冬のこいうた






 翌日の正午過ぎ。ミュラーは再び旧軍務省の中の後方防衛司令部に居た。
是非訪ねてくれと言われたとはいえ、翌日に姿を現したことを詫びるミュラーに、メックリンガーは「気にせずとも良いよ」と言い、昼食に誘ってくれた。
 少量だが美味な食事をとったあと、ふたりは応接室に座を移す。そこで、ミュラーは昨夜の疑問をメックリンガーに問うてみた。
「クルツライヒか…」
「はい。以前どこかでで聞いた名なのですが、どうにも思い出せずに」
しばし膝に置いた指を弾いていたメックリンガーは、はたと顔を上げた。
「思い出したぞ。クルツライヒ候はリップシュタット盟約に加わった一人だ。戦役前に亡くなったが」
「あ…!」
そう言われて、やっとミュラーの断片的な記憶が組み合う。
「確か、心臓発作で急死された方でしたね!」
「そうだ。だから戦役後、領地と財産は没収されたが、家族は流刑にならずに済んだはずだ」
これでユーディットが名字を言った瞬間、嫌な印象を受けた理由がはっきりした。それに、彼女が良い身なりをしているのに食べる物に事欠いている理由も。
「ああ、そういえばユーディット嬢はお元気だろうか」
ふと向かいのメックリンガーがつぶやいた言葉に、ミュラーの耳が反応する。
「ユーディット嬢をご存じなんですか?」
「ん?卿も彼女を知っているのか?」
意外そうな顔をしてメックリンガーが問い返す。ミュラーは、昨夜の出来事を手短に話して聞かせた。
「なるほど。あの家はいろいろと複雑で、細君は十年も前に跡取り息子を連れて同盟へ亡命しているし…彼女は今ひとりだな」
「亡命、ですか…」
侯爵家ほどの家柄の者が亡命というのは珍しいが、今まで全くなかったわけではない。しかしなぜ、ユーディットの母は彼女だけを残して行ったのだろうか。
「しかし、惜しい」
「え?」
メックリンガーの眉間に縦皺が刻まれるのを見て、ミュラーは問い返す。
「彼女は帝国のオペラ界にデビューしたばかりだったんだよ。そうだな…あれはリップシュタットの半年ほど前だったか」
今度はミュラーが話を聞く番だった。ユーディット・フォン・クルツライヒは、幼い頃から美声で有名で、国立音楽院に通常の年齢より二年早く迎えられた。著名な声楽家を師とし、順調にコンクールを制覇した彼女はオペラ座で華やかなデビューを飾ったのだという。しかしその直後に起こった内乱と父の死、それに処分が重なり、彼女の行方は分からなくなってしまった。
「しかし卿、よく抱えられたな」
「抱え…?」
メックリンガーが感心している理由が分からず、ミュラーはぽかんとした。
「ユーディット嬢はこんなだったろう」
そう言ってメックリンガーは両腕を大きく体の左右にふくらませる。
「いえ。かなり華奢な方でしたが…」
思わず肩を掴んだ時の細さがミュラーの手に蘇ってくる。それを聞いたメックリンガーはふう、とため息をついた。
「お気の毒な…。練習をしていないなら、もう声が出ないかもしれないな。あの増幅装置要らずの美しいソプラノを、卿にも聞かせてやりたかった」
「そうですか……」
ミュラーには、残念がるメックリンガーを何ともなぐさめようがなかった。




 それから二日後。ミュラーは実家の庭の奥にある倉庫で、仕官学校入学前に買ったバイクをいじっていた。正式な軍人になってからは想像以上に忙しく、ほとんど乗らないまま倉庫で眠らせてしまっていたのだ。母からは「そんなもの持ち出して。もう休暇をもてあましているんでしょう」と手厳しく正確な指摘をうけたが。
バッテリーを充電してオイル類を差してやると、バイクは素直にエンジンをうならせた。ミュラーは満足してアクセルをひねり、エンジンの回転数を上げていく。
「ミュラーーさまーー!」
ふいに後ろから呼ぶ声がした。ミュラーは思わずアクセルを戻す。
 振り向くと、紙に包まれた大きな植物の鉢と紙袋を抱えたユーディットが立っていた。
