※お読みになる前の注意点※

●このお話はパラレルです。
●ロイエンタールが叛乱を起こしておらず、多少やさぐれつつも生存している。
●フェリックスが生まれていない。
●ラインハルトを筆頭に、9〜10巻で死んだ人が生存している。
●本編と不整合な部分があっても「パラレルだから」と目をつぶっていただきたい。

「OK!」でしたら、どうぞ。










Gabelung
---- 分岐点 ----





 窓の外に広がるロイエンタール邸の庭は茶と橙と濃紅とに彩られ、今が一番綺麗だ。
それを眺めながら、エルフリーデは紅茶のカップを口に運ぶ。
庭師が集めた枯葉の山から、ひょいと小さな顔をのぞかせたリスを見て、彼女はすこしほほえんだ。
ロイエンタールと出会って、三度目の秋が巡り来た。
場所もオーディンからフェザーンへ移って二年になる。だが、ふたりの関係は最初とあまり変わっていない。 交わす言葉も視線も少なく、顔を合わせれば冷たい言葉ばかりを投げ合う。
 もう、互いに歩み寄ることなどできない状態だ。それはほとんど子供じみた意地といってもよかった。


バタン。
部屋の扉が開く音がして、エルフリーデは振り返る。
いつもの冷たい表情にやや困惑したような色を混ぜて、ロイエンタールが現れた。つかつかと真っ直ぐ、彼女に歩み寄ってくる。
驚いて、エルフリーデはカップをソーサーに置く。時刻はまだ夕刻。彼が帰るには早すぎる時間だ。
「来い」
困惑したままの彼女の上腕を、大きな手がつかむ。
「な、なんなの?」
問いには答えず、ロイエンタールはそのまま部屋を出て、階下へと引っ張ってゆく。玄関ホールまで着くと、扉が開けてあり、黒塗りの地上車がエンジンをかけたまま止まっていた。 傍に立つ執事のニルケンスが、彼らの姿を見て恭しく後部座席のドアを開ける。
「待ちなさい。いったい何を・・・」
その声は、そのまま車内へ吸い込まれた。


ロイエンタールは車内に座って、やっとエルフリーデの腕を離す。
「訳は後で言う。とにかく一緒に来い」
来いも何も、無理やり車に引き込んだくせに…。その言葉は飲み込み、エルフリーデはドアの方へ体を寄せる。口ごたえしてもよかったのだが、ロイエンタール自身も困っているように見えるため、一応とどまった。
 車は高級洋品店が軒をつらねる通りへ入ってゆく。ガラス張りのショーウィンドウの中に、季節を先取りしたコートやバッグが凝ったディスプレイで飾られている。
エルフリーデの目に、影付きの文字で"Kristalline"と標された看板がよぎった。16歳の誕生日に両親がプレゼントのドレスを買ってくれた店のフェザーン支店だ。 大人っぽく見られたいと黒を選んだ彼女を、両親は苦笑いしながら見ていた。その表情を思い出すと、鼻の奥がつんとする。
 たいせつにしていたから、三回ほどしか着ていないあのドレスはどこへいっただろう。憲兵に追われるように出た後、生まれ育ったコールラウシュ館がどうなったのか、エルフリーデは知らない。




