黒の呪縛 と 青の枷




 また、朝が来た。
 エルフリーデは浅い眠りから覚め、背中に感じるあたたかさに気づいて首を後ろへひねった。彼女のうなじのすぐそばに ロイエンタールの顔がある。あの瞳は両方とも閉じられ、軽い寝息で彼がまだ眠っているのが分かった。腕はエルフリーデの 胸元と腰に回され足は彼女の足を挟んでいる。ちょうど後ろから抱きすくめられているような形に。
 エルフリーデは狼狽した。ロイエンタールは裸なのだ。そして同時にそのあたたかさに驚いていた。今まで、誰かと裸の体を 寄せ合ったことなど一度もない。だから彼女は、他人の体温が伝わる感覚を知らなかった。
 その時、ロイエンタールの腕が緩慢に動いてエルフリーデをより近くに抱き寄せた。
「あっ…」
 寝息はまだ聞こえる。おそらくそれは寝返りと同じ無意識の仕草だったのだろう。その分余計に罪深いことのような気がして、 エルフリーデはばっと体を起こした。
 振り返ると、ゆっくりとロイエンタールの目が開くところだった。エルフリーデが振り払った左手を自分の額に伸ばし、濃い 色の髪をかき上げる。
「…早いな」
ナイトテーブルに置いたアナログの時計に目をやって言う。時計はまだ七時を回る前だった。視線を移すと、エルフリーデが 彼を見ていた。淡い色の髪がもつれて肩にかかり、昨夜の涙のせいか目の縁が赤い。白い体の左の乳房、ちょうど心臓の 辺りには彼が印した唇の跡が紫色に残っている。その視線に気づいて、エルフリーデは無言でシーツをたぐり寄せ、裸の体を 隠す。なるべくロイエンタールから遠ざかろうと曲げた足を後ろへずらしかけた時、彼女の体はシーツごとロイエンタールの 腕の中へ抱き寄せられた。
「なにを…!」
身動きできずに問う。しかしロイエンタールは答えず、エルフリーデを抱えて立ち上がった。そのまま浴室へ歩いていく。 そして浴槽のふちを跨ぎ、中へゆっくりと彼女を立たせて下ろした。エルフリーデは何が起こるのか予測ができず、固まった ようにじっとしている。ロイエンタールが空いた手でシャワーの栓をひねると、ふたりの頭上から湯が激しい雨のように降り そそいだ。エルフリーデの髪も、掴んだままのシーツも一気に濡れる。
 ロイエンタールの髪も同じように濡れ、長めの前髪が目に落ちかかる。彼は左手の指をエルフリーデのもつれた髪にから ませて、解きながら湯の流れに沿って梳いた。あたたかい雨の下、呆然と彼を見上げる彼女の表情は無防備だ。
 ロイエンタールは首を曲げ、エルフリーデの耳へ唇を寄せた。
「朝からそんなに俺を誘うな」
小さな声で言う。
「馬鹿にしないで!」
予想外の事を言われ、エルフリーデは両手でロイエンタールの体を押し離した。瞬間、支えを失ったシーツがシャワーの湯に 流されて彼女の体から落ちる。
「あっ…」
慌ててシーツを拾うために体を屈めようとするが、ロイエンタールの手に阻まれる。
「じっとしていろ。髪がもつれているんだ」
そう言ってまた、空いたほうの手でエルフリーデの髪を梳く。先ほどのささやきさえ目の前の男の策略だったような気がして、 彼女は唇を噛んだ。しかたなく腕を胸の前で交差させ、わずかな抵抗をする。
 思いがけない丁寧さで、ロイエンタールはエルフリーデの髪のもつれを解いた。
 彼女の細い髪は、幼い頃からよくもつれてメイド達の手をわずらわせたものだ。しかしやさしい彼女たちは、いつも面倒がらずに ブラシで梳いてくれた。髪の艶をほめながら。
 還らない懐かしい日々を思って、エルフリーデの胸は痛んだ。そしてそれを奪った男の指が、自分の顎を持ち上げるのを 感じて視線を上げた。親指が彼女の下唇をなぞる。
 ロイエンタールの顔が寄せられるが、額が触れる直前のところで止まった。エルフリーデの顎からはずした指が、背に長く 垂れた髪を握って胸の前にまとめる。
