"外傷性逆向性部分健忘"。医師はそう診断した。
『いわゆる記憶喪失です。しかし、犯罪組織に拉致された上、川に転落して溺死しかけたわけですから、その時の恐怖が引き金になった心因性のものとも言えるでしょう。 幸いなことに、検査の結果、脳の器質に重篤な障害はありませんので、ご安心下さい』
 治癒するのか、とロイエンタールは問うた。
『残念ながら、失われてしまった記憶がいつ戻るかは分かりません。確立された治療法はないのです。日常の小さな事がきっかけで蔓を引くように思い出すこともありますから、 あまり本人に無理をさせず、気長に、慎重に見守ってあげてください』
 エルフリーデの後姿に目をやりながら、ロイエンタールは医師の言葉を反芻する。
彼女は今、病院の中庭でニルケンスに車椅子を押してもらい、日光浴をしていた。未だ頭に巻かれた包帯からのぞく髪が、初冬の陽光に淡く透ける。
やっと、昼間であれば外に出られるくらいにまで回復した。
 だが、記憶は戻っていない。
エルフリーデに残った記憶は、ひどく虫食いで曖昧だった。幼い頃の事と、父と母が亡くなったことは覚えている。しかし、その理由は分からない。つまり、王朝の交代やクーデターなどの 個々の事項は思い出せず、ただ『悲しいことがあった』という漠然としたイメージらしい。
 そして、ニルケンスは『親切にしてくれた人』と認識できているが、ロイエンタールのことはまったく覚えていないのだ。彼を仇と狙ったことも、無理矢理体を奪われたことも、 憎しみと不可解な執着との間で揺れる関係さえも。
 三年間、同じ屋根の下で過ごした日々。
 できれば、消したいと願った記憶なのだろう。
ロイエンタールはそう解釈した。彼女が忘れているのは、すべてつらい事ばかりだ。屋敷を出てひとりになり、ぎりぎりまで追いつめられた心が、自己防衛したのかもしれない。
 それなのにわざわざ、真実を告げるつもりはなかった。
「ロイエンタール様!」
ニルケンスを振り返ったエルフリーデが、彼の姿に気づいて声を上げる。
 その顔は明るく、屈託がない。目が覚めた時傍にいたのがロイエンタールだったせいか、彼が来るのを楽しみにしている。
まるで生まれたばかりの雛が、初めて見たものを親と思い込んでしまう『刷り込み』のように。
今の彼女にとってロイエンタールは、身寄りのない自分にニルケンスを付き添わせ、面倒をみてくれている親切な人。ただそれだけなのだ。
「外に出て、平気なのか」
「はい。今日は気分も良くて。少しの間ならいいってお医者さまがおっしゃったんです」
うれしそうに報告する。後ろに立つニルケンスが車椅子をロイエンタールの方へ近づけた。
「そうか。よかったな」
ロイエンタールの返事がそっけなくとも、気にしている様子はない。ほほえんでうなずく。
「ニルケンス」
「はい」
呼ばれて、ニルケンスはエルフリーデの傍から離れた。ロイエンタールは五六歩あるき、彼女に話が聞こえない場所まで伴う。
「・・・ハイネセンの官邸の件で、警備機器会社がおまえと打ち合わせをしたいそうだ。四時には屋敷に戻ると伝えてある。今から行ってくれ。迎えの車は正面玄関だ」
「承知いたしました」
 いつものようにニルケンスは目礼を返す。そして、かすかにエルフリーデの方を向く。
「おれがしばらく、ここにいる」
彼女への心配を言い出せないニルケンスに、ロイエンタールはさりげなく言った。
 エルフリーデは容態が急変するような状態は脱しているが、記憶がつぎはぎで不安なはずだ。しかも、それを隠そうと人前では明るくふるまう。それを察したニルケンスは、引越し前の 忙しい時間を割いて病院に足を運んでいた。彼の心遣いは、ロイエンタールもよく分かっている。
「ありがとうございます」
 深く一礼して、ニルケンスは足早に去った。その後姿をエルフリーデは車椅子からさみしそうに見送る。
ロイエンタールはゆっくり、彼女の傍らに寄った。
「ニルケンスは用事があって、今日は帰った」
「そうですか・・・。よく来て頂いて、うれしいです」
翳った表情をあわてて消し、エルフリーデが笑みを浮かべる。
「さみしいのか?」
「いいえ。そんなことはありません。早くいろいろ思い出せれば良いのに、とは思いますけれど」
一瞬、ぎゅっと彼女の指が握られたのをロイエンタールは見逃さなかった。
 さみしい、と正直に言えるはずもないか・・・。
彼はエルフリーデの背後に回り、車椅子を病棟の方へ押し始めた。車椅子には乗者が手で操作できる移動装置がついているが、手首を痛めた彼女にはつらいだろう。
「もうすぐ日が落ちる。中へ入った方がいい」
「はい」
エルフリーデは茜色に染まり始めた空を見上げ、今度は素直にうなずく。
 白刃のごとき敵意を鞘に納めもせず、鋭い視線をつきつける姿を見慣れたロイエンタールにとって、今の彼女の態度は新味に感じられた。だが、こちらが本当の彼女に違いないのだ。
つつましやかで屈託なく、笑顔が似合う年頃の娘。もし何も起こらなかったなら、釣り合う家柄の貴族の男と結婚して、安直だがそれなりの幸せを手にしていただろう――。
 まるで平行世界へ迷い込んだような奇異な感覚をおぼえて、ロイエンタールはただ黙って車椅子を押した。