 小ぢんまりとしているが、格式高い造りの店の前で車は止まった。
運転手が扉を開けると、先に降りたロイエンタールが手を差し出す。エルフリーデはその手を取って、車を降りた。あらかじめ連絡があったのか、店主らしき年配の女性が出迎えてくれる。 結い上げた髪は白髪交じりだが上品だ。白いブラウスに黒のロングスカートの姿が高貴ささえ漂わせている。
「中へどうぞ」
ほほえまれ、エルフリーデは曳かれるように店内へ踏み込んだ。
 やわらかで毛足の長いベージュの絨毯が、彼女の足をやさしく迎える。クラシックな雰囲気で統一された店内は、ドレスとバック、靴、アクセサリーなどが陳列されていた。 品数はさほど多くない。しかし、一目で逸品と分かるものばかりだ。
「デューリング夫人。すべて任せるから、宜しく頼む」
ロイエンタールは女主人に言い、店の隅に置かれたソファへと腰を下ろす。自分の出る幕ではない、とでも言いたげだ。
「では、こちらへ」
デューリング夫人と呼ばれた女主人は、エルフリーデをロイエンタールの居る場所から反対側へ招く。彼女がそちらへ歩いていくのを待って、店内を横切り、床まで届くほどの長さのカーテンを引いた。
これでロイエンタールからは一切エルフリーデの姿が見えなくなる。まるで、とても広い試着室だ。
「さて。どうしましょうね」
デューリング夫人は、エルフリーデの顔からつま先までを眺める。その目は楽しそうで、値踏みされているような不快感はなかった。
「私を、どうするんですか?」
ロイエンタールが答えてくれなかったことを訊いてみる。
「詳しい事は何も聞かされていませんの。ただ、貴女を晩餐会にふさわしく装わせてほしい、とのご依頼ですよ」
そう答えながら、デューリング夫人は一枚のドレスを選び出す。アイスブルーと薄いグレーのジョーゼットを使った、シンプルなものだった。
「晩餐会…?」
ロイエンタールはエルフリーデを公式な場に同伴したことなどない。
それもそのはず。彼女の身分は未だ"流刑地から脱走した罪人"なのだ。
いくら『この復讐は正当だ』と言い張っても、ロイエンタールに匿われる形になっているからこそ無事でいられる。これは、動かしがたい事実だった。エルフリーデ自身、不本意ながらも認識している。
 それなのに……晩餐会?
ますます困惑するエルフリーデをよそに、デューリング夫人はコーディネートの手を休めなかった。
エルフリーデにドレスを着せ、紺色に銀糸で縁取りをした花のコサージュを胸元につける。首には長めのシルバーパールを二連に。靴は白のストラップパンプスだ。オープントゥになっていて、小さな貴石がキラリと輝く。
 あっという間に、鏡の前には正装のエルフリーデがいた。
ほとんど茫然としている彼女を、デューリング夫人は椅子に座らせる。あとは髪と化粧だけ。それも鮮やかな手つきで、髪は夜会巻きに、化粧は淡く仕上げてくれた。
「これでいいですわ。さあ、立って」
エルフリーデが立つと、幾重にも重なったジョーゼットの滑らかな生地が、ふわりと膝を撫でる。ドレス丈は、ほんの少し靴が見えるくらいだ。
「顎を上げて、お嬢さん」
 デューリング夫人の指が、そっとエルフリーデの顎に当てられる。
思わず彼女が言葉通り顔を上げると、夫人と視線がぶつかった。紫の瞳はやさしくほほえんでいる。 やや切れ長の目元が母を思い出させて、エルフリーデはまた鼻の奥がつんとするのを感じた。ひどく感傷的になっているようだ。
「貴女の鎖骨はとても綺麗です。だからうつむかないで、自信を持って胸をはってくださいね」
「はい」
素直に、エルフリーデは答えた。
 目の前の大きな姿鏡に、久しぶりに着飾った自分が映っている。デューリング夫人がカーテンを開け放つと、ライトの光が増し、首にかけたパールが光沢をはなった。
ゆっくりと、彼女はロイエンタールの方へ振り返る。


