オーディンでは、もう冬のような風が吹いていた。
宇宙港まで迎えに来た知人にエルフリーデの小さなトランクだけを預け、ロイエンタールは無人タクシーを拾う。
行き先を備え付けのキーボードで入力するロイエンタールに、
「どこへ行くのですか?」
未だ額に白い絆創膏を貼ったエルフリーデが、不思議そうに問う。今日から暮らす家に直行すると思っていたようだ。
「着けば分かる」
ロイエンタールは微笑で返した。
 車中で、エルフリーデははしゃいでいた。公的機関の建物や大きな貴族の屋敷の前を通ると、「覚えています!」とロイエンタールに告げる。それはどこか、空元気のようでもあった。
ロイエンタールはオーディンに一泊もしない。今夜の便で発つ。明日からはひとりで暮らしていかなければならないのだ。
 別れ際に、泣いてくれるなよ。
ロイエンタールはそう願っていた。できれば最後まで笑っていてほしい。その笑顔を記憶したまま、永遠に別れたい。




 無人タクシーが、停まった。自動ドアが上がる。
ロイエンタールは先に下りて手を差し出す。その手を握って、エルフリーデは外に出てきた。
 目の前にあるのは、彼女が最も恋うた場所だ。蔓薔薇の垣根、常緑樹の庭、堅牢な煉瓦造りの屋敷―――コールラウシュ邸。
「・・・・・・」
言葉もなく、エルフリーデは我が家を見つめていた。
 彼女がここを出て行ってから、すでに四年の歳月が流れた。新しい主は決まらず、ただ放置されていたようだ。蔓薔薇は好き勝手に伸び放題、庭の木々は自然の形を取り戻し、煉瓦の壁には蔦が這っている。
だが、そんな小さなことは問題ではなかった。
「管理者に開けておいてもらった。中へ入ろう」
懐かしさに胸がいっぱいの様子のエルフリーデにロイエンタールは声をかけ、玄関へと導く。雲を踏むような足取りで彼女はついて来る。
 重厚な表扉を開いて中へ入ると、屋敷の中は静けさで満たされていた。二人の足音が高い天井の玄関に響く。床や壁はごてごてしておらず、優雅な装飾が少しだけ見え、品の良さを感じさせる。
「・・・懐かしいか?」
当たり前のことしか、訊けなかった。エルフリーデは潤みを含んだ目を向け、うなずく。
「ありがとうございます。ロイエンタール様」
涙をぎりぎりのところで抑え、エルフリーデは笑顔になった。そして、二階の方を指差す。
「自分の部屋に行ってもいいですか?」
「ああ」
 今度は、エルフリーデの後をロイエンタールがついて行った。階段を上り、東側へ曲がる。小さな絵画が所々に掛かる廊下を進むと、つき当たりの部屋の前でエルフリーデは止まった。
「ここです」
淡いローズの絨毯を敷いた部屋に入ると、先ず大きな本棚が目につく。ロイエンタールの屋敷でも、エルフリーデはよく図書室にいた。生粋の本の虫なんだなとロイエンタールは感心する。
 エルフリーデは一通り見回した後、窓辺に寄り、取っ手に手をかける。新鮮な空気を入れようとしたようだが、びくともしない。四年間手入れもされず風雨にさらされていたのだから、 蝶番が錆びてしまったのだろう。
「ん・・・」
エルフリーデが力を入れる声がする。だがやはり、軋む音がかすかにしただけだ。ロイエンタールは早足で傍に行き、彼女の手に手を重ねる。
「手首を痛めたばかりなのだから、無理をするな」
「あ・・・はい」
長袖に隠れて外からは見えないが、エルフリーデの手首にはまだ包帯が巻かれている。
 下ろそうとしたエルフリーデの手を、ロイエンタールは持ち上げた。細く白い指が冷たい。じっと目を落とし、それを見つめる。
 この手が、幾夜ロイエンタールを拒んだことだろう。腕を押し、肩を押し、胸を押して彼の支配から逃れようともがいていた。徒労だと嘲弄しても抵抗しつづけた。
心まで屈しない、と向けられる強いまなざし。決して意のままにならず、頑固で手強い娘。それがエルフリーデだった。
「ロイエンタール様・・・?」
もの問いたげにエルフリーデが見上げる。同じ青い瞳がロイエンタールを映すが、あの娘はもういない。
「・・・美しい、手だ・・・」
小さくつぶやいて目を閉じ、ロイエンタールは白い手の甲に口づけた。別れの挨拶のつもりだった。
 その言葉に反応して、ぴくりと細い指が震える。
 震えは、手に伝わる。
異変に気づいて、ロイエンタールが目を開ける。それとほぼ同時に、エルフリーデの手がすっと引かれた。
 彼女は目を見開いていた。ロイエンタールが口づけた手の甲をもう片方の手で握り締め、ふらふらとあぶなげな足取りで壁のほうへ退がる。
「どうした?」
ロイエンタールが寄ると、さらに一歩遠ざかる。
胸の前で、手がまだ震えている。顔色は失われ、青い瞳は焦点が定かでなく、寄せた眉と引き結ばれた唇が、エルフリーデの混乱を露わにする。
「・・・オスカー・・・フォン・・・ロイエンタール・・・」
 かすれる声が、わずかに聞こえた。
「おい、一体・・・」
さすがのロイエンタールも、動揺を隠せない。とにかくエルフリーデを落ち着かせようと、間を詰めた、その時。
「わたしの・・・仇」
 彼女の口から、懐かしささえ覚える言葉がこぼれ落ちる。
はっと、ロイエンタールは息をのんだ。
「思い出したのか・・・?」
「わたしの・・・」
 彼の問いには答えず、エルフリーデはうわ言のように言い募る。
「わた・・・しの・・・」
震える手が伸び、目の前にいるロイエンタールのコートの襟を掴む。驚きに彩られた、稀有な金銀妖瞳を見上げる。
 朝靄が突然吹いた風に払われるかの如く、記憶が戻っていく。
壊れた豊かな生活。父の処刑。過酷な収容所。母の死。握り締めたナイフの重さと、致命的な失敗。冷酷な男の蹂躙。奪われた誇りと、与えられた優しさ。思いがけない、平穏な日常・・・
 高速再生のように蘇る情景に頭が重くなり、エルフリーデはロイエンタールの襟を握ったままうなだれる。
質素な新宮殿。皇帝夫妻。抱える矛盾と、浴びせられた罵声。足を冷やす寒さ。偽りの甘言と、暗闇・・・絶望・・・間近に迫る死。
 視界が溶ける。涙でにじんで、何も見えなくなる。水中深く引きずり込まれる感覚が蘇り、背中と腕が粟立つ。
「しっかりしろ!」
切迫したロイエンタールの声。尚更涙があふれる。

