冬のこいうた
国務尚書となったミッターマイヤーたっての願いで、軍務尚書の任に就いて七ヶ月。ナイトハルト・ミュラーはとにかく脇目もふらず働いて来た。生来、思考することや計画を練ることを苦にするタイプではないが、一国の軍事をつかさどる身となると予想もしなかった様々な事態に直面するものだ。
それもやっと一段落した頃、フェルナーがミュラーの執務室へ来た。彼は現在も軍務省の官房長官の地位に在る。
「閣下には休暇を取っていただきます」
入って来るなり、彼はほとんど命令口調で言った。
「休暇?」
フェルナーの真面目な表情と口にした内容がちぐはぐだったので、ミュラーは聞き違いかと訊ね返した。
「休んで下さいと言っているんです。こちらにいらっしゃってから、閣下はほとんどお休みになっていらっしゃらない」
「まあ、そうだな…。でも、私は別に疲れていないよ。心配してくれるのはありがたいが」
ミュラーが言うと、フェルナーはお人好しめ、と言いたげな顔をしてため息をついた。
「閣下は何ともないかもしれませんが、部下達が疲れきっております」
「……なるほど」
そこまで気を回さなかったことを申し訳なく思って、ミュラーは素直に「すまなかった」と付け加えた。上に立つ自分が休みを取らないで働いていると、部下達が遠慮するのだろう。
「来週から三週間、閣下に休暇を取っていただく為の業務態勢を組みました。緊急の際に連絡ができるよう携帯端末を持っていて下さい。それさえ守っていただけるなら、どこへ行かれようとかまいません」
フェルナーは手元の計画表らしき用紙を見ながら、きっぱりと上司に言い渡した。
「三週間か…」
思ったよりずいぶん長いなとミュラーは思った。もしかしたら軍に身を置くようになって初めてかもしれない。
「では、宜しくお願いします」
「ああ、了解した。率先して休暇を取ってくるよ」
苦笑いをしながら手を上げると、フェルナーはいつも通り、年下の上司へ一分の隙もない敬礼をして扉の方へ歩いて行った。
さてどうしたものか、とミュラーは指を組む。久しぶりにパーツィバルでも動かして…と思いつき、それでは休暇にならない事に気づいてつくづく自分が仕事人間だと自覚した時、
「閣下」
てっきり出て行ったと思っていたフェルナーが、扉から出る直前に振り返った。
「ずっと気を張っていらっしゃったので、疲れていないとお思いなのかもしれません。体を休めた方が良いですよ」
業務報告と同じ口調で彼は言い、ミュラーのありがとうの言葉も待たず扉を閉めて出ていった。
一部では「オーベルシュタイン二世」と陰口を叩かれ、またそれをいっこうに意に介するつもりのない官房長官が、ミュラーはけっこう好きだった。
そして、休暇は始まった。
ミュラーは二日ほどを官舎の掃除に費やした後、小さな旅行用鞄を用意した。旧帝都へ行くためだ。オーディンには彼の両親が住んでいる。姉も自分も仕事の都合でフェザーン周辺に居るので、こちらへ来ないかと誘ってみたが、両親は住み慣れたところで暮らしたいと言って首を縦に振らなかった。
ミュラーはひさしぶりに実家でのんびりするのもいいなと思い、民間シャトルに乗り込んだ。もともと温和な顔立ちの彼は、セーターとチノパンにラフなジャケットなど羽織っていると、ほとんどの人は気が付かない。おかげで気に入った本など読みながら、リラックスした飛行を楽しむことができる。
そうして、本当に本当にひさしぶりにミュラーは旧帝都オーディンの地を踏んだ。
宇宙港から、ミュラーはとりあえず真っ直ぐ両親の家に行き、荷物を置いて軍服に着替えた。夕食は何が食べたいのかとうるさく訊く母親を適当にいなして実家を出、無人タクシーに乗る。そして行き先を旧軍務省と告げた。現在は後方防衛司令としてオーディンに在任中のメックリンガー元帥に会うためである。
役職こそ自分の下になっているが、緻密な分析力を持つ智将をミュラーは尊敬していた。軍事にしか能がないと自認している身には、彼の多才多芸も羨ましい限りだ。
車窓の外に目をやると、初冬の風が枯れ葉を舞い上げているのが見える。歩く人も少なく、やはり寂れてしまったなとミュラーはしみじみ思った。高級車が渋滞をつくり、人々が忙しそうに行き交い、警備兵たちが足並みを揃えて行進するかつての見慣れたオーディンの面影はもう、ない。
旧軍務省の隣にある緑地公園が見えてきたところで、ミュラーはタクシーを停めた。毎日勤めていた時には、息抜きがてらよく散歩したなつかしい場所だ。
公園内の小道に入ると、中は閑散としていた。
散り終わった広葉樹の葉が茶色く干からびて、道の傍らに重なって溜まっている。目にはいるのは、小型犬を連れて散歩をする老人と、足早に歩いていく軍務省の役人らしき二人連れだけだ。