 足を組み、ソファで寛いでいたロイエンタールは、開いたカーテンの奥を見て思わず身を起こした。
完璧な貴婦人がそこに立っていた。
飾り気のないドレスはエルフリーデの華奢さをいっそう際立たせ、アクセサリーも最小限で良いスパイスだ。
二十歳を越えてなおまとう少女じみた幼さは影を潜め、浅く広めの襟元からは色香さえ漂う。 それに彼女が持つ生来の気品が加わり、あくまでも上品に仕上げられている。
 やはり、デューリング夫人の見立ては素晴らしい。
「ご期待に添えましたかしら?」
ロイエンタールに問いかけながら、夫人はエルフリーデに白い手袋を渡す。袖なしのドレスの代わりに、手袋は肘上までの長いものだ。
「結構だ。礼を言う」
心の内とはうらはらにロイエンタールは表情を変えず、立ち上がった。
「時間がない。行くぞ」
素っ気なくエルフリーデに声をかけ、先に店の外へと出る。運転手がドアを開けた地上車の後部座席に乗り込むと、慌てたように彼女も後を追ってきた。訳も話さないまま連れ出したせいか、さすがに立腹している様子だ。
「今夜、新王朝の2周年と皇后の誕生日を祝う陛下主催の晩餐会がある。それにおまえも出てもらう」
 車が発進したのと同時に、ロイエンタールは言った。
「なぜ?私を伴って行っても、おまえが困るだけでしょう」
「……今回、記念の恩赦も行われることが決定した。対象はリップシュタット戦役ならびにリヒテンラーデ公反逆に関する罪で流刑に処せられた人々、だ」
まさに、エルフリーデが当てはまる。彼女はついに、罪人ではなくなるのだ。
現王朝としては、エルフリーデを公式の場に招くことで、旧王朝に関係する人々との和解を演出したいとの意向だろう。
「皇后陛下が、おまえに会いたいとおっしゃっている。会場に居て、二言三言話してくれればいい」
「嫌だと言っても、無理矢理連れていくつもりなんでしょう」
自分を公式の場に出すのは、彼自身も嫌なはずだとエルフリーデは察していた。それがローエングラム王家の為になることだから、堪えているだけで。
「いや、違う」
意外な答えが返ってきて、エルフリーデは思わずロイエンタールの方を向く。真摯な彼の金銀妖瞳が彼女を見返す。
「おまえにしか出来ないことだから、頼んでいるんだ」
堪えるどころか、譲ってみせるとは。いつものように命令口調で言われた方が、反発できる分ましだ。
「……わかったわ」
エルフリーデは視線を逸らしながら答え、座席のシートに背を預けた。