「これでいい」
そう言ってロイエンタールは体を離し、エルフリーデを残したまま浴槽を出てバスローブを羽織った。そして振り返りもせず、 浴室から姿を消した。
 降りそそぐシャワーの中に立ちすくむエルフリーデは、自分があの男の口づけを期待していたような気がして、罪の意識に 苛まれていた。




 解かれた髪と体を丁寧に洗い、大きなバスタオルを体に巻いてエルフリーデは浴室を出た。
客間にも、ロイエンタールの姿はない。その代わり、銀盆に載せられたティーカップが入り口近くの小さなテーブルに置かれて いた。香り高い紅茶が湯気を上げている。おそらくニルケンスが持って来てくれたのだろう。エルフリーデは行儀が悪いと思い つつ、バスタオル姿のままティーカップを持って口をつけた。朝にふさわしく苦みの少ない丸い味の紅茶だった。
 カップをソーサーに置いて、エルフリーデは改めて部屋を見回す。しかし、彼女が昨日医者の訪問を受けた後、ベッドに入る 前にきちんとハンガーにかけて吊しておいた洋服はどこにも見あたらなかった。仕方なくエルフリーデは、ベッドの端にロイエン タールが彼女から剥がしたままの形に放り出されたバスローブをまた羽織る。
 やさしい肌触りの生地を体の前で重ねて腰紐を結び、彼女はなにげなくベッドのそばの窓へ視線を移した。見下ろす外に黒い 影が見えて、エルフリーデはとっさに体を半分ビロードのカーテンへ隠す。
 黒い影は、ロイエンタールだった。自然さを大切にしつつ整えられた庭園の真ん中に、まっすぐ門扉まで伸びた石畳の道を 玄関から歩いている。数歩後ろからはコートを手に抱えたニルケンスの姿。
 ロイエンタールは執務に向かうのだ。すっと背を伸ばした長身に黒い軍服をまとっている。朝の風が、肩から胸元に伸びた 銀の紐飾りを揺らしてゆく。彼の為にあつらえたように軍服が似合っているのを、エルフリーデさえ認めざるを得ない。
 ふと、ニルケンスに何か話しかけて、ロイエンタールが振り返る。その時彼は二階の客間から自分を見下ろす白い影に 気づいた。カーテンの影に隠れて、その姿は半分しか見えない。
 あどけなさを残す、彼の美しい虜囚。彼の腕の中で咲く、仇なす花。バスローブしかなければ、どこへも行けないだろう。
 ロイエンタールの口元に浮かんだかすかな笑みが、エルフリーデに見えたかどうか。




 コン、コン。
木の扉をノックする音で、エルフリーデははっと目を覚ました。洋服を探すのを諦めてベッドに座っているうち、つい寝入って しまったのだった。
「お嬢さま。お食事をお持ちしました。盆が入るくらいしか扉は開けませんので、ご安心下さいませ」
扉の向こうで、ニルケンスの声がする。エルフリーデは返事をする前に立ち上がって、扉のところまで行った。
「あの…ニルケンスさん。お気遣いありがとう。わたしが開けるわ」
昨日最初に会った時から、彼女はやさしい物腰の執事が好きになった。彼には無条件に人を安心させる不思議な力が備わって いるように思える。心を掻き乱す二日間、彼のやさしさがエルフリーデにはうれしかった。
 扉の影から顔だけをひょっこりのぞかせると、ニルケンスが木のプレートを持って立っていた。湯気が上がるスープ、焼けた ばかりの丸いパン、彩りよく盛られた何種類かのフルーツに紅茶の小ぶりなポットが載せられている。
「お嬢さま、おはようございます。お加減いかがですか?」
柔和な笑顔でニルケンスが問う。
「もう、大丈夫です。今日は熱もないようです」
つられて少し、エルフリーデもほほえむ。
「ああ、それは良かった。ではお食事もしっかり召し上がって下さいね」
扉にぶつけないよう慎重にエルフリーデはプレートを受け取った。
「オスカー様は小さな頃から、意外にいたずら好きでいらっしゃいますので…」
「え?」
