冬のこいうた
雲ひとつなく空が晴れ渡ったある日。
せっかくバイクが直ったのだから、とツーリングに誘ったのはいいが、当日ミュラー家に現れたユーディットは最初に会った日に着ていたワンピース姿だった。上着は母が結局彼女に贈った白のコート。
「・・・・・・」
「・・・・?」
困り顔のミュラーと笑いをこらえているミュラーの両親の顔を交互に見ながら、意味が分からず慌てるユーディット。仕方ないので、母は彼女にミュラーが中等学校時代に着ていた服を引っぱり出して来て、一式貸した。技術実習用のツナギに、こなれた革のジャンパー。足元はワークブーツ。どれも彼女には大きい。袖と裾を何度も折り返して、何とか体に合わせる。その姿に昼食を入れたリュックを担ぎ、ヘルメットをかぶると、子供が無理に兵士の格好をしているようで、いっそうおかしかった。
「すみません…バイクに乗るの初めてで…」
ヘルメットのひさしの下から恥ずかしそうに言うユーディットを、ミュラーは後部座席に乗せる。足を置く場所を教え、手は彼の腰にまわすように言った。彼女がおそるおそるそれに従う。ふわりとした重みがミュラーの背中に加わる。
「じゃ、出発しましょう」
腰に回された手をトントン、と軽くたたいて言うと、背中に当たるヘルメットがうなずくのが分かった。ミュラーはそれを確認して革の手袋をはめ、セルスイッチを押す。ブゥン!と快い音を放ってエンジンが目覚めた。左足でギアをカッと入れてクラッチを慎重に離すと、すーっとなめらかに発進する。
表通りに車の姿は少なく、バイクは快調に街の中を抜けていった。冬の風は耳が痛くなるほど冷たいが、バイクに乗っている時、ミュラーはむしろその風を感じるのが好きだ。何も考えずに前を見て走っていけばいい。
山に向かう道にさしかかったのでスロットルを少し開けると、ミュラーの腰に回された腕にぎゅっと力が入った。
「怖いですかー?」
少しだけななめに首を傾げて訊いてみる。
「いいえ!寒いけど気持ちいいですー!」
ユーディットが珍しくはしゃいだ声を出す。どうやら腕に力を入れたのは、寒かったからのようだ。
「バイクっていいですねー」
歌うような声。その表情にも、先日見せた陰の一差しさえ浮かんではいないのだろう。
木々が影を落とす山道を、適度なワインディングを楽しみながら、ふたりの乗ったバイクは駆け上がっていった。
頂上の広場に着くと、さすがに冬とあって誰もいなかった。しかし幸いに今日は天気が良く、バイクを停めてみれば風もおだやかだ。
ふたりは芝生の上で軽くパンの昼食を取り、しばらくたわいない話をしてから、煉瓦を組んで作った展望台へ登った。そこからはオーディンの中心部が一望でき、より空に近いような感覚がする。
ミュラーは指を組んで大きくのびをした。彼の額と砂色の髪を、冬の風が薙ぐ。隣に立つユーディットは、青く澄みわたる空に目を奪われていた。
「ユーディットさん」
ミュラーが声をかけると、彼女は視線を外さないまま空を指差した。
「ミュラーさまは、あの空の上の上の上の方まで行かれるのですか?」
「・・・そうです。去年まで、わたしは一年の半分以上を宇宙で過ごしていました」
言いながら、ミュラーも空を見上げた。この美しい空のはるか彼方に、殺戮の戦場があったとは…。すべてが幻のようにも思える。響き渡る轟音、通信官の切迫した声、闇に浮かび上がる爆発の閃光…死の悲鳴。
「あの…」
隣からユーディットの遠慮がちな声がして、ミュラーは視線を下ろした。
「何をそんなに、悩んでいらっしゃるのですか?」
深い緑の瞳が真摯に彼をみつめていた。
「え…?」
ふいを衝かれて、ミュラーはとまどった。
「あなたは…お優しい方ですけれど、ご自分に対してはそうではないのですね」
眉を下げてユーディットは言い、そしてミュラーの左胸にそっと掌を当てた。
「なぜだか…わかりません。でも、あなたの心が悲しんでいるように思えるんです」
「悲しむ…?」
「はい。あなたはほほえんでいてもさみしそうです…割れてしまって、もう戻らない硝子を見るように」
どくん。
ミュラーは、自分の鼓動が耳元で聞こえるのを感じた。
ぴしり。
ずっと長いこと感じていた鋭い痛みが、また胸に走る。思わず目を閉じた。
何も言わず佇むミュラーを、彼の胸に優しく掌を当てたまま、ユーディットはじっと待った。
