい春風が、リラの淡い香りと花びらを降らせる、遠い日のできごとだった……。





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