冬のこいうた






 ユーディットの部屋は、本当に小さかった。
市場街を見下ろす古びたアパートの三階。造り付けの棚にベッドと小さな机があるだけ。部屋の中はすでにほとんど片づけられ、まだ口を開けたままの旅行鞄がひとつ、窓際に置かれていた。
 その横に、ミュラーは立っていた。ここへ来た頃、彼女がそうしていたと言ったように、外に目をやる。雨の中、街灯が照らす通りには、色とりどりの看板を掲げた食料品店が見えた。昼間はさぞ活気のあるところなのだろう。
 背後に足音が聞こえて、彼はゆっくりと振り返った。
 ユーディットが、大きなタオルを持って立っていた。黙ったまま、精一杯背伸びをしてミュラーの頭に被せる。ちょうど目の高さが同じになった時、彼女の目のふちが赤くなっているのが分かった。
 ミュラーは、ユーディットの腕を握る。そして額を寄せた。タオルが彼女の頭にも掛かる。
「…あなたが、好きです」
白く包まれた視界の中で、ミュラーは静かに言った。
「好き、です…」
ユーディットも、緑の瞳にいっぱいの涙を溜めて言う。
「でも…私があなたのそばにいるわけには…」
震える唇で彼女は言葉を続けられない。
「なぜですか」
ミュラーには、彼女の言いたいことが分かっていた。でも、それをどうしても認めたくなくて、問い返した。
「理由は…お分かりのはずです。リップシュタットの盟約とともに、クルツライヒの名は、今の王朝にとって忌むべきもの」
すっと、ユーディットの瞳から涙が流れ落ちた。
「あなたの栄えある名に、私が影を落とすわけにはゆきません」
ミュラーはかつて、彼女に問うた。自分を恨んでいないのか、と。過去と決別したユーディットはそれをきっぱりと否定したが、世間の見方は違う。以前のミュラーと同じように、滅ぼされた家の者は現王朝を恨んでいるはずと考え、あらぬ風評を立てることだろう。復讐のためにユーディットがミュラーをたぶらかし、彼はたぶらかされたのだと。それは双方の名を貶めることだ。
「気にしなければいい。そんなこと」
強く言うミュラーに、ユーディットは首をふってみせた。
「あなたは、平和を歩む新しい帝国のために必要だ、と人々が望む方なのです。皆が、あなたの清廉さを讃えています」
だから、名を貶すことがあってはならない。
彼女の決意は固い。それがミュラーにはたまらなくやるせなかった。これほど、自分の築いた地位が苦痛に思えたことはない。
ミュラーの眉間に、深く縦皺が刻まれる。
「ずっと自分の気持ちに気づいていたのに…やっと言えた時には間に合わないなんて」
「いいんです…そのお心だけで…わたしは…」
ユーディットはミュラーの濡れたコートの襟を両手でつかみ、彼の胸に頬を寄せた。ふたりの、行き場を失って傷む想いに、凍るような冷たさが刺さる。
 ミュラーはユーディットが寄せた頬を、掌で包んだ。薬指で、彼女の唇に触れる。
「どうしても、行ってしまうのですか」
ミュラーが、もう片方の手でユーディットの肩を抱き寄せながら問う。
「はい…」
彼女の答えは、変わらなかった。そしてそのまま、ミュラーの唇を受け入れた。


 雨が強く降り続けるその夜。
濡れた服をすべて脱いだふたりは、ユーディットの狭いベッドで、ただ抱き合って眠った。
「ナイトハルト…」
ミュラーの腕の中で、ユーディットがそっと囁く。たった一夜、呼ぶことができるその名を、眠りに落ちるその瞬間まで彼女は何度も呼んだ。
ミュラーは、まどろみの中で、その声を聞いていた。慈しむような響きとともに。




 翌朝、カーテンの取り払われた窓から差す朝日のまぶしさで、ミュラーは目を覚ました。
彼の腕の中から、ユーディットは消えていた。小さな机の上には乾かされた衣服がたたんであった。その上に置かれた小さな紙に気づいて、ミュラーは手に取る。