ニルケンスの言った意味が分からず、エルフリーデはプレートをそばのテーブルに置いて訊き返した。
「お嬢さまのお洋服を隠してしまわれたのでしょう?わたしにも新しいものを用意しないようにとおっしゃいました。まぁ…ご自分で ご用意なさるんでしょうが、今だに子供のようないたずらをなさるものですね」
ニルケンスが眉を下げて苦笑する。エルフリーデはそれが自分をここから出さないためだと分かったが、その怒りを人の良い 執事にぶつけるわけにもいかず、同じように苦笑した。
「さぁ、冷めないうちにお召し上がり下さい。今日はまだご無理なさらないほうがよろしゅうございますよ。何かご用事がござい ましたらお呼び下さい。扉越しに承りますので」
礼を尽くしつつまた気遣いをみせて、ニルケンスはゆっくり外からノブを引いた。ぱたんと扉が閉まる。エルフリーデは扉の前で、 複雑な気分だった。ニルケンスのやさしさが彼女の頑なな心をあたためる。しかしエルフリーデは彼の大事な主人を仇と狙って いるのだ。それを知らず、まるで賓客のように彼女を遇してくれるのが申し訳ない。
本当の事を知ったら、彼はどう思うだろう…。彼女はため息をつかずにいられなかった。




 時計が夕刻から夜を指し示す頃、ロイエンタールはエルフリーデの居る客間の扉を開けた。彼の手には、五十センチほどの 大きな白い箱が抱えられている。
 室内はうす暗かった。ナイトテーブルの上にあるアンティークのランプが一つ灯されているだけだ。
部屋の住人は、浴室に近い側にひとつだけある出窓に腰掛けていた。朝、窓越しに見たままのバスローブ姿で、窓に肩を預けて 外へ視線をおいている。少し大きめのバスローブのせいで、袖口と裾からのぞく手足がいっそう細く見えた。
 ロイエンタールは声も掛けず側まで歩いて行った。
 エルフリーデの正面に立ち、足下に抱えた箱を下ろすと、彼女はやっと彼の金銀妖瞳を見上げる。しかし何も言わない。青い瞳には、 今までに見たことのない哀しげな光がたゆたっていた。
 ロイエンタールの手が、彼女のバスローブの紐に伸びる。抵抗もなく、彼はそれをするすると解いた。胸元がはだけて、まだ左の 乳房に残る紫の痣が目に止まる。ロイエンタールは背を屈め、箱の蓋を開けて中からクリーム色のワンピースを取り出した。それを エルフリーデの膝に置き、両手を彼女の肩にかけ、そのまま背に動かす。はらりとバスローブが落ちて、白い裸身があらわになった。 瞬間、エルフリーデははっと我に返って朝と同じように腕を胸の前で交差させる。
「着ないのか」
ロイエンタールが冷静に言う。それでやっと、彼女は膝の上のクリーム色の布地に気がついた。エルフリーデは立ち上がりながら 慌ててそれを広げ、頭から被った。絹らしいなめらかな生地が、すとんと彼女の体をすべり下りる。それはシンプルなキャミソール風の ワンピースだった。ゆったりとしているが、ウエスト部分がわずかに細く作られていて、彼女の華奢な体を引き立たせる。肩ひもが二重で、 一本は身ごろと同じ生地、一本はそれより薄く透ける光沢のある生地なのが唯一の飾りだ。
 広く開いた背中の留め金を留めようと腕を背中へまわして、エルフリーデの指はとまどった。留められないのだ。そこはファスナーでも フックでもなく、純粋に"ボタン"だった。腰に近い部分は何とかなるが、肩甲骨に近い方はどうしても手が届かない。
 手を戻して、エルフリーデはロイエンタールを睨んだ。贈り主は彼女と替わって出窓に腰掛け、唇の端をわずかに上げて、彼女を 見返す。
「着なくてもいいんだぞ」
からかうような声音が、エルフリーデを余計に怒らせる。しかし脱いでも彼の思う壺であることに変わりはなかった。仕方なく観念し、 彼女は一歩出窓に近づいて背を向けた。
