黒の呪縛 と 青の枷




 その日、ロイエンタールの帰りは遅かった。軍務は普段と変わらなかったが、部下のゾンネンフェルスに誘われて夕食を共にしたからだ。
途中、何度か彼はエルフリーデの事を考えた。あの娘はどうしただろうか。ニルケンスに連絡をとればすぐに分かることだったが、あえてやめた。 何となく楽しみでもあったのだ。何者かの手助けがあった事は間違いないが、貴族の生まれでありながらひとりで俺を討とうとした行動力は褒めて やろう。彼はそう思った。そして、ベッドに組み敷いた時、怯えを隠そうと青い瞳に怒りをひらめかせた貌の美しさと、男を知らないにもかかわらず 不思議なほど男の本能を焚きつける細い体を思い出した。
 すべてが終わった後、エルフリーデはロイエンタールの体の下でほとんど意識を失っていた。  ベッドの上に乱れる長い髪。横を向いたまま力なく枕に預けられる顔。首と胸は淡く桜色に染まり、行為の烈しさを物語っている。しばらく彼は その様子を見つめていた。少女から女への過渡期に帯びる危うげな艶から目がはなせなかった。
 そして、濡れた衣服の水分を吸って冷たくなったベッドからエルフリーデの体を抱き上げ、隣の客間へ連れて行ったのだった。
 ランド・カーが静かに、ロイエンタールの官舎の前へ横付けされる。彼は護衛の下士官をねぎらって下り、自宅玄関へと歩いて行った。
 扉を開けると、ちょうど階段の傍にニルケンスがいた。銀盆に載ったガラスの水差しとコップを持って立っている。
「オスカー様、お帰りなさいませ」
 銀盆を傾けることなく、なめらかに一礼する。
「ああ、ご苦労だな。…あれはどうした」
「お嬢さまでしたら、客間にいらっしゃいますが…」
 ニルケンスは視線を二階へ向けた。どうやら銀盆の上の物を客間に届けるところだったようだ。
「すこし、具合が悪くていらっしゃるのです。お洋服をお届け致しましたら、着て下りていらっしゃいまして、そのままここを出て行こうとなさったの ですが、ホールで倒れてしまわれまして」
「倒れた?」
「はい。お顔の色があまりに悪かったものですから…勝手かと存じましたが、医者を呼んで診ていただきました」
 ロイエンタールが父親の屋敷を離れた時から、家の中のことはすべてニルケンスに任せてある。それを特にとがめようとは思わなかった。 ニルケンスの性格から言っても、とても放ってはおけなかっただろう。
「具合は悪いのか」
「お嬢さまはどうやら、このところまともにお食事を召し上がってなかったご様子で、貧血だそうです」
 ロイエンタールは、昨晩のエルフリーデの体の軽さを思い出した。
「ちょうど体が弱っておられたところに、昨夜の雨に濡れて熱を出してしまわれて…。でも、しばらく安静にしていれば大丈夫だとのことです」
 良かったですね、とでも言いたげにニルケンスは微笑む。事情を話していないのだから仕方ないとはいえ、ロイエンタールは毒気を抜かれた ような気分になった。
「そうか。手間をかけたな。これはわたしが持って行こう」
 銀盆を受け取り、替わりにコートを渡す。
「では、何かご用がございましたらお呼びください」
 人の良い忠実な執事は微笑んだまま一礼して、コートを掛けに階段裏へ歩いていった。ロイエンタールは片手で銀盆を持ち、そのまま二階へ 上がっていく。