「お忙しいのでしょう?」
 病室に着き、車椅子からベッドに腰掛けたエルフリーデがロイエンタールに問う。
「ニルケンスさんが仰っていました。ロイエンタール様はもうすぐ大役をお受けになるので、忙しくしていらっしゃるんだって」
「ああ。ハイネセンへ引越しをするんだ。その準備がいろいろある」
ロイエンタールは、ベッドの傍に置いた一人掛けの椅子に座った。
「お引越し…なさるんですか」
言いづらかったのだろう。ニルケンスは転居のことを伝えていなかったようだ。エルフリーデは少し動揺しているように見える。
「そうだ。おまえはオーディンで暮らせるよう準備させているから、心配しなくていい」
「オーディン・・・へ?」
 オーディンと聞いて、エルフリーデの瞳に光が差した。彼女が失わずにいる記憶の大部分はオーディンでのものだ。
「ああ。生まれ育った所で暮らすのが一番いいだろう。家を借りて世話人を一人雇うから、不自由はないはずだ。ゆっくり療養しろ」
ロイエンタールはオーディンの知人に依頼して、小ぢんまりとして過ごしやすい郊外の家と、家事のプロである中年婦人を手配していた。エルフリーデにはそこで、一切こちらからの 連絡は断って暮らさせるつもりだ。
「あの・・・ロイエンタール様」
 おずおずとした声でエルフリーデが呼びかける。
「なんだ」
「どうして、こんなに優しくして下さいますの?」
ただ不思議だ、といった表情でエルフリーデが問うた。
 ロイエンタールは答えに詰まる。
おまえの両親を奪い、純潔を奪い、あやふやな関係のせいで心と体に傷を負わせたから、その罪滅ぼしだ。
 ―――と、言えるはずもない。
「おまえには借りがあった。それを返しているだけだ。気にしないでおれに任せておけ」
当たり障りなく、逃げる。
「は、はい」
 エルフリーデは記憶がないせいで、深く追求はできないようだった。ただ、ロイエンタールを信頼している。その無垢な様子に、未経験の安らぎを感じた。今まで、彼にそんな純粋な 感情を向けた女はいない。
しかし、同時に、ひどく居心地が悪い。安寧に浸れる性分ではないのだ。
「オーディンには、おれが同行する」
椅子から立ち上がり、ロイエンタールは言った。
 新領土総督としてハイネセンに赴任するため、特別休暇が十日間与えられている。その間にエルフリーデをオーディンに送り、その足でハイネセンに飛ぶつもりだった。
ニルケンスに任せようとも考えたが、最後に自分の所行にけりをつけておきたかった。
「ありがとうございます」
 嬉しそうに、エルフリーデが頭を下げる。
「星間航法に耐えられるよう、早く治しておけ」
「はい」
すげないロイエンタールの言葉にも、エルフリーデは笑みで答えた。




 同僚達が計画する壮行会への招待を、ロイエンタールは「気持ちだけ頂いておく」とすべて丁重に断った。
これが今生の別れになるわけでもなく、立体通信でいつでもその場に居るように話せるからだ。
 ただ、ミッターマイヤーの誘いだけは、普段と同じように応じた。
花束も送別の言葉も要らない。行きつけのバーのカウンターに腰掛け、ただ二人で飲むだけのささやかな宴だ。
 黒ビールを空け、赤ワインを空け、氷を浮かべたウィスキーの酔いがまわる頃、
「結局、彼女のことはどうするんだ」
唐突にミッターマイヤーが切り出す。ずっと案じていたのだろう。
「世話人をつけて、オーディンに住まわせる。行きだけは送って、後はもう会わないつもりだ」
 答えて、ロイエンタールはぐっと琥珀の液体をあおった。冷たいアルコールが、喉を灼きながら胸に滲みていく。
「逃げ、だと思うか」
自嘲の笑みを混ぜ、問う。
「それは・・・」
ミッターマイヤーは即答できなかった。蜂蜜色の髪を一度掻き上げ、カラン、とグラスの中で氷を回転させる。
「逃げだとは言わない。だが、命を狙われたのに、ずっと傍に置いておいたのだろう?そんなにあっさり手放してしまって、さみしくならないのか?」
『何年も一緒に暮らしているんだから、身を固めろ』と忠告した時と同じ、真っ直ぐな心から発せられた言葉が投げかけられる。今度は、ロイエンタールは意固地にならなかった。 肘をつき、黒い右目に手を当て、青い左目も閉じる。
「さみしくはならないな。むしろほっとしている」
 正直な気持ちだった。
「あの女は俺から離れるべきなんだ。以前のことは思い出させたくない。あんなに幸せそうな顔ができるとは知らなかったからな・・・」
 人は笑顔で暮らせる方が良いに決まっている。無理矢理に真実を知ったりすれば、余計な心の傷を増やすことになる。自分がいい例だ。
「ロイエンタール・・・」
何も言えなくなった親友のつぶやきが、瞼の暗闇に響いた。
 





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