 あの時、沈んでいく水の中で、分かってしまった。憎しみも強がりも剥がれ落ちた、生死の境目で、たったひとつ心に残ったものが何なのか。

「おまえの罪を・・・私に償って」
 喉から絞り出すように、エルフリーデが言う。
「どういうことだ。償いとは・・・」
戸惑うロイエンタールは身を引こうとする。だが、襟を掴むエルフリーデの手に、力が入る。
 彼女が顔を上げると、長い睫毛は濡れ、頬には幾筋もの涙が伝っていた。そこには、重い鎧を脱ぎ捨てたような、素の美しさが在る。
「・・・何が望みだと言うんだ」
訊きながら、ロイエンタールはエルフリーデから目が離せなかった。
「おまえの、すべて」
 きっぱりと、彼女は言った。
赤く染まるエルフリーデの目元を、また新しい涙が流れていく。
「なん・・・だと・・・?」
ロイエンタールは、どくん、と自分の鼓動を耳元で感じる。
 おれのすべて、とはどういう意味だ?
問う言葉が声で形を成さない。
「すべてよ。心も身体も。おまえのすべてを私にちょうだい」
見上げる青い瞳が、一心にロイエンタールを見つめている。
「離れるのは・・・いや・・・!」
悲痛な声と共に、エルフリーデは掴んでいた襟を手放し、ロイエンタールの首に腕を回した。急に爪先立ったせいで不安定になった体が傾ぐのを、反射的にロイエンタールは抱きとめてしまう。
 この、細い体。
あらためて、彼女の秘める強靭さに驚かされる。
 この体でおれと戦い、あの痛みを乗り越えてきたのだ。たったひとりで。
「いやなの・・・」
気丈にふるまうのが限界に達したのか、涙声で震え始めたエルフリーデを、ロイエンタールは力をこめて抱きしめる。

 目を、閉じた。

 おれは、何を怖れていたのか。

大切なものなど、何一つ要らなかった。そんなもの、握りつぶして粉々にしてしまう方が、よほど楽だった。他人をやさしく守るなど、自分には到底不可能だと思っていた。
 だからずっと、逃げ続けて・・・
その弱さのすべてを、今、エルフリーデが渾身の力で、引き裂いてくれた。
 おそらく、彼女でなくてはならなかったのだ。あの美しく猛き皇帝でも、快活な親友でもなく。弱さを内包し、それを隠すために居丈高にふるまう自分と似た、エルフリーデでなくては。


