黒の呪縛 と 青の枷




 それは、エルフリーデにとって未経験の力だった。
彼女の手首を押さえる手、腰を抱きかかえる腕。彼女が仇として狙った男の力はあまりにも強く、振りほどくこともできない。小柄で細身の 彼女の足は地上から浮き、どんなに足掻いても無駄だった。
「離しなさい!」
 もう十回は言った台詞をまた口にしてみるが、男――帝国軍元帥オスカー・フォン・ロイエンタール――は今度もまったく意に介さなかった。 雨に濡れたエルフリーデの体を横抱きにしたまま、屋敷の玄関から内へとすすんで行く。艶やかな紺色の絨毯に、彼女のコートから落ちた 水滴が黒い染みをつけた。
「オスカーさま、おかえりなさいませ」
 ドアの開く音と穏やかな声がして、正面階段の陰から初老の男が姿を現す。丁寧に整えられた白髪交じりの髪、柔和な顔。優れた執事 らしい印象を与える容貌だ。しかし彼は主人の抱えているものを見て、
「その方は・・・」
と思わず口ごもった。
「今日はもう下がっていい。ご苦労だった」
 すれ違いざまにロイエンタールは執事に短く言い、歩調を緩めることなく階段を上ってゆく。それ以上の問いかけを許さない主人の後姿と その腕のもがく女性を見送って、執事は律儀に頭を下げた。
 二階に上がったロイエンタールは階段上すぐの客間に入り、窓辺の大きなベッドにエルフリーデを投げ下ろす。彼女はすぐに起き上がろうと 身を起こしかけたが、ロイエンタールに両腕を掴まれてベッドに押し付けられた。コートから雨が滲みて、濡れた背中が冷たい。
「離しなさいと言ってるでしょう!」
 本能的な恐怖を振り払いながら、エルフリーデは精一杯大きな声で言った。むろんロイエンタールはそれに従うこともなく、彼女の体の上に 自分の体を重ねる。そして鼻先が触れ合うほど顔を寄せてきた。
「断る。おまえはわたしを殺そうとした。その重罪人を自由にするわけにはいくまい」
 楽しそうともとれる表情でロイエンタールは言った。
「これは正当な敵討ちよ。罪ではないわ!」
「憲兵隊はそう思わないだろうな」
「……」
 エルフリーデは返す言葉を失う。目の前の男を睨むことしかできない。噂に高い金銀妖瞳に、自分の怯えた眼が映っている。だめだわ、 と彼女は絶望的になった。復讐の機会は一度しかなかったのに、それをのがした上、捕らわれてしまった。
「憲兵隊に突き出すくらいなら、ここでわたしを殺しなさい」
 精一杯視線に力をこめて、エルフリーデは低い声で言った。本気だった。ベッドの上に組み伏せられたこの状況が何を意味するか、いくら 男を知らない彼女にでも分かる。それを聞いたロイエンタールは、唇の端をかすかに上げ、場違いなほど優美にほほえんだ。
「……いやだ」
 言うが早いか、彼は視線を外してエルフリーデの濡れた首筋に唇をうずめた。不意打ちに彼女の襟足の髪は逆立ち、悪寒が背中を駆け上がる。
「やめて…!」
 渾身の力を込めてもがくが、彼女の上の長身の男はびくともしない。ロイエンタールはエルフリーデの細い両腕を左手だけでやすやすと押さえ、 右手で彼女のコートと上着のボタンを外していく。唇はエルフリーデの耳の後ろを通り、鎖骨まで這わせた。
 自分の首の辺りを襲う未知の感覚に、エルフリーデは怯えた。冷え切った体に伝わる男の唇のあたたかさ。怖ろしくてたまらないのに、喉から 声が出ない。
 白いブラウスの前を開け、緻密なレースのビスチェに包まれたエルフリーデの体を見たとき、ロイエンタールは密かに息をのんだ。白く滑らかな 肌が、持ち主の意図とは逆に彼を誘う。およそ戦場でしか自覚しない征服欲が、体の芯から湧き上がる。そして脆いと分かっているものをあえて 粉々にしたくなる荒々しい感情が、彼のエルフリーデを押さえつける手に力を込めさせる。
 乳房に指を這わされた瞬間、エルフリーデの首はわずかにのけぞった。怖い、と彼女の声にならない悲鳴が空気を震わす。濡れた衣服が湿った 音をたてる背中にはまだ悪寒を感じているのに、男の唇に呼応して肋骨の辺りが熱い。目頭も同じように熱くなる。呼吸ができなくなった時のように 意識が暗く混濁していくのを、エルフリーデはむしろ喜んだ。これで怖くなくなる、と。
彼女の唇から安堵の細いため息がもれた瞬間、その視界に金銀妖瞳が見えた。エルフリーデは何か言おうと唇をかすかに開いたが、やはり声 にはならない。そしてロイエンタールにはその唇の形が、口づけをせがまれているようにしか見えなかった。
彼は迷わずエルフリーデの唇を己の唇でふさいだ。




