バタバタとブーツの重い足音が聞こえ、ケスラーは目を通していた文書から目を上げた。
「総監。出動の準備が整いました」
若い憲兵が、敬礼と共に報告する。
「分かった」
短く返し、ケスラーは椅子から立ち上がった。
今日は、憲兵隊任務の総監検閲の日だ。日頃は現場に出ないケスラーが、一般憲兵に混ざってその任務の様子を閲する。彼が総監職に就いてから始め、今や慣行となった行事だった。 隊員の士気が上がると現場の指揮官にも好評で、ケスラー自身も楽しみにしている。
 憲兵隊支部の建物を出て、装甲を施した地上車に乗り込むと、すぐに発車する。
「しかし、酷いな。身分証明書が無い者の弱みに付け込んで、人身売買をするとは」
再び今回の検挙計画書に目を落としたケスラーがつぶやく。
「しかも、ボランティアを装っているんですからね。性悪な連中ですよ。甘い言葉で誘い込んだ後、男は辺境星の鉱山労働に、女は売春宿に売り飛ばすんです。たまったもんじゃない」
向かいに座った中隊長が、怒り心頭の面持ちで拳を握る。
「何ともすばしこくて、なかなか尻尾がつかめなかったんですが、仲介役の商船乗りを締め上げて、今日の夕方、騙した人々を車に詰めて宇宙港まで運ぶことが分かりました。 途中、フレーリヒ川の橋を渡る所で挟み撃ちにします」
「必ず捕らえよう」
ケスラーが中隊長の腕を叩く。
「はい。必ず」
頼もしい部下は深くうなずいて、耳に嵌めたインカムのマイクを口元へ降ろす。
ケスラーは久しぶりの緊張感に、背筋が伸びる思いがした。




 頭蓋を叩く鈍い痛みで、エルフリーデは目を覚ました。
周囲は狭く、薄暗い。箱の中のような感じだ。外では何かエンジン音のようなものがしている。
頭を起こしてみたが、ひどい目眩がしてまた冷たい床に顔が当たる。どうやら体を床に転がされているらしい。手の自由もきかない。目をやると、太い金属の手錠でがっちりと両手首を繋ぎ止めてある。
どのくらい倒れていたのだろうか。見当もつかない。
事務局次長のデーリングに連れられてこの倉庫街へ来て、『こちらです』と通された部屋に入るなり、待ち構えていた人物に霧状のものを顔に噴霧され、気を失ってしまった。何らかの麻酔薬に違いない。
一瞬しか見えなかったが、事務所として案内された場所には何もなかった。簡易椅子がいくつか転がっていただけだ。
 騙された。
 そうなんだ。
 愚かで軽率だった。
困窮していたところに差し伸べられた善意の手に、安易にすがってしまった。それが、この結果だ。
エルフリーデはぎゅっと目をつぶった。いくら後悔しても遅い。どう考えても、デーリングは真っ当な人間ではない。これから自分の身がどうなるのか、悪い想像ならいくらでも出来る。
 ガシャンと掛け金を外す音がし、まぶたの闇に光を感じた。エルフリーデは目を開ける。
「おい、生きてるか」
デーリングではない若い男が、こちらを覗き込んでいた。エルフリーデは初めて、自分が地上車の荷台に閉じ込められているのが分かった。
彼女が目を開けていることを確認すると、男の唇に下卑た笑みが浮かぶ。
「出発直前に上玉が手に入るとは、今回はツイてる」
エルフリーデにひと言も発させることなく、無情に後部ドアは閉じられた。再び錠をかける音がする。
「ああ・・・!」
絶望感に襲われて、エルフリーデは掠れた悲鳴を上げた。




 フェザーン宇宙港へ伸びる幹線道路は、フレーリヒ川の上で鉄橋になっている。
川縁には森が迫っており、葉の茂った木々が密接に立ち並ぶ。それが、橋の両側で待ち伏せる憲兵隊を上手く隠してくれていた。
「・・・そろそろです」
ケスラーの隣に並んだ中隊長が、腕時計に視線を落として告げる。
「うむ」
答えながら、ブラスターの安全装置を外す。高みの見物をするつもりはなかった。現場に足を運んだなら、周囲の状況に合わせて働く。それがケスラーの信条だ。 何度も総監検閲を経験した中隊長はよく分かっている。
『対象車両、来ました。4台が連なっています』
インカムから低い声で連絡が入る。それと同時に、橋の入口側に居るケスラーの視界へ4台のトラック型地上車が現れた。すべて小型で、地味な灰色に塗装されている。
あの荷台に、騙された人々が閉じ込められているはずだ。
「よし。橋の中間地点に差しかかったら、すぐに両端を封鎖せよ」
『了解』
橋の周囲に他の車影はない。好機だ。
片側一車線の鉄橋へ、何の警戒もしていない4台の地上車が進入してくる。スピードをやや速め、中間地点に達した瞬間、橋の両端で赤い信号弾が打ち上がった。
 それを合図に、木立から駆け出した憲兵隊員によって、道路封鎖用柵が幾重にも設置される。柵の先にはロケット砲を担いだ隊員が配置に付く。止まらなければ撃つ、という警告だ。
甲高いスキール音を響かせ、封鎖に気づいた先頭の地上車が止まる。慌てて後退しようとするが、入口側も封鎖されているため、袋の鼠だ。行き場をなくした2台目、3台目が鉄橋の欄干にボディを擦らせながら停止した。
 だが、4台目は止まらなかった。
アクセルを踏んだばかりで勢いがつき過ぎていたのか、ぐらりと車体が傾ぎ、横転する。それでも止まれず、欄干に激しく当たり、それを突き破った。
「まずい!」
「いかん!」
中隊長とケスラーの叫声が同時に発せられる。
 4台目の地上車は宙を飛び、5メートルほど下の川面へ落ちた。大きな水しぶきが上がる。


