気がつくと、エルフリーデの姿が消えていた。
ロイエンタールはさりげなく辺りを見渡す。しかし、談笑する人々の間には見当たらない。
乾杯が終わってからまったく話さなくなった彼女が、さすがに気にかかる。今日ここへ連れて来ることを、もっと早く話すべきだった。それは分かっている。 拒みたくても拒めない状況に追い詰めたのは他ならぬロイエンタール自身だ。
ふと、中庭へ続く大きなガラス戸のひとつが少し開いているのに気づく。
 彼はそっとテーブルの傍から離れると、白いレースのカーテンを除け、その戸を押して中庭へ出た。
仄かな外灯がテラスの石畳をやわらかく照らしている。風はなく、晩秋の夜にしてはあたたかい。
テラスの周囲は常緑樹の高い生垣で庭園と仕切ってあった。生垣の外では、厳しく訓練された近衛兵が歩哨を行っているはずだ。
 テラスを進むと、木材のベンチにエルフリーデを見つけた。彼女はシャンパングラスを水鉢の縁に置き、ぼんやりと夜空を見上げている。その姿はひどく悄然として、無理矢理引き千切られた花を思わせた。
ロイエンタールは驚かさないよう、ゆっくりと近づく。エルフリーデはすぐに気づいたようだが、黙っている。


『良い機会だ。コールラウシュ嬢の存在を公式にすればいい』
二週間前、恩赦の内容が決まった後のミッターマイヤーの科白がよみがえる。
『晩餐会の会場に連れて来るだけでいいんだろう?そう言ったのは卿だが』
彼の真意が汲み取れず、ロイエンタールは問い返した。
『それはそうだが、この際だから正式に彼女をだな…』
『何が言いたい?』
 やっとミッターマイヤーが言わんとすることを察したが、敢えて切り込む。ありがたくもない忠言をおとなしく聞く気にはなれない。
やや大仰に、ミッターマイヤーは身を乗り出す。
『余計な口出しなのは承知の上だが、もう何年も一緒に暮らしているんだから、身を固めろと言ってるんだよ。今のままじゃ、来月完成する総督府官邸には彼女を連れていけないんだぞ』
官邸はその名の通り、国家所有の建物だ。正式な妻以外の女性を住まわせることなど許されない。
 本気で彼らふたりのことを心配しているらしいミッターマイヤーに、ロイエンタールはため息をついてみせる。
『卿は何か誤解しているようだな』
彼の囲いに在りながら、決して隷従はしないエルフリーデ。彼女に冷淡に接しながら、放逐はしない自分。三年近い歳月の間に、ふたりの感情の糸は捩れて絡み、錯雑な模様を織り上げている。
 好きだから一緒に住んでいるんだろう、というミッターマイヤーらしい健全な思考からは、ほど遠い関係なのだ。
『そんなものじゃない、おれたちは…』
ロイエンタールは、めずらしく語尾を濁した。


 夜空を見上げるエルフリーデに、立ったままのロイエンタールは手を伸ばす。
彼女の細い頤は、掌にぴったりと収まった。エルフリーデの視線が、ゆっくりと彼に向けられる。瞳の青が、涙でにじんで見えた。涙をこぼすまいと、上を向いているのかもしれない。
 打ちひしがれていても、彼女は美しかった。できるなら、誰の目にも触れさせずに置きたかった。本人の意向など無視して連れて来たのは自分だというのに、そんなことを思う。矛盾。そうだ。 エルフリーデに対する感情は常に矛盾に満ちている。
「ご苦労だった」
短く、労う。それ以上の言葉は思い浮かばない。
「・・・私は何をしてるのかしら。仇も取らずに、ローエングラムに頭を下げたりして」
その声にロイエンタールへの怒りはこめられていなかった。ひどい自己嫌悪と、途方にくれたような響きがある。なぜ自分を利用した、と責め立ててくれればいいものを。
思わずロイエンタールは、やさしい手つきでエルフリーデの頬を撫でた。彼女はそれを振り払わず、静かに目を閉じる。眉根が、つらそうに寄る。
「・・・帰りたい・・・」
涙の代わりに、唇から小さな声がこぼれ落ちた。それはロイエンタールの眉をも顰めさせるほどせつなげだ。
エルフリーデが本当に帰りたい場所が、彼の屋敷のはずはなかった。