『“さよなら”も言えないわたしをゆるしてください。
どうぞご健勝で
                ユーディット』

紙にはそう書いてあった。しかし名前の前に、まだ何か書こうとした跡がある。細かい波線で消してあるが。
 彼はそれを、朝日に透かしてみた。

  uber alles geliebte ich
       ――――愛するあなたの…

 かすかにそう読めた。続きを書きかけて、彼女はペンを止めたのだ。おそらくはミュラーの気持ちの重荷になることを畏れて。
 ミュラーは服を身につけ、その紙を二つ折りにしてポケットにしまった。
 からっぽの部屋をふりむきもせず出る。開店の準備をする人々が慌ただしく行き交う市場街を重い足取りで歩き、大通りへ出たところで無人タクシーを止めた。
 車内に乗り込んで目を閉じる。ほどよく調節された暖房も、彼の冷え切った心をあたためてはくれない。
実家の前でタクシーを降りたミュラーは、内へ入ってそのまままっすぐ二階の自室へ行く。途中、新聞を手にした父とすれ違ったが、「おはよう」以外の言葉は交わさなかった。息子のただならぬ様子に気づいて、父は不思議そうにミュラーの横顔を目で追う。
 部屋に入ると、コートを脱いだだけでミュラーはベッドに腰掛けた。
 思い出してはならないと打ち消すほど、ユーディットの姿がより鮮やかによみがえる。
子供のようにシチューを頬張るかと思えば、優雅な所作でお辞儀をする。権勢の過去を語る時その口調は重く、貧しい今を語る時その口調は明るい。
 あの歌声。耳に残る美しい響き。あの瞳。冬の寒さに負けぬ常緑樹の葉の、深い緑の瞳。人の心の痛みを見抜き、それを癒すことができる。
 そして、あのあたたかさ。ずっと触れていたいと・・・
 昨夜、ユーディットの体を抱いた感触が手によみがえり、ミュラーは顔を上げた。その視界へ、ハンガーに吊るされた元帥の軍服が入る。肩にある銀の房飾りが、至高の地位を厳かに証す。
 ”獅子の泉の七元帥“のひとり。ナイトハルト・ミュラー軍務尚書。
『あなたは、平和を歩む新しい帝国のために必要だ、と人々が望む方なのです』
皮肉なことだ。この地位のために、愛した人をあきらめなければならないとは。
 ミュラーは額に手をやった。目をつぶる。視界が闇に閉ざされる。
 これからの長い年月、今日という日を悔やんで暮らすのだろうか。あの時彼女を離さなければ…と、その幸福を思い描いて苦悶するのか。
 ―――いやだ。
 彼の内側で、純粋な感情が激しくもがいた。誠実、温厚。”ミュラー元帥“の名のもとに評された美辞を、強い力で叩き壊す。
 ミュラーは目を開け、ばっと立ち上がった。ジャケットを脱ぎ、軍服に袖を通す。黒のスラックスはそのままに、部屋から飛び出した。階段を下り、玄関を出て倉庫へ回る。バイクにまたがってセルスイッチを押し、エンジンの始動を確かめると、アクセルを開けて庭から車道へと斜めに突っ切っていった。
 冬の朝の冷たい風は、幸いにも追い風だった。ミュラーはまた一段ギアを上げ、エンジンの回転数を大きくする。市外の民間用宇宙港へ向けて。
 もう間に合わないかもしれない。でも何かしたかった。すこしでも後悔をへらすため?それでもかまわない。
のんびりと進む車列を避けながら走りつづけていくと、ゴオオオオ・・・と、核エンジンの轟音が近づき始めた。やがて金属のフェンスで囲まれた宇宙港が見えてくる。旅客船や貨物船が地上に停まり、着陸し、離陸している。
 ミュラーは旅客用ターミナルビルの前に滑り込み、バイクを置くと、玄関前にあるインフォメーションカウンターへ走って行った。
「おはようございます」
型通りに挨拶をしたターミナルの女性職員が、軍服姿の人物に気づいて目を見開く。それは幾度も立体TVのニュースで見たことのある顔。
「ミュッ、ミュラー軍務尚書閣下!?」
「…探してくれ」
乱れる息の下、ミュラーはやっと口を開く。
「今日出発の便の…乗客名簿に・・・」
「あっ。はい。お名前は?」
「ユーディット・フォン・クルツライヒ」
「クルツライヒ…ですね。お待ち下さい」
女性職員は慌ててキーボードを叩く。恐ろしい。軍務尚書自らを走らせるほどの人物とは何者なんだろう。テロリスト?反逆者?
「あ…ありました!バーラト星系惑星ディオム行きUL-059便。もう、出発の時刻です!」
「今か!」
ミュラーはインフォメーションカウンター上部の出発掲示板を見た。UL-059便の欄にはランプが点滅し、まもなく出発済みの表示に変わることをあらわしている。
「管制塔を呼んでくれ!早く!」
「はいっ」
冷や汗を背中に感じながら、女性職員は管制塔へ呼び出しのキーを強く押した。
「はいよ、こちら管制塔。なんだい、ケルトアちゃん」
のんびりした声と共に、制服の帽子を後ろ前に被った中年の管制官が画面に現れる。
「バーインツさん!大変です!」
なじみの女性職員の、見たこともないこわばった顔。それに驚いて、ベテラン管制官が身を乗り出した時、彼はさらに驚いた。緊張のためにうまく話せないでいる女性職員をそっと制して、目の前の画面にミュラー軍務尚書が映ったからだ。黒と銀の軍服。胸の階級章。余人には真似できない威厳。見間違うはずがない。
「ミ、ミ、ミュラー元帥!?」
「管制官!今出発しようとしているUL-059便を停めてくれ。至急だ!停止命令だ!」
鋭い目つき。ミュラーのただならぬ様子に管制官は怯えた。元帥自らとは、なにごとだ。まさか爆発物でも積んでいるのか?
彼は震える手で、UL-059便に呼信を打つ。何回も。
 今まさに出発しようとホバリング状態に入っていたUL-059便は、無視すれば懲役刑が待っている最優先の停止命令を受けて、緊急停止した。