 なす術なく地上車に揺られていたエルフリーデの体は、不意にきつく踏まれたブレーキのせいで、扉の方へ転がった。
さらに強い衝撃が車内を揺るがす。ガコン、という激しい音と共に視界が横転し、手錠のせいで受け身を取れず、頭から壁に叩きつけられられた。
 一瞬、視力を失うほどの痛みがエルフリーデを襲う。意識がかすむ。
 次に我に返った時、視界は血に染まり、体の回りには水があった。池か川か分からないが、車が落ちたようだ。ざぁざぁと響く水音と共に、車内が急速に水で満たされていく。
「で、出なくては・・・」
エルフリーデは恐慌に陥りそうな自分を何とか律し、頭上に位置する扉に寄る。水はもう胸まで迫って来ている。
 しかし、扉の内側には取っ手さえもなかった。
手首が痛むのも構わず、手錠をガンガンとぶつけてみるが、びくともしない。何度試しても同じ。外の鍵と水圧が、エルフリーデを完全に閉じ込めている。
「いや・・・誰か・・・!」
叫びが、水に混ざった。ついに水は口元まで来た。
 いけない!
エルフリーデはつま先で壁を蹴り、最後に残った空間で深く息を吸って止める。
下へ引きずられる感覚と共に、やがて車内は完全に水で満たされた。
 ゴボッ・・・
白い泡が口から漏れる。小さく、息をして。自分に言い聞かせる。
 静か、だった。
水音ももう聞こえない。
傷ついた頭部から溢れる血が水に混ざり、薄闇に散る。その複雑な紋様の美しさから目が離せなくなる。
 水底に沈んでいきながら、恐ろしさはしだいに萎む。
これで死ねるなら、楽だと思った。天上には、父も母もいる。この世に在るより、よほど居心地がいいはずだ。
喉元がきゅっと絞まるような感覚がし、同時に冷たい金銀妖瞳の面影を想う。

 心残りは、おまえのことだけ・・・

 オスカー・フォン・ロイエンタール。

 わたしの・・・・・・

水面を乱雑に照らし始めたライトや集結する人影に気がつくこともなく、エルフリーデはゆっくりと意識を失った。




 『面会謝絶』の表示がある集中治療室の扉がスライドする。
外気が入り込まないよう、気圧調節された入り口を抜けると、薄緑のカーテンの向こうにベッドが見えた。傍らには、マリーカが立っている。ロイエンタールはカーテンを片手で寄せ、中へ入った。
 真っ白なシーツに包まれて、エルフリーデは眠っていた。
頭部には額が隠れてしまうほど幅広く包帯が巻いてある。口には酸素マスク、腕には点滴の針。指先に嵌めた計測装置からは、 傍らのモニターへ脈拍や血圧のデータが送られていた。そのモニターが発する信号音だけが、静かな部屋に短く響く。
「・・・ロイエンタール様」
気配に気づいたマリーカが顔を向ける。
「ご足労すまなかった、フォイエルバッハ嬢」
「いいえ。私は何も・・・。来て下さってよかったですわ。私はしばらく、外にいます」
安心したように少しほほえみ、彼女は病室を出て行った。

 ロイエンタールがケスラーから連絡を受けたのは1時間ほど前のことだ。
人身売買組織を検挙する最中に事故が発生し、巻き込まれた女性を救助した。どうもそれがエルフリーデのようだという。
 晩餐会で一度対面しただけなので確信はないが、コールラウシュ嬢だと思う。
ケスラーは言った。
彼は仕事柄、人の顔を憶えることに抜きん出ている。見間違えるとは考えにくい。ロイエンタールは疑わず、直ぐに教えられた総合病院へ駆けつけた。
 憲兵ではなく、婚約者のマリーカを付き添わせてくれたケスラーの気遣いもありがたかった。

 ロイエンタールはベッドの側に寄る。近くで見ると、エルフリーデの顔色はかなり青白い。
点滴の針が刺されていない方の手をそっと取る。何度も掴んだことのある細い手首は、厚い包帯に覆われている。
『手錠を掛けられたまま、地上車ごと川に落ちて・・・』
 ケスラーはそう言っていた。苦しくて恐ろしくて、もがいたのだろう。白い包帯からうっすら血が滲んで見えた。
今さら血を見て動揺するはずもない生粋の軍人なのに、なぜか胸にずしりと重いものが落ちる。
 エルフリーデは傷だらけだ。体だけではない。おそらく、心も。
「だれ・・・?」
か細い声で我に返ると、薄く開かれた青い瞳が彼を見上げていた。鎮静剤が効いているのか、まばたきも億劫そうだ。
「まだ眠っていろ。死にかけたんだからな」
やさしい言葉などかけられない自分に苛立ちながら、ロイエンタールはエルフリーデの手を離そうとする。だが、彼女の指はロイエンタールの袖をそっと掴む。
「怖いの・・・暗くて、いたい・・・」
眉間が寄り、悲痛な声が、酸素マスクでくぐもる。
 ふるえる細い指を、ロイエンタールはもう片方の手で包んだ。無意識だった。
「おまえは助かったんだ」
またゆっくりと、エルフリーデがまばたきをする。ここが病室だというのを確かめるように。
「もう大丈夫だ。心配するな」
「よかっ・・・た・・・」
表情がゆるむ。安堵のため息が、酸素マスクを白く曇らせた。ロイエンタールは手に力を入れ、しっかりとエルフリーデの指を握る。見慣れた青い瞳が、彼をみつめ返した。唇が、動く。
「あなたは、だれ・・・?」





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