 ロイエンタール家では、少しずつ引越しの準備が始まった。
といっても、当主本人は新領土総督就任の公務で多忙な為、執事のニルケンスがすべてを請け負っている。
家具の運送業者や、総督府官邸の私室を警備する担当者が訪れる中、エルフリーデは自室へ閉じこもったままだ。
 ロイエンタールが自分の扱いに苦慮していることを、彼女は察していた。
『出て行け』
たったひと言ですむのに、彼はなぜ言えないでいるのだろう。
理由は考えたくなかった。なぜなら、エルフリーデ自身も『なぜここを出て行かないのか』と問われた時に困るからだ。
 憎しみの感情に貼りつく、奇妙な互いへの執着。その正体から、ふたりは目を逸らし続けている。正直になるには、時が経ち過ぎた。今さらどうすることもできない。


 秋も深まり、紅葉より枯葉の方が目立ち始めた、ある夜。
久方ぶりに自邸へ帰る地上車の中で、ロイエンタールは腕を組み、ため息をついた。
もう、答えに窮するからといって逃げてはいられなかった。そろそろ、ハイネセンへの転居日が確定する。エルフリーデの処遇を決めなくてはならない。
視界に入って来た自邸に目をやりながら、とにかく、彼女自身がどうしたいのか訊こう、と、ロイエンタールは躊躇う自分に鞭打った。
 車から降りると、いつも通りニルケンスが一礼して出迎える。だが、いつも淡く口元にある笑みがない。唇が真一文字に結ばれている。ロイエンタールはコートを預ける手を止め、怪訝そうに彼の目を見返した。
「お嬢さまが・・・」
いつも淀みない受け答えをするニルケンスが、珍しく口ごもる。
「どうした?」
「ここを出ていかれました。私に『いろいろありがとう』とおっしゃって・・・」
 出て、行った。
単純なその事実を、一瞬、ロイエンタールは認識することができない。いつのまにか、どこへも行けないだろうと高をくくっていたのに気づく。
「・・・いつだ?」
「1時間ほど前に」
「金は?」
 まだオーディンの屋敷にいた頃、ニルケンスには『エルフリーデが出て行く時、欲しがるだけの金を与えるように』と言いつけてあった。それは、身寄りのない彼女への気遣いというよりも、きつい当て擦りのつもりだった。
「それが・・・私が小切手カードの用意しようと奥の間に入っている間に、行かれてしまって・・・」
「そうか。いいんだ。気にするな」
ニルケンスを責める気はない。彼とて困惑しているのだ。
「はい・・・」
一度、視線を下げたニルケンスは、組み合わせた手をぐっと握り、意を決したように再び顔を上げる。
「オスカー様。実は…お嬢さまからは口止めされたんですが」
「どうした」
「今日夕刻、お嬢さまのご親戚だと仰る方がおみえになったのです」
「親戚・・・?」
エルフリーデはひとり娘で、両親共すでに亡い。それはロイエンタールも知っていた。今頃家族以外の親戚が訪ねて来たなら、おそらく同じリヒテンラーデ候の係累に属する者のはずだ。
 そう、恩赦によって流刑から自由の身になったばかりの。
「中年のご婦人だったのですが、お嬢さまの顔を見るなり、ひどくなじられて・・・」
「裏切り者とでも言ったか」
「はい。自分達を裏切って、ひとりだけ良い暮らしをしていたのね、と玄関ホールに響くほどの声で叫びました。それに、オスカー様とのことで、ずいぶんひどい事を・・・」
 想像に易い。おそらく体を売ったとでも言われたのだろう。
「ご婦人は言いたいことだけを言って、帰ってしまわれました。お嬢さまはその間何も言い返されませんでした。ただもう、衝撃を受けていらっしゃったご様子で」
ニルケンスの表情が沈痛に翳る。
あの誇り高いエルフリーデには、さぞかし耐えがたい非難だったはずだ。その原因の一端はロイエンタールにも在る。
 彼は深くため息をついた。
「オスカー様」
ニルケンスの思いつめた声に、ロイエンタールは視線を上げる。
「お嬢さまを、探して下さい。お願いします。嫌な予感がするんです」
 ロイエンタール家に仕えるようになって四十年以上。初めて、ニルケンスが己の職域を越えた。常に控えめで優秀な執事だった彼が、ただ感情のままに訴えたのだ。
「・・・分かった。探そう」
ロイエンタールは咎めなかった。静かに首肯して、階段へと向かっていく。
その背中を、ニルケンスは頭を下げて見送った。