「ユーディット・・・さん」
「すみません。玄関でお呼びしたんですがどなたもいらっしゃらなくて。こちらで音がしたものですから」
ユーディットの表情はにこやかだ。ミュラーはメックリンガーから聞いた彼女の過去の話が頭をよぎり、思わず表情が曇る。
「あ…。ご迷惑でした、か?」
その表情を目にして、ユーディットは一歩引いた。
「違います、違います。ここ狭いからオイルの匂いがきつくて」
ミュラーは慌ててごまかし、顔をゆるめる。彼はユーディットを連れて倉庫から出た。
「父と母はちょうど買い物に行ってるんですよ。しばらくすれば戻ると思いますが」
「そうですか…。先日のお礼に、これをお持ちしましたの」
そう言ってユーディットは腕に抱いた植木鉢を差し出す。ミュラーが受け取ってのぞき込むと、蝋紙に包まれた中には、すっと茎を伸ばした細長い筒状の白い花が見えた。
「これは?」
「ホワイトカラーです。わたしが株分けしました。こんなものしかお礼がなくて申し訳ないのですが」
困ったように笑いながら、ユーディットが白い花弁をちょんとつまんだ。
「いや、ご覧の通り母は花が好きなので、きっと喜びます」
手のふさがったミュラーは視線で庭を差した。彼女がその先を追うと、びっしりと並べられた植木鉢が見える。中には、冬だというのにあざやかな赤い実をつけているものもあった。
「まあ…それはよかったです」
あまりの数に目を奪われながらユーディットが喜ぶ。ミュラーはさっそくその最前列にホワイトカラーを置き、
「どうぞ、お茶でも淹れますよ。両親が帰るまで待っててください」
と彼女を家の中へ誘った。




「今日はお腹空いてないですか?」
バスルームで油まみれになった手を洗って客間に戻って来たミュラーは、ちょこんとソファに座っているユーディットをからかってみる。
「きょ、今日は大丈夫です!」
ユーディットは見る間に顔を真っ赤にして、手を顔の前で振った。
ミュラーは笑いながらキッチンに入り、薬缶を火にかける。客用のソーサーを食器棚から出そうとしていると、ユーディットが入り口から姿を現した。
「すみません。手伝います」
慌てて、彼の手からソーサーを受け取る。まだ慣れていないのだなとミュラーは思った。彼女は長い間、望めばすぐ飲み物が用意される生活をしてきたのだから。
 ふと、この間の夜彼女がタクシーを降りた場所を思い出した。あの喧噪に包まれた下町で、ユーディットはどんなふうに暮らしているのだろう。
「あなたの事を聞きました」
ミュラーは、母が揃えたずらりと並ぶ紅茶の缶をもの珍しそうに見ているユーディットに言う。
「え?」
彼女が見上げた。
「ユーディット・フォン・クルツライヒ。クルツライヒ侯爵家の令嬢。オペラ界の新星…」
「…ご存じなのですか。恥ずかしいですね」
うつむいて、苦笑しながら言う。
「あなたは、私を恨んでないんですか?」
ミュラーの言葉に、ユーディットの視線が再び彼に戻った。
「恨む?」
「私はローエングラム側の人間です。あなたの家の領地も財産も奪った側です」
あまりにも真摯なミュラーの表情を、ユーディットはしばらく見つめていた。彼女の瞳は過去と向き合っているようで、ミュラーは感情を読みとることができない。
 やがて、ユーディットは意を決したように体ごと彼の方へ向き直った。
「ミュラーさま。わたしは亡きT世陛下や、それに連なる方々を恨んでなどおりませんわ」
きっぱりと彼女は言う。
「私はずっと、与えられたものを享受し続けてきました。何の疑いもなく。贅沢な物に囲まれ、湯水のように授業料を払ってピアノを習い、声楽を習い…。母と兄がいなくなってからは、特に。毎日を意味なく過ごして、さびしさを埋めるために高価な物をたくさん食べて、丸々と太って。取り柄と言えば歌だけ」
ユーディットの顔に、陰が差した。
「だから、ずっと、自分が嫌いでした」
「ユーディットさん…」
ミュラーは心配そうに表情を曇らせる。自分が彼女に嫌な事を言わせているのが分かったからだ。それを見たユーディットは、一度下を向いてからおだやかに小さくうなずいた。大丈夫、というように。
「でも、お父様が急に亡くなって、悲しんでいる暇もなく戦争が始まりました。そして、ある日軍服を着た人が沢山我が家にみえて、もうこの館と財産はあなたのものではない、とおっしゃったんです。私はあまり意味もわからないまま、許された少しの荷物と外へ放り出されました。どこにも行くところがなくて…。唯一身につけていたペンダントを売って、今のアパートを借りたんです」
話している内容はひどい事だが、彼女の口調は暗くない。
「私、途方にくれました。どうしていいか分からないから、アパートの窓から外ばかり見てました。お腹が空いてしかたない時に、市場から流れてくるおいしそうな匂いがつらくて…」
思い出したように、腹に手を当てる。それを見たミュラーもやっと、少し笑った。
「毎日外を見ていると、働いている人たちが、大変そうだけどとても楽しそうに見えたんです。それにご近所の人も優しくて。私がみるみるうちに痩せていくので、すごく心配して下さって。『お嬢ちゃん、どうしたの?うちで夕飯食べるかい?』なんて誘って頂いたりして。だから私、みなさんと同じように働かなきゃって思いました。嘆いてばかりじゃ何も変わらないから・・・」
そこまで話したところで、ユーディットはびくっとしてミュラーの袖を引っぱった。
「ミュラーさま!薬缶が!」
「あっ」
ミュラーは慌てて振り返って火を止める。話に夢中で、湯が沸騰しているのに気がつかなかったのだ。薬缶からはもうもうと湯気が上がっていた。危ない危ない、と顔を合わせて苦笑する。
 かすかにオレンジの香りがする紅茶を淹れ、ふたりは客間に戻ってきた。
「それで今はどこで働いているんですか?」
あらためて、ミュラーは訊く。
「今は、子供達に音楽を教えている先生の助手をしています。わたしにできることっていったら音楽しかなくて」
「でも…あなたはオペラ界で有望視されていたのでしょう?未練はないのですか?」
「未練…?」
さすがに、ユーディットが口ごもる。
「まったくないわけじゃないですが、大勢の観客の前で歌うのは、私…やっぱり苦手でした。父の命令で仕方なくやっていたという感じです。だから、いずれ限界が来たと思いますわ」
ミュラーの脳裏に、『しかし、惜しい』と言ったメックリンガーの言葉が蘇ってきた。彼女がいずれ来ると予想した限界。でもそれは思い違いで、本当は彼女の才能はより高みをゆくものだったかもしれないのに。
 それを、ユーディットはあっさりと捨てた。意味なく過ごしていたという過去とともに。
 そして今、ミュラーの前で、屈託なくほほえんでいる。
「不思議です。昔は…歌っていても全然楽しくなかったのに、今はすごく音楽にふれているのが楽しいんです。ピアノを弾きながら子供たちと声を合わせて歌うと、音楽が好きだって思えるんですよ」
「でも、大変でしょう。一人で働いて暮らしていくのは」
軍人経験しかないミュラーにも、音楽教室の助手の仕事が稼ぎのある仕事のようには思えない。
「でも今は働くのが好きです。少ないお金を数えながらやりくりしていると、ああ、わたし強くなったのかもしれないって嬉しくなります」
そう言ってユーディットは、胸の前で両こぶしを握ってみせる。
事実、そうなのだろう。虚飾から解き放たれて、彼女が本来持っていたしなやかな強さが目を覚ました。しかもその強さは、彼女の権勢を奪ったものへの復讐には向けられなかった。ユーディットは過去を負のものとして断ち切り、ひたすらに前へ、これからへと力を向けたのだ。
だからこそ、今の彼女は育ちの優雅さを残しながら、生き生きとして見える。