ミュラーが言いようのないうら寂しさをかかえて公園を抜けようとしていると、大きなプラタナスの木の下に若い女性が座っていた。幹に背をもたせ、膝に置いた手には本。しかし指をページの間に挟んだまま、彼女は眠っている。
寒くないんだろうかと思いつつも、ミュラーは閉庁時間がせまっているため、そのまま通り過ぎ正門の方へ歩いていった。
しばらくぶりの再会を、メックリンガー提督は想像以上に喜んでくれた。
ミュラーはオーディンに降り立って感じた変化を彼に話し、退屈ではありませんかと問うたが、メックリンガーはおだやかな顔で首を振った。
「私には、ここが肌に合っているように思えるんだよ。新しい御代もまだ落ち着かず、美術品の多くがこちらに残してあるしね」
彼は、帝国アカデミーから旧王朝所蔵の美術品整理の助言を頼まれたと言う。そうやって“仕事”である軍事と“愉しみ”である芸術をバランス良く取り混ぜているのだ。実に彼らしい暮らし方だとミュラーは思った。
「いやしかし、三週間も休暇とはうらやましい限りだ」
二時間ほどもフェザーンの現状などを話し込み、そろそろいとまを告げようとミュラーが腰を上げた時、あらためてメックリンガーが言った。
「はぁ。しかしいざとなると、なんとも手持ち無沙汰でして。しかたなく両親の家でのんびりしようかと思っています。無趣味な人間はこれだから困りますよ」
頭をかきつつミュラーは答えた。
「まあ、我々は昨年まで、脇目もふらず時代の中を突き進んできたからね。この辺でのんびりするのも良いことだと思うよ」
「そうですね…」
時代の中を突き進む。たしかにその表現がぴったりだった。ふたりは一瞬、光をまとう黄金獅子の旗の下、清烈な力で彼らの上に君臨した亡き主君を想った。なんの迷いもなく、ただ仰ぎ見て前を目指せばよかった日々が懐かしい。
「…のんびりするには、ここが一番だ。滅びゆく都も、なかなか美しいものだよ」
メックリンガーは日の暮れた窓外を見ながらつぶやくように言い、ミュラーは黙ってうなずいた。
また是非訪ねて来てくれ、と尊敬するメックリンガーに言われたのを嬉しく思いながら、ミュラーは後方防衛司令室を辞した。外はもう暗く、ひとつ飛びに灯された街灯がほのかに足元を照らす。
旧軍務省の建物の周りに、無人タクシーの姿はなかった。緑地公園を抜けて大通りへ出ればつかまるだろうと、再び公園内へ戻る。夜を迎えて、強くなって来た風がコートの襟を浮かせた。寒いなと思ってミュラーが足を早めた時、ふと彼の視界に白い影が入ってきた。
行きに彼が見た女性が、まだ木の下で眠っていたのだ。白く見えたのは彼女の金髪で、姿勢もまったく変わっていない。まさか死んでいるのでは、と思ってミュラーはそばまで走って行った。
「フロイライン!大丈夫ですか?」
間近で見ると、彼女はこの寒空に信じられないほどの薄着だ。華奢な体に、淡いモスグリーンのワンピース。あとは芥子色のカーディガンを羽織っているだけ。とてもこの風を防げるとは思えない。
「フロイライン!しっかりして下さい!」
返事がないので、仕方なくミュラーはその女性の肩を掴んで揺すぶってみた。体が冷え切っている。
「・・・んん・・・」
かすかに、彼女の唇が動いた。呻きのような声がもれる。そしてぴくっとまぶたが震えた。
「フロイライン?」
ゆっくりと開く深い緑の瞳。薄闇の中で、その瞳が曇っているのが分かる。
「お………」
もごもごと彼女が何かつぶやいたが、ミュラーには聞き取れない。彼はいっそう耳を近づけた。
「どうしたんですか?」
「お…おなかすきました…」
か細い声と子供のようなその言葉に、ミュラーは思わずさっきまでの慌てぶりも忘れてぷっと吹き出していた。
「すみませんでした…」
ミュラーの母手作りのシチュー、サーモンのキッシュ、温野菜サラダを平らげた女性は、食後の紅茶を前にしてあらためてぺこりと頭を下げた。
「いいのよ。たくさん食べてくれてうれしいわ」
エプロンを椅子に掛け、腰を下ろした母がにっこり笑う。
ミュラーは立ち上がってもふらふらしている女性を、とりあえず実家まで連れて来た。病院はいいです、と彼女が頑なに拒むので、何か食べさせれば元気になるかもしれないと思ったからだ。事実、食事を終えた彼女の頬には赤みがもどっている。明るいところで見ると、かわいらしい感じの女性だった。歳は二十歳そこそこくらいに見える。
「とてもおいしかったです。本当にありがとうございます」
にっこり笑うと、すこし幼い。
「フロイライン、お名前は?」
母もつられてにっこりしながら訊く。
「私ったら、名前も名乗らずにすみません。ユーディットと言います」
「あら、かわいいお名前ね」
母は上機嫌だ。おそらく日頃女っ気が全く見あたらない息子が女性を連れて来たのが嬉しくて仕方ないのだろう。これは後が大変だぞ…とミュラーは内心げんなりしつつ、
「どうしてまた、あんなところに?」
と一番訊きたかったことを言った。その瞬間、ユーディットはしゅんと下を向いてしまう。