   ミュラーは港内作業用の地上車を借りて、広い敷地内を走り抜けた。大きな貨物船の間を抜けると、出発待機エリアの一番端に停まった小さい旅客船が見える。船体の腹にはホログラフィーで”UL-059“の文字。あれだ。
 船の傍で車を停めると、蒼白な顔色の航法官が走り寄って来た。
「閣下!この便に何が!?」
今にも泣き出しそうな勢いだ。
「管制官は爆発物がどうとか言ってましたが・・・」
「いや、違う。この船に問題があるんじゃない。乗客に用がある」
ミュラーは航法官の肩に手を置いて言う。
「え?乗客ですか?」
顔をくしゃくしゃにしていた航法官は、拍子抜けした。
「客室の扉を開けてくれるか?」
「あ、はい」
それでも彼はミュラーの言葉に反応して、胸ポケットに入れたコントローラーのキーを押す。するとプシュッという排気音と共に、密閉してあった客室の扉が持ち上がり、ゆっくりと金属製のタラップが降りて来た。ミュラーはそれが地上に着かないうちに昇り始める。
 彼には低すぎる入り口を頭をかがめてくぐると、中からざわめきが聞こえてきた。突然の停止に乗客がとまどっているのだろう。
 ミュラーが通路に姿を現すと、一瞬そのざわめきが止んだ。乗客全員の目が、あまりにも有名なその姿に釘付けになる。
「ミュラーさま!」
唯一、立ち上がった乗客がいた。肩にかかる金色の髪。大きく見開かれた緑の瞳。ユーディットだ。
「ユーディット!」
ミュラーは名前を呼び、中ほどの彼女の座席まで駆けていく。他の乗客たちは状況を把握できないまま、固唾を飲んでそれを見守る。
「どうして…ここに?」
ユーディットは信じられないというふうに、ミュラーの顔からつま先まで視線を動かした。
「だめだ。あなたを行かせない」
ミュラーは決意を込めてそう言った。そしてユーディットの言葉を待たず、すばやく彼女の背中と膝裏に腕を回して、細い体を抱き上げる。
「ミュラーさ…」
慌てるユーディット。しかしミュラーはそのままぶつからないように上手く体勢をとりながら通路を抜け、タラップを降りた。地上に両足をしっかりついたところで、彼女を立たせる。
「ミュラーさま。だめですわ。私は…」
「惜しむべき名声なんかない。私にはあなたが必要だ」
ミュラーは、悲しげな顔で言いかけるユーディットの言葉をさえぎった。
「そばに、いてほしい」
その優しく強い声に、ユーディットは何も言えなくなる。彼女はただ、深い緑の瞳でミュラーをみつめていた。おそらくは畏れや迷いと戦いながら。
 それをミュラーは、ただ待った。
 やがて、ユーディットは口を開く代わりに、彼の腕の中へ飛び込んできた。首に腕を回し、胸に顔を埋める。ミュラーはその体をぐっと抱き寄せた。するとユーディットが涙声で何か言っているのが分かる。どうやら彼の名前のようだが、軍服の厚い布地と嗚咽にさえぎられて、はっきりとは聞こえない。
「もうどこにも行ってはだめだよ、ユーディット」
それでもただ嬉しくて、ミュラーは腕に力をこめる。
 宇宙港の片隅。しっかりと抱き合う二人を、すっきりと晴れたオーディンの蒼氷色の空が、おだやかに見下ろしていた。




 休暇明け初日の朝、ミュラーは国務省を訪ねた。むろん、ミッターマイヤー国務尚書に会うためである。
執務室に通されると、部屋の主は彼に背を向けて窓の外を見ていた。
「己の個人的な理由で民間機を停めました。この責任は、とるつもりです」
沈痛な表情でミッターマイヤーを見るミュラー。しかし彼の尊敬する国務尚書は背を向けたまま、なかなか振り向かない。
「軍務尚書の地位を、返上することも厭いません」
怒りを抑えてたたずんでいるのであろうその背中に、最終手段とも言える台詞を投げた。さすがにつらくなったミュラーは、じっと床を見つめる。その時、 「卿らしいな。ミュラー」
想像していたよりやわらかな声がかけられる。ミュラーははっと顔を上げた。
ミッターマイヤーが振り返ってほほえんでいた。実に楽しそうに。
「誠実で、真っ直ぐだ。そして責任感が強い」
「閣下…?」
なぜこの場で褒められているのか分からず、ミュラーの眉間に縦皺が入る。
「いやぁ、そのお前が。女性を追って民間機を停めたとは!驚いたよ!」
はははっ、と豪放に笑う。
「ちょうどその話を聞いた時、皇太后陛下と会談中でなぁ。皇太后陛下も驚いておられた。あのミュラー提督にそこまでさせる方はどのような女性だろう、と」
「こ、皇太后陛下もご存じなのですか…!?」
顔から火が出るような思いがした。
「あんな大立ち回りしといて何言ってるんだ。周りは皆知っているよ」
「ぐっ…」
真っ直ぐ国務省に来てよかった、とミュラーは心底思った。軍務省へ行っていたなら、フェルナーあたりに…想像したくもない。
「その事ですが、国務尚書」
「どうした」
あくまで真面目なミュラーの表情に、ミッターマイヤーの顔からも笑みが消える。
「その女性は、クルツライヒ候の娘です。…リップシュタットの盟約に加担した」
「クルツライヒ候…?ああ、いたな。しかし候は戦役前に没しただろう」
「しかし、亡きT世陛下に敵対した事実は変わりません」
口の中に苦さを感じながら、ミュラーは言う。それを訊いたミッターマイヤーは、しばし口をつぐんでからミュラーの側に歩いて来た。
「ミュラー。あまり真っ直ぐすぎるのも考えものだな」
「え?」
「ローエングラム王朝は、そんなに狭量ではないよ。罪人の係累であることが罪などと誰も言わぬ」
ミッターマイヤーは、静かにほほえんだ。彼は言葉裏に言っているのだ。フェリックスを見よ、と。彼は現王朝に直接弓を引いた男の息子だが、今は幸福に暮らしている。他でもない、ミッターマイヤーの元で。
「国務尚書…」
「俺の言葉で足りぬのなら、同じ事を皇太后陛下に訊いてみろ。きっと同じように言われるから」
確信を持って、彼は言う。艦隊を指揮しなくなって久しいが、相変わらずその声と言葉には強い説得力が健在なのだった。
「ありがたいお言葉、ありがとうございます」
ミュラーは素直に頭を下げた。今の言葉を聞かせたら、誰よりもユーディットが喜ぶことだろう。
「ちなみに、国民は喜んでいるみたいだぞ。特にご婦人方は、旅立つ恋人を追っていくなんてロマンティック、と騒いでるらしい。ミュラー元帥のお堅いイメージも返上だな」
「はぁ…」
肩透かしを食らった感じがして、ミュラーは苦笑した。
「そうだ。それより」
ミッターマイヤーが、急に口調を暗くして彼の肩をぽん、と叩く。いささかわざとらしい。
「な、なんですか?」
嫌な予感がした。
「ビッテンフェルト辺りに、酒の肴にされないようにしろよ。奴が一番楽しそうに吹聴していたぞ」
「………」
げんなりするミュラーを見て、国務尚書は思う存分笑った。



新帝国歴005年、初夏。帝国軍々務尚書ナイトハルト・ミュラーと、ユーディット・フォン・クルツライヒ嬢は彼ららしくささやかに結婚式を挙げた。久しぶりの明るいニュースに、帝国内が沸いた。ハイネセンの自治政府からも祝いの使者が訪れたのは、ひとえに軍務尚書の人柄というべきだろう。
 そして、ユーディット・フォン・クルツライヒは、貴族の名を捨て、ただのユーディット・ミュラーとなった。







 長いよ!…ということで、結局4分割になってしまってすみません。
とにかく若いくせに“歩く堅忍不抜”なんて言われてるミュラー君にぜひ無茶をしてもらいたくて書きました。
この話にはふたつの言い訳がありまして。

@ミュラー君はフェザーン←→オーディンを3日間くらいで行き来してることになってますが、本当はそんなに近くないはず。
 (大親征の時も一週間以上かかってますから…)しかし、三週間の休みを有効利用してもらうために、ちょっと短縮させていただきました(苦笑)。

Aこの話は、以前書いた「はじまりのない終わり」とは完全にパラレルワールドになっています。
 この話のミュラー君は原作と同じく、フレデリカにラヴだったりしません。じゃないと結婚してるミュラー君がフレデリカを好きなことになってしまうので…。
 構想が甘くてすみません!

 あとがきまで長くて申し訳ないですが、この話は他にもいっぱい細かい設定を作ってしまった(亡命したユーディットの兄は薔薇連隊兵とか…)ので、 いつか完全版を書きたいなぁなどと考えたりしてるのでした。