 初めて踏み込む新王宮の質素さに、エルフリーデは驚いた。
贅の限りを尽くした新無憂宮に幾度も通ったことがある彼女には、ここが皇帝の坐す場所だとは信じられない。窓枠こそテューダー様式が取り入れられているが、 それがなければ普通の省庁施設として通用しそうだ。ローエングラムT世が徹底して華美を嫌うというのは本当らしい。
その影響か、会場に集った人々もあまり豪奢な格好はしていない。競うように着飾っていた旧王朝の晩餐会が、遠い昔のように思い出される。
 あまりの違いに面食らったエルフリーデは、ロイエンタールが腕を差し出しているのに気づいた。こうした晴れの場で見ると、式服姿の彼はやはり貴族然と映える。
『うつむかないで、自信を持って胸をはってくださいね』
ふいに、デューリング夫人の言葉がよみがえる。彼女は背を伸ばし、その腕にそっと手をのせた。
「平和なことだな」
皮肉っぽく、ロイエンタールがつぶやいた。
 1世の御世は共和政府との関係などいくつかの問題を抱えてはいるものの、基本的には安泰期を迎えて平穏だ。自らを"奸雄"と諷する身には、いささか馴染みづらいところだろう。
 ホールの中央まで、ふたりはゆっくりと歩いていく。
自分に投げられる多くの視線を、エルフリーデは意識する。彼女の来場は既に周知されているようだ。
 リヒテンラーデ一族の生き残り。多くの艶聞を持つロイエンタールが、唯一長く側に置いている女。
その視線は好奇心に満ち、男たちは品定めの気配を隠そうともしない。
とりわけ、女たちの視線は鋭かった。望んでもいないのに、羨望と嫉妬の針がエルフリーデを刺す。居心地の悪さが足元から這い上がり、彼女を慄かせた。
「ロイエンタール!」
 テーブルの向こうから、明るい声でミッターマイヤーが呼ばわった。傍らにはほほえみをたたえた夫人のエヴァンゼリン、さらにはケスラーと婚約者のマリーカもいる。 四人はロイエンタールとエルフリーデの正面まで歩いて来た。
「さて、この美しい女性を紹介してもらおうか」
屈託なく、ミッターマイヤーはエルフリーデを見つめる。彼女は幾度かロイエンタール邸の中で彼を見たことがあるが、大抵柱の陰か遠く窓越しにだった。こうやって向き合うのは初めてだ。
 外見もさることながら、ミッターマイヤーのまとう雰囲気そのものが、ぱっと周囲を明るくする。夫人もまた、彼に似て温厚そうだ。新妻のような初々しさがただよう。
 一方のケスラーは電子新聞などで見る通り、落ち着いた態度の偉丈夫だ。婚約者のマリーカは娘と言ってもおかしくないほど可憐だが、ふたりのつくる雰囲気から親子でないことは容易に分かる。
「こちらがコールラウシュ嬢だ」
「はじめまして」
エルフリーデは膝を折り、宮廷風のお辞儀をする。四人は名乗りながら会釈とともに彼女に手を差し出し、軽い握手を交わした。
「ロイエンタール元帥。私たちにもご紹介下さいませんか」
 ぎこちなく会話を続けようとする四人に、凛とした声がかけられる。
全員の視線がそちらに向くと、自然に分かれた人垣の陰から皇帝夫妻が姿を現した。ラインハルトは式服、ヒルダはベージュを基調としたイブニングドレスだ。 人類のほとんどを統べる若いふたりは、絵画から抜け出たように華やかで美しい。
「陛下、皇后陛下、こちらがコールラウシュ嬢です」
ロイエンタールが彼女に手を向ける。
「はじめてお目にかかります。エルフリーデ・フォン・コールラウシュと申します」
再び膝を折り、目を伏せた彼女の脳裏に、大伯父の面影がよぎった。エルフリーデにとっては、大らかで優しい人だった故リヒテンラーデ公。それを皮切りに、父母や処刑された親類たちの姿が浮かぶ。
 彼らの仇を取るために、命がけで流刑地から脱走までしたというのに、自分はこの場で何をしているのだろう?
車の中でロイエンタールに晩餐会への同伴を依頼されてから、考えないようにしてきた自責が一気に牙を剥く。
 仇を取るどころか、ロイエンタールを手にかけることにも失敗し、その相手に匿われた挙句、今頭を下げているのは仇敵の首領、ローエングラムだ。
表向きには恨みを忘れていない、としながらも、結局は己の身かわいさに何もできなかった。
そして、旧王朝勢力との和解の象徴として利用される。
 臆病者。裏切り者。
きっと、生き残った人々にそういうレッテルを貼られるだろう。当然だ。
血の気が引き、骨が凍えた。怯弱さの代償の大きさを思い知らされる。
 顔を上げても、視界に灰色の紗がゆらめいた。皇后のヒルダが「どうぞ、わだかまりを捨てて…」などと言いながら彼女にほほえみかけるが、耳には届かない。あいまいにほほえみ返すことしかできない。
 動揺するエルフリーデを、不意に鳴り響いたファンファーレが救った。皇帝が乾杯の音頭を執る時間だ。
おのおのがシャンパングラスを手に集う。ラインハルトが短く建国記念と勢力融和の祝辞を述べる。
 難病を克服して一年。体力の戻った彼は生来の冷徹さがやわらぎ、穏やかな態度がかえって王者の風格を感じさせた。
「帝国の平定に力を尽くした皆に礼を言う。特に新領土は自治政府との協定締結が完遂し、平和的な共存が可能となった」
あちこちから拍手が起こる。
「よって、今回の最大の功労者であるロイエンタール元帥を新領土総督として任命する」
 ひときわ大きな拍手で、その宣言は迎えられた。側近の人々にとっては周知の事実だったろうが、エルフリーデには初耳だ。自責の泥濘から抜け出せないまま、更なる衝撃が彼女を沈める。
 エルフリーデは傍らのロイエンタールを見上げる。青と黒の瞳が、無言のまま見つめ返してくる。いつもと変わらない冷たい視線からは、何の感情も読み取れない。
ラインハルトが最後に『乾杯』と声を膨らますと、人々はグラスを掲げて大きく唱和する。
 意気上がる雰囲気の中、エルフリーデは茫然と立ち尽くした。






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