やがて大きくひとつ息をして、ミュラーは目を開いた。そしてまた青い空を見上げる。冬特有の青空。冷たく感じるほどの蒼氷色。
あの瞳を思い出す。
戦場で、怖れを抱いたことなどなかった。命など喜んで捨てると本気で思っていた。ビームとミサイルの交差する直中に、身を投げ出したこともある。仰ぎ見れば、黄金獅子の旗。すべての人類の上に君臨せんとする、美しく猛き皇帝。常にその手には剣があり、自らの身に向けて掲げられていた。“己は皇帝に相応しいか”彼の人は生涯問い続けた。一切の妥協を許さずに。
その姿に、ミュラーは魅了された。理由はない。ただ彼の運命を司る何者かがそう告げたのだ。ラインハルト・フォン・ローエングラムの元で、その側に仕えよ、と。
しかし、その人は奪われた。永久に、安住の地へ。
覚悟はしていたはずだった。死期はすでに告げられていたのだから。しかし、現実に彼の人が去ってしまうと、恐ろしく大きな穴がミュラーの胸に空いた。それはほとんど現実的な痛みを伴うほどだった。
しかし、誰にそれを相談することができただろう。
気持ちは皆同じだ。黄金獅子の旗を仰いだ誰もが、その悲しみに耐えているのだ。そう思って、ミュラーは黙した。軍務尚書の大任を果たすべく努力し、次から次へと降ってくる難題を多くの官僚達と討議する。決済。また新たな討議…・不思議と疲れは感じなかった。むしろ楽だった。彼が休みもとらずひたすら仕事に打ち込んだのは、それ以外に胸の痛みを逸らす術がなかったからだ。
でも、常に心の奥底が慟哭する。
だれか、助けてくれ。
この胸に巣食う虚無を埋めてくれ…!
「ミュラーさ…」
ミュラーがユーディットの声を耳にして彼女を見つめると、緑の瞳が驚きに見開かれていた。
なぜ彼女はこんなに驚いて…?
ぽたり。
ミュラーの顎から、何か熱いものがこぼれ落ちた。ひとしずく。
―――彼は泣いていたのだった。
「あ……」
ぽたり。またひとしずく。頬から顎へ伝い落ちてゆく。
ミュラーは茫然と、ユーディットを見つめたまま体を硬くしていた。それを見かえす彼女の瞳も潤む。そして何も言わずに、涙で濡れたミュラーの頬をそっと両手で包んだ。
その掌のぬくもりが、彼の頬に伝わる。
「私は……ただ悲しくて……」
つぶやくように、ミュラーは口を開いた。
「ずっと泣きたかった……」
新しい涙が、彼の視界をにじませる。傷んだ心を癒す涙が、ユーディットの手であたためられて頬から心へまた染みていった。
やがて、その涙が静かに止んだ頃。
ユーディットの掌の間で、ミュラーがおだやかにほほえんだ。
「もう、悲しそうじゃないですか?」
照れをかくすように、目の前のユーディットから視線を外して訊く。彼女もほほえんでうなずき、
「はい」
と明るく言った。確かに彼の笑みから、痛々しさは消えていた。
「甘えついでに、お願いがあるんですけど」
ミュラーは、ユーディットの手首を自分の両手で握った。
「なんでしょう?」
ユーディットは小首を傾げて訊く。
「歌を…歌ってもらえませんか。メックリンガー提督が、あなたの歌声をとてもほめていました」
ミュラーが言うと、ユーディットはそっと彼の頬から手を離した。そして三歩ほど後ろに歩き、手首を握ったミュラーの手からも離れる。
「もう…あまり声は出ないかもしれませんが、お引き受けいたしますわ」
そう言って優美にお辞儀をしてみせた。まるでそこが彼女の舞台であるかのように。
「どんな歌がよろしいですか?」
ミュラーに問う。彼はしばし考えて、
「綺麗な歌を。あなたの好きなもので」
そう答えた。ユーディットはしっかりとうなずき、両手を静かに空へ伸ばした。そして息を吸い込む。
Ave Maria! Jungfrau mild,
erhore einer Jungfrau Flehen,
aus diesem Felsen starr und wild
soll mein Gebet zu dir hin wehen.
冬の冷たい空気に、ユーディットの歌声が響いてゆく。彼女が昔の声量を失ってしまったかどうかなど、ミュラーには関係なかった。ただその美しい旋律に、ユーディットの高く澄んだ声がとても似合っていると思った。空を見上げて歌うさまは、彼が死を悼む天上の皇帝へ捧げているように見える。
Wir schlafen sicher bis zum Morgen,
ob Menschen noch so grausam sind.