 二階に上がったロイエンタールは、自分の部屋へは向かわず、東側の客間へ足を運ぶ。
葡萄の弦を模したアンティーク材のドアノブを握り、ひと思いにぐっと引く。
部屋の中には、重い夜闇の緞帳が下りていた。
 ノックもせずに扉を開く彼を責めるようなまなざし。虜囚ではないと主張する、凛とした佇まい。見慣れたいつもの姿は、やはりどこにもなかった。




「悪いけどねぇ、身分証明書がないんじゃ、雇うわけにはいかないんだよ」
恰幅の良い店主は、首を振ってそう言った。
 もう何度、同じ台詞を聞いただろうか。
エルフリーデはうなだれ、『店員募集』の紙を貼り出した小さなレストランを後にする。
 フェザーンの下町通りには、冬を思わせる風が散り初めの葉を舞い上げていた。薄手のコートの襟をしっかりと寄せてみても、足が冷える。
ロイエンタール邸を出てから半月。最後に残った財産である母の形見のブローチを売ったが、身分証明書がないことにつけこまれて、ひどく買い叩かれた。 二ヶ月ぶんの家賃を前払いして何とか古いアパートは借りられたものの、残りの所持金はわずかだ。その金も最低限度の生活用品と食べ物を買ったら、ほとんど無くなってしまった。
 エルフリーデの生活は逼迫していた。
生まれた時から何不自由ない暮らしをしてきたが、これからはそうはいかない。帰る場所はない。働くしかない。
 あらためて自分を見つめてみると、貴族の身分を奪われた今、社会的には価値の低い人間だと思い知った。片手間に習ったピアノやダンスなど、生計を立てるのに何の役にも立たないのだ。
 だれひとり頼る人もなく、ただ自分の矮小さだけを了知するつらさ。
まぶたが熱くなり、視界がかすむ。エルフリーデは眉根を寄せてこらえようとする。めそめそしたくなかった。泣いても何も変わらないことは、あの辺境の収容所で嫌というほど分かった。
久方ぶりに感じる、強い孤独。厳しい現実が彼女を試す。
 もう、帰る場所はどこにもないのよ。しっかりしなくては――。
不意に思い出しそうになるあの屋敷での生活を、エルフリーデは頭から追い払った。
「お嬢さん」
 突然背後から声をかけられて、彼女は足を止め、振り返る。
紺色のスーツを着た、実直そうな容貌の若い男が立っていた。男はエルフリーデの後を追って来たようで、少し肩で息をして見える。
「もしかして、身分証明書が無くてお困りですか?」
「は、はい。そうですが・・・」
「やっぱり。あのレストランでお茶を飲んでいたら、貴女と店主が喋ってるのが聞こえたものだから・・・」
 そう言って、男は背後の通りを指差す。先ほどの店の客だったらしい。
「私は身元保証者代行の仕事をしておりましてね。もし身分証明書がご入用なら、何とかいたしますよ」
「そんなことができるんですか?」
エルフリーデはぱっと表情を明るくした。流刑地からの脱走者だった彼女は、身元保証者が誰もいないため、身分証明書の類を一切持っていない。そのせいでこの半月、どれだけ苦労したことか。
「ええ。できますとも」
つられたように、男もほほえむ。
「昨今はやむをえない理由で他の惑星へ移住されたりして、身分証明書がなくてお困りの方が多いんですよ。そんな方のために、我々はボランティアでお手伝いをさせていただいてます。 法外な値をふっかける闇業者とは違いますから、どうぞご安心下さい」
 そう説明しながら、男は懐から小さなカードを取り出した。
『 移住者安定生活支援組織"ホフノング"  事務局次長 マックス・デーリング 』
藁をも掴みたい状況の時に、やっと救いの神が現われた。これで仕事が見つかる。エルフリーデは胸を撫で下ろす。
「よかった。助かります。ぜひ、お願いします」
「では、さっそく当組織の事務所へいらっしゃいますか?今日中に申請すれば明日の発行も可能ですよ」
 その嬉しい申し出を、エルフリーデが断るわけもなかった。





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