足元を、風が吹き抜けていく。 ごう、と威嚇するように唸り、谷間を通って街の方へと。我愛羅はそれにおびやかされることもなく、夜空を見上げたままだった。 地上に在る人間の心など知らぬげに、月が冷たい美しさで彼を照らす。 我愛羅は、夜が好きだ。眠れないことが苦痛だった頃は恨んだこともあったけれど、今の彼には夜の静けさが心地いい。風影と呼ばれるようになってからも、街からすこし離れたこの高台によく来ている。岩と砂があるだけの殺風景な場所だが、不思議と心が落ち着く。 そろそろ家へ戻ろうかと視線を下ろした時