 朝の陽光のあたたかさで、エルフリーデは目を覚ました。素肌に触れる柔らかなシーツ。安眠のために硬さが調えられた枕。上掛けはあたたかい が、ふんわりと軽い。こんな感覚はひさしぶりだ。微熱があるのか、体がだるかった。もっと眠っていたい…。ぼんやりした頭で寝返りをうって、 彼女ははっと気がつく。自分の身に昨夜、何が起こったのか。
 慌てて起き上がり、自分の居る部屋を見回す。部屋には裸の彼女ひとりだ。あの男の姿はどこにもない。そして昨夜彼女が最初に連れていかれた 部屋とも違う事が分かった。あの部屋のベッドは壁側にあったが、今エルフリーデが座っているベッドは窓辺にある。それを思うと、彼女の背を再び 悪寒が襲った。あの濡れたコートの冷たい感触。体を這うあたたかいが乱暴な手。湿った唇。感情の読み取れない青と黒の瞳。そして…かすむ 意識の中、足の間に走った鈍い痛み。
「う…」
 エルフリーデは短く嗚咽した。目の奥が熱くなり、視界が涙でぼやける。
 何もできなかった。あの男を殺して仇を取ることも、あの男に抵抗することも。わたしは、馬鹿だわ…。
頬を流れて落ちた涙が、ワインレッドのベッドカバーに落ちて丸い染みになる。彼女はそれを掴んで目をぬぐった。ベルベットのやさしい肌触りだけが、 わずかに心をなぐさめた。
 ふいに、コツコツと扉をノックする音がした。エルフリーデの視線が扉へ飛ぶ。あの男だろうか。彼女は慌てて大きなベッドから下り、ベッドカバーを 引き寄せて体をすっぽりと被った。
コツコツ。また扉がノックされる。エルフリーデは部屋の隅に逃げた。
「お嬢さま。申し訳ありませんが、入らせていただきますね」
 それは彼女が恐れる男の声ではなかった。もっと柔和な声だった。
木の扉がゆっくりとスライドし、丸い眼鏡をかけた温容な初老の男がゆっくりと入ってきた。手には大きな白い紙箱をかかえている。エルフリーデは、 その男が昨夜玄関ですれ違った執事であることに気がついた。
「ああ、本当に申し訳ありません、お嬢さま。どうぞそこにそのまま居てください。わたしも近づきませんから」
 男は心底恐縮していた。彼女が裸体をベッドカバーに包んでいることを察しているのだろう。
「わたくしはこの家の執事でニルケンスと申します。オスカー様より承りまして、お嬢さまのお洋服をお持ちいたしました。こちらに置いておきますので、 どうぞお召しくださいませ。浴室は今、お嬢さまが立っていらっしゃる後ろのドアでございます」
 ニルケンスと名乗った執事は、扉のすぐそばにあるテーブルに箱を置き、丁寧に一礼して部屋を出ていった。またエルフリーデは部屋に一人残される。
 あの男が、服を…?
彼女はロイエンタールの真意を計りかねていた。命を狙われ、手籠めにした相手に服などと、どういうつもりだろう。
 とりあえずエルフリーデは、テーブルに近づいて白い箱の前に立った。よく見ると艶のある紙にかすかなマーブルの地模様をほどこした凝った造りの 箱だ。彼女はベッドカバーを胸の前で押さえ、片方の手で箱の蓋をとった。
 そこには、女性ものの一式が納められていた。シルクの白い下着、同じく白のブラウス、グレイのロングスカート。裾に小さく雪の結晶の透かし編みが 入った紺のカーディガン。どれもシンプルだが生地は逸品。彼女が幼い頃に慣れ親しんだ類のものだ。
 部屋中を見回しても自分の服が見つからない以上、これを着るしかないとエルフリーデは決めた。裸では逃げられないし、またあの男がここへ来る かもしれない。彼女は箱をかかえて先ほど立っていた場所へ戻り、執事に案内された通り浴室へ入った。
 浴室の中もベージュを基調にきちんと整えられている。置いてあるタオルや石鹸の類はシンプルだが、どれもエルフリーデが極上品として知るものだった。
 エルフリーデはやっとベッドカバーを脱ぎ、白い浴槽の中に立って湯のレバーを回した。頭の上のシャワー口からすこし熱めの湯が降りそそぐ。 視線を落すと、自分の太腿の内側にかすかな赤黒い染みがついているのが目に入った。
 それは少女でなくなってしまった烙印だった。
また目の奥が熱くなるのが分かる。ぎゅっとまぶたを閉じる。彼女はその湯が自分を溶かしてくれればいいのにと思いながら、長いこと目をつぶっていた。





 
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