O Jungfrau, sieh der Jungfrau Sorgen,
O Mutter, hor ein bittend Kind!
Ave Maria!
歌い終わるとユーディットは手を下ろし、またお辞儀をした。ひとりだけの観客が、熱心に手を叩く。
「すばらしかったです」
「久しぶりだから緊張しました…ありがとうございます」
ユーディットは赤みがさした頬を隠すように手で押さえながら二歩、ミュラーの方へ戻ってくる。その細い体を、彼はばっと両手で抱き寄せた。
「ミ、ミュラーさま!?」
突然の事に驚いたユーディットが彼の腕の中で身じろぎする。しかしミュラーは腕に力をこめた。
「ありがとう」
その耳元でささやく。
「ありがとう。本当に」
何回も。
「あなたが私を救ってくれました…」
ユーディットは動くのを止め、そっと彼の背中に腕をまわした。そしてとんとん、と安心させるようにたたく。
ミュラーの胸に在った痛みは、完全になくなっていた。
それからもよく、ふたりは一緒にでかけた。
ミュラーがユーディットを仕官学校時代から顔なじみの小さなレストランに案内したり、ユーディットがミュラーを初心者にも親しみやすい室内楽のコンサートに案内したり…。
触れ合うことはなく、ただ仲の良い兄妹のように過ごした。
その夜も、ふたりは古いミュージカル映画の良作を観た後食事をし、ワインの酔いを冷ますためにユーディットの家まで歩いていた。冬の夜の下町は人の姿も少なく、靴音が石畳に響く。
「お仕事のほう、大丈夫なのですか?」
ほんのり頬を桜色に染めたユーディットが、ミュラーを見上げて訊いた。
「ええ。官房長官がしっかりしているので。先日もこちらから連絡してみたんですが、『こちらはいたって平穏です。ところでちゃんと休んでるんでしょうね?』と逆に言われてしまって」
ミュラーはフェルナーの口調を真似してみた。彼女はフェルナーを知らないが、彼の感情を込めない言い方がおかしかったのか、くすくすと口に手を当てて笑う。
ミュラーの休暇も、あと四日。フェザーンの執務室で三週間という長さに当惑したのが嘘のように過ぎていった。重く、悲しく心に沈んだ澱からも解放され、彼は戦いの日々とはまた違う充実感を持って仕事に戻れると予感していた。
「もうすぐ、フェザーンへお帰りになるのでしょう?」
コートの襟を寄せながらユーディットが問うた。笑顔のまま。
「はい…明後日にはオーディンを発ちます」
それが、休暇明けの執務に間に合うぎりぎりの出発日だった。
「そうですか…」
ユーディットはうつむく。そしてミュラーが何か声をかけようとした時、
「私は、ハイネセンに行きます」
顔を上げ、きりりとした声で彼に言った。
「母上とお兄さんのところへ?」
分かってはいるが、ついミュラーは訊いてしまう。
「はい。決めました。あちらの大学に入って、ちゃんと音楽教師になろうと思って」
彼が過去を聞いた時と同じ、強さを秘めた表情でうなずく。ミュラーは突然の事にとまどって足を止めた。何となく言い出しづらかったために避けていた話の続きを、今この場で聞こうとは思わなかったのだ。
「…いつですか?」
その質問に、毅然としていたユーディットの表情が曇った。唇がわずかに開き、一度閉じられてきゅっと引き結ばれる。そしてまた、開く。
「…明日、です」
「明日!?」
ミュラーの声は思わず大きくなった。あまりにも突然の宣告。
「ミュラーさまに言うと…決心が鈍るような気がして…ごめんなさい」
ユーディットはうつむいてしまい、顔を上げない。
「そんな…」
ミュラーが言葉につまる。
さよならを言わなければならないのは、自分だと思っていた。でもこれで終わりにしないために、どうすればいいかと考えていたところだったのに。
ハイネセン。帝国からは獅子身中の虫と見られる惑星。そこには彼の知己が幾人か居るが、軍務尚書たる現在では訪ねることが非常に難しい。要らぬ火種になりかねないからだ。双方にとって。
何も言えず、ただ立ちすくむふたりの上に、ぽつりと雨粒が落ちてきた。
氷雨。だんだん、強くなる。
ミュラーの砂色の髪を濡らし、ユーディットのコートを重くする。
ミュラーは黙って、ユーディットの手を握った。冷たく、細い指。そっと握り返してくる。そのまま、ふたりは歩き出した。やはり何も言えずに。
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