 明かりの落とされた客間に入ると、エルフリーデは目を閉じて眠っていた。銀盆をサイドテーブルに置いて顔をのぞく。彼女の頬はかすかに 赤く、呼気に熱さが感じられる。少し寝汗をかいたのか、額にかかる淡い色の髪が湿っていた。
 あまりにも無防備な寝顔。昨夜ロイエンタールに刃を向けたのが嘘のようだ。ふいに彼は、このままエルフリーデを撃ってしまおうかと考えた。 罪人として憲兵に引き渡されて屈辱的な扱いを受けるより、この誇り高い娘は死を選ぶだろう。昨夜も自らそう言った。それなら望みどおりに してやるべきなのではないか?
 ロイエンタールは右手を軍服の内側、左脇に下げた銃帯に伸ばす。ゆっくりとブラスターを抜いて、ベッドに腰かけた。エルフリーデはまだ 静かに寝息をたてていて彼に気がついていない。
 上掛けをめくると、エルフリーデの素肌が薄闇に白く浮かんだ。華奢な鎖骨は白いバスローブに包まれている。ロイエンタールはブラスターの 安全装置を解き、銃口を彼女の左胸にあてた。安らかに眠る女と無機質なブラスター。ロイエンタールの眼には奇妙な取り合わせに映った。
 引き金に人差し指をかけたまま、ロイエンタールは動きを止めた。あと一センチ、指が動かない。
なぜだ。
 自分に問いかけてみる。憲兵本部の狭い留置場で、シーツを破って拵えた紐で己の首を括る…そんな死に様はこの娘には似合わないでは ないか。だから今、ここで…。
 わずかにロイエンタールが逡巡していると、ふいにエルフリーデの睫毛がふるえた。ロイエンタールはブラスターをかまえたまま、ゆっくりと 開かれる瞳を見つめていた。青い瞳はブラスターに注がれることなく、まっすぐに彼の金銀妖瞳をとらえる。
「迷わないで…撃ちなさい」
 その声に、棘はなかった。むしろ静かな声音だ。
「俺に罪を増やせと?」
「そうよ。わたしひとりが増えたところで、お前が地獄に堕ちるのは同じよ」
 頭を上げて言うエルフリーデの瞳に、一瞬昨夜のような烈しさがゆらめいた。ロイエンタールはその瞳をじっと見返す。怒りの中に、底知れぬ 哀しみと怯えが見えた。手負いの獣のようだ。彼はそう思った。
ふいにロイエンタールはブラスターのトリガーから人差し指を抜いた。そしてそのまま、ブラスターを床へ投げる。
「どうして…」
エルフリーデが床に転がっていくブラスターを目で追いながら問いかけた時、彼女の手首はもう目の前の男の掌に握られていた。抗う間もなく、 ベッドへ体を押し付けられる。
「それならおまえも罪人だな。敵の俺にこうやって抱かれている」
 エルフリーデの耳元でロイエンタールがささやく。
「やめて…離して!」
 バスローブがはだけるのにもかまわず、エルフリーデは身をよじった。口づけを落とされた耳と握られている手首が熱い。嫌だと思っているのに、 この男が憎いのに、なぜ体が応えるのだろう。自分の感情を自分の体が裏切ってゆく。
 せめて睨もうと、男の目を追っても力は湧いてこない。
 ロイエンタールは前夜とまったく同じにエルフリーデの体へぴったりと覆いかぶさった。そして同じように抵抗を封じた。違うのは、エルフリーデの 体が熱いことだ。そして抵抗もわずかに弱い。しかしその白い肌は熱のせいで湿り気を帯びて彼の手を誘う。ロイエンタールは顔を上げて、エルフ リーデの額へ自分の額を寄せた。彼女の瞳は潤んで、繊細な顔立ちをいっそうはかなく彩る。
「教えてやろう。リヒテンラーデ一族の処刑を指揮したのはわたしだ」
 それは愛の言葉をささやくような言い方だった。
「……!」
 エルフリーデは衝撃で声も出ない。とにかくローエングラム側の軍人に復讐しようと決めて狙った相手が、図らずも真の仇敵だったのだ。 しかし、その男を目の前にしながら何もできない自分。
 硬直する彼女の体から、ロイエンタールがやさしいと言っていいほどの仕草でパスローブを剥いでいく。涙で視界が霞み、言葉の代わりに あふれて幾筋も枕へ伝う。
ロイエンタールの手がエルフリーデの脇腹を撫で上げる。白い、絹の手触り。彼の体の下で、びくっと細い体が震えた。唇を鎖骨に沿って這わせた 後ロイエンタールはふたたび顔を上げ、エルフリーデをじっと見つめる。怒りと悲しみに彩られた顔は、快楽に染まってなお美しい。
「共に…堕ちるか」
その言葉は、エルフリーデの耳に甘い呪文のように響いた。彼女も涙に濡れた瞳でロイエンタールを見返す。類稀な美しい金銀妖瞳。漆黒の右目を 畏れ、紺碧の左目に魅かれる。
「殺して…」
 彼女の感情は、どんな常識でも計れない。
 濃さを増す闇に、エルフリーデの懇願が響いた。





 
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