 ロイエンタールは、ゆっくりと瞼を上げる。
 抱きしめていた腕をゆるめ、エルフリーデの肩に手を当てて、胸から離した。彼女は袖で目元をこすり、洟をすする。ロイエンタールはその後ろ頭を撫でた。エルフリーデはびくっと反応した後、 こわごわと顔を上げる。
 涙は瞳だけに残り、目元は余計に赤くなっていた。ロイエンタールは両手でエルフリーデの頬を包み、親指で目尻に触れる。
「おまえをいつも、泣かせているな・・・」
観念したような笑みが、ロイエンタールの唇に浮かぶ。金銀妖瞳に、初めて見るやさしさが宿る。それを目にしたエルフリーデの胸は、熱く痛んだ。
「おまえに、償わせてくれ」
 額と額が触れ、エルフリーデの視界が黒と青だけになる。
「・・・おれのすべてを、おまえにやろう」
 静かな声が、ゆっくりと告げた。
 エルフリーデはちいさく、うなずいた。




 新領土総督府官邸に、ロイエンタールは妻を連れて赴任することになった。
神にも、他人にも誓わず、ただ互いのみに誓いを立て、ロイエンタールとエルフリーデは夫婦となった。表向きには、婚姻届を提出しただけである。その役目は、ニルケンスが担った。


「やっと・・・親とは違う人生を生きる決心がついた」
ハイネセンからの通信で、ミッターマイヤーは親友を目にした。醒めた笑みはまだ在るものの、爽涼とした表情だ。
 初めて金銀妖瞳の秘密を話してくれた、あの若き日の夜から――正確にはその前から――彼がまとっていた暗い影が、消えている。
「そうか・・・」
感慨深く、ミッターマイヤーはほほえんだ。ロイエンタールが平穏な幸福を選び取ったことが、我が事のように嬉しい。
「こっちでは色々聞き出そうと手ぐすね引いてる奴らがいるんだが、本当に結婚式もパーティも無しか?」
 ミッターマイヤーはフェザーンの皇府で、彼が一番事情を知っているだろう、と思い込んだ提督連中からの質問攻めに遭っている。
「二人はどこで出会った?」「エルフリーデ嬢はどんな娘だ?」「あのロイエンタールが本当に結婚を?」「こんな時期になぜ?」
「知らん」「知らん」「知らん」「知らんよ!」
ミッターマイヤーの答えはひとつしかない。たとえ知っていることでも、ロイエンタールを差し置いて答えるつもりもない。
 しかし、提督連中だけならまだしも、皇后陛下からも同様の質問を受けることがあるので、困りものだ。その時は首を振って「存じません。申し訳ありません」と謝罪する。 苦労が絶えない。
 ただ若い皇帝だけは、唇に美麗な笑みを刷き、
「結婚は、思いがけない時にするものだからな」
と納得していた。

「・・・格式ばったことは何もしない。そんなもの、おれたちには似つかわしくない」
 こちらの苦労も知らぬげに、予想通りの答えが返ってくる。
ミッターマイヤーはひとつ、ため息をついた。そして画面越しに親友を見つめ、
「幸せにな」
万感の想いをこめ、短く祝福する。
 生まれて初めて言われたのであろうその言葉に、ロイエンタールは金銀妖瞳をわずかに見開いたが、
「ありがとう」
答える声はやわらかかった。




 翌年、ロイエンタール夫妻には第一子の男児が誕生した。
夫婦の完全な意見の一致を得て、名付け親にはミッターマイヤーが指名された。二日間の猶予の間、目の下に隈を作るほど悩んだ名将は、妻の助言を受け、古い言葉で"幸福"を意味する、
『フェリックス』
と、その子を名づけた。







+++ ende +++













一気に、書き上げました。意外と長くなったなぁ・・・。
とにかく、「黒の贖罪と青の福音」では二人を悲しい終わりにしてしまったので、自分で自分に救済策!で禁断のパラレルに手をつけた わけですが、いかがだったでしょうか。
後半は「こんなのロイエンタールじゃないんじゃ・・・」と己れツッコミを入れたくなるシーンも多いのですが、何が何でも幸せにしてやれ!と 決めて、多少思い切ったセリフを言わせました。書けて満足。

再度ロイエル熱を呼び覚まして、この書きかけだったパラレルを完成させる原動力を下さったJeri様に感謝します。
2010.07.11