 ロイエンタールの視界に、エルフリーデの狭い背中が入る。彼は片手を伸ばして長い髪を掴み、一度ひねって肩越しに落とした。 残るのはV字に開いたままのワンピースの生地。真ん中にまっすぐ伸びる背骨。くっきりと浮かぶ両の肩甲骨。無意識のうちに彼の 掌は、素肌の部分へと導かれていく。
 ロイエンタールの手が背中を撫で上げるのを感じて、エルフリーデの体は緊張した。彼女を残酷なほどの快楽に導く男の手。 かすかな震えがぴりぴりと触れられた場所に走る。
「早く留めて」
声だけは震えないように意識して、エルフリーデはやや早口で言った。めずらしくロイエンタールは逆らわず、ボタンとボタンホールに 指をかける。
 ひとつ、ひとつ、ボタンが留められる。あと残りひとつという時になって、
「戦場では、たくさんの兵が死ぬわね」
エルフリーデが急に小さく言った。ロイエンタールは相づちを打たない。黙って一番上のボタンをホールに入れる。
「人の命を奪うって、どんなふうに思うものなの?」
なおも続けるエルフリーデの片腕を握り、ロイエンタールは彼女をぐいと振り返らせた。その表情を見て、彼はエルフリーデが真剣に 問うているのだと気づく。青い瞳が見たこともないほど厳しく澄んでいる。ロイエンタールはひと呼吸置いてから片膝を立て、その上に 肘をついた。
「…何も感情など有りはしない。それが俺の仕事だ。死にたくなければ戦うしかない」
そう言って青い瞳を見返す。
「伯父様たちを処刑した時もそうだったの?」
硬い声がまた問う。
「そうだ。仕事だから指揮しただけだ」
答えに、ためらいはない。動揺を微塵も見せないロイエンタールの金銀妖瞳を、エルフリーデはしばらく見つめていた。
「…くやしいわ。おまえは強いのね」
彼女は感情を取り繕わず、思ったままを口にする。
「わたしは今日、ためらったわ。おまえを殺せば、ニルケンスさんが悲しむと思って。だけど、そんな事を考える者に復讐の資格なんか ないんだわ。復讐は、相手と同じ罪を背負うことだもの」
ロイエンタールは身じろぎもせず黙って聞いていた。エルフリーデは一度、目を閉じる。そしてゆっくりとまた開く。
「でも、わたしはおまえを殺すわ。わたしに残されたことはそれだけだから」
挑むようなきっぱりした口調。淡い桜色の唇にそぐわぬ言葉。その瞳に閃く凄艶な光。一瞬、ロイエンタールは我を忘れて魅入られた。
 腰掛けてエルフリーデを見上げる形のままロイエンタールの手が伸び、彼女の首の後ろに回された。そして自分の顔のほうに引き 寄せる。唇が触れ合うほんの手前まで。
「それだからいい、おまえは」
うれしそうとも受け取れるロイエンタールの言い方。言い終わると同時に唇をつける。エルフリーデも逆らわない。長くゆっくりと唇を 合わせる。
 よく似たふたり。よく似た孤独。傷つくのが怖いから牙を剥き、脆い盾を気取られないために剣を振るう。そのふたりが出会って しまった。仇と復讐者――最悪の形で。
幸福な結末など待つはずのない事は、痛いほどよく分かっている。おそらくは…叩きのめされて堕ちるだけ。
 それでも、互いの唇を甘噛みし、すこし離れては相手の瞳をのぞきこむ。そしてまた相手の唇を求める。
 ……閉じたばかりのエルフリーデの背中のボタンに、またロイエンタールの指がかかった。




 
ende







 はぁ…。こんな終わりかたでよかったかな。
とりあえずふたりが出会っていっしょに暮らし始めるまでを書きたかったのです。
しかしなんかこう、自分の思うままにロイエンタールを”動かす”とヤツが限りなく人でなしチックになってしまうのは、わたしが人でなし だからなのか(苦笑)。ちょっとエルフリーデ嬢がかわいそうすぎたかもしれません。それでもなおロイエンタールに惹かれていくのが うまく書けてるといいのですが。
 今度は、フェザーンに行く時くらいの話を書いてみたいと思います。