「あのですね…明日が…お給料日で…。家の中に食べるものがなかったので、公園で本でも読んでいれば気が紛れると思って…」
語尾が小さくなる。
「それで、眠ってしまったのですか?」
「は…はい。ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」
「危ないですよ!あそこは近くに軍務省所属の建物があるからいいものの…」
夜はほとんど無人なんですから、とミュラーが続けようとした時、
「まぁ、こうして無事だったんだしいいじゃないか。おまえも年寄りみたいに説教しなさんな」
パイプを燻らせながら目の前のやりとりを見ているだけだった父が、おだやかに言った。
「そうよ。おまえはたまに年寄りくさいわよ」
母が身を乗りだして加勢する。ミュラーに援軍はない。仕方なく彼は苦笑しながら紅茶のマグカップを口に運んだ。軍務尚書閣下の名声も実家では形無しだ。
「ナイトハルト。フロイラインを送っていってあげなさい。遅くなるといけないから」
父が時計に目をやって薦める。時計の針は9時を回っていた。
「そんな。帰りはひとりで大丈夫ですから。ここからでしたらそんなに遠くないですし」
椅子から立ち上がりつつユーディットは首を振った。
「遠慮しなくていいのよ。どうせ休暇中でヒマなんだから」
母が楽しそうに言う。事実なので、ミュラーも言い返せない。
「その前にちょっと待ってて。…ナイトハルト、二階にいらっしゃい。頼みがあるの」
母も椅子を立つ。そしてミュラーを手招きした。
母の後について二階に上がると、彼女はそのまま納戸へ入って行った。そこには、すでに嫁いだ姉の荷物が丁寧に保管されている。その中から、衣装箪笥の上に置かれた大きめの箱を下ろしてくれるよう母はミュラーに頼んだ。
「あの娘さん、きっといいお家のお嬢様よ」
ミュラーが箱に手を伸ばしていると、母が背後でつぶやくように言った。
「分かるの?」
「分かるわよ。あんな生地と仕立てのいい服、めったにお目にかかれないわよ」
今はもうやめてしまったが、ミュラーの母は腕のいい縫製職人だったのだ。
「それにマナーもきちんとしているし、所作が厳しくしつけられた人のものだわ」
「へえ」
そんなところにまったく目をつけていなかったミュラーは感心した。母は彼が下ろした箱を開け、防虫紙を広げて中から白いコートを取り出す。
「でもなんであんなお嬢さんが、食べる物に困るような生活をしてるのかしらね…」
不思議そうに母は言って、コートが傷んでいないか隅々まで調べた。
「さて。いいわ。これをユーディットさんに着せてあげて。しっかりお家まで送ってらっしゃい」
「はいはい。行ってきますよ」
逆らわず、ミュラーはコートを受け取った。
ユーディットの住処に向かう無人タクシーの中。姉のお下がりのコートを着た(それは少々彼女には大きすぎた。ミュラーの姉は彼と同じく長身だったので)ユーディットは、目を丸くしていた。
「ええっ。本当にミュラー軍務尚書閣下なんですか?」
「そうです。今は休暇中です」
名前を問われたので仕方なくミュラーが答えると、ユーディットはタクシーの扉の方までずずずっと身を引いた。
「これは…大変失礼しました」
手を膝の上で揃え、ふわりと頭を下げる。母の言葉を聞いた後だと、なるほど、彼女の所作は流れるように優美だなとミュラーは感じた。
「そんなに気にしなくていいですよ。母も喜んでいましたし。…それより」
「え?」
ミュラーの語尾に反応して、ユーディットが顔を上げる。
「あなたの名字は?」
母の言葉が気になっていた。もしかしたら、警備に行った宮中で顔を合わせた事があるかもしれないと思ったからだ。
「私は、クルツライヒです。ユーディット・フォン・クルツライヒ」
にっこり笑って、ユーディットが答える。
クルツライヒ…?
その響きに、ミュラーの記憶が反応した。しかも、悪いほうの記憶が。
「あ、ここで停めてください」
タクシーの車窓に映る夜景を見やってユーディットが言うと、その声に呼応してタクシーが停車する。そこは、昔ながらの小売店と狭いアパートが雑然と建ち並ぶ、オーディン屈指の下町だった。
「今日は本当にありがとうございました。ご両親さまにもよろしくお伝えください」
再び、ユーディットが深々とお辞儀をした。
「はい……」
ミュラーが記憶の糸をたどっているうちに、彼女はタクシーを降りてしまう。
「では、コートは後日お返しにまいりますので。おやすみなさい」
そう言って、ユーディットは外から「閉」のスイッチを押した。タクシーの扉がゆっくりと閉じてゆく。
「おやすみなさい!」
ミュラーは扉が完全に閉まる前に、彼女にそう言うのが精一杯だった。
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