ミュラーに、メックリンガーから彼女の素性を聞いたときの、憐れむような気持ちは消えていた。憐れみはかえって失礼な気がした。
「でも、ユーディットさん」
一息ついて、ミュラーはユーディットを呼ぶ。
「なんでしょう?」
「お腹すいて公園で倒れるのはもうやめてくださいね」
にっと笑ってミュラーが茶化した。その表情を見て、ユーディットの頬がまた赤く染まる。
「はい…」
肩を小さく寄せてから、彼女は視線を外してティーカップを手に取った。ミュラーはにこにこしてそれを眺める。
「そ、そ、そういえば」
ユーディットが、ごまかすように口を開いた。
「このあいだ、母と兄から連絡が来ましたの」
「え?」
予想外の言葉に、ミュラーは思わず身を乗り出す。
「あの、亡命したという…」
「はい。ふたりともハイネセンの自治区に住んでいるそうです。私の住処を見つけるのに苦労したようですが、元気そうで安心しました」
「それは良かった…しかし何だか皮肉ですね。同盟が帝国に併呑されたせいで、連絡がとりやすくなるというのも」
帝国、同盟と二分されていた時代には、フェザーンを経由してさえ亡命者と連絡をとるのは至難の業だった。それが現在、帝国と自治政府間の通信は比較的自由になってきている。
「で、母上とお兄さんは何と?」
「母は…謝ってばかりでした。父の横暴に耐えかねて亡命したのですが…殊更私を可愛がっていた父のために私を置いていったけれど、間違いだった、一緒に連れて行くべきだった、と後悔していて…そんなこともういいのよ、って言っても泣いてしまうんです」
苦いような表情でユーディットは言葉を切った。いつもはどちらかというと幼い印象の顔が、ふと大人びて見える。
 ひとり置いていかれたことには、彼女にもそれなりの想いがあるのだろう。それは、領地や財産を奪われたことよりもよほど深い傷なのかもしれない。
「兄は、ハイネセンへ来ないかと言ってくれました」
明るい顔に戻してユーディットは続ける。
「ハイネセンへ…?」
ミュラーはかの地を思った。帝国のはるか辺境。民主主義の遺産がわずかに息づく場所。
「はい。オーディンではひとりぼっちなので…」
 その時、客間の扉が開いて大きな紙袋を抱えたミュラーの両親が帰ってきた。
「あら!ユーディットさんいらっしゃい」
驚く母の声に、ユーディットはぱっと立ち上がる。
「こんにちは。先日はありがとうございました。今日はお借りしたものをお返しに来ました」
「まぁ。わざわざいらっしゃってくれてうれしいわ!」
話の途中で、ユーディットは母に捕まってしまった。彼女がホワイトカラーの事を話すと、嬉しそうにふたりで連れ立って庭の方へ行ってしまう。
 買い物袋をキッチンへ置きに行きかけた父が、
「どうした?ぽかんとして」
とソファに座ったままのミュラーに言う。
「あ…いや。なんでもないよ。手伝おうか」
そう行って彼は立ち上がった。
 今日、ミュラーはユーディットについて多くのことを知った。だが、その中で
『ハイネセンへ来ないかと言ってくれました』
という、話しかかったままの彼女の言葉が、彼の胸に奇妙なわだかまりを残していた。



 結局その日、ミュラーはユーディットと話の続きはできなかった。何となく言い出しにくかったのと、両親がとても楽しげに彼女を歓待していたからだ。姉とミュラーが家を離れてから、ずっと二人きりでさみしかったのだろう。
 そしてそれを、ユーディットも喜ぶ。彼女もまた、この地では孤独なのだ…。
 本来なら、人助けをし、御礼を返され、これで彼らの出会いは終わるはずだった。
 しかしミュラーは気がつくと、ユーディットを送り届けるタクシーの中で彼女に「次のお休みはいつですか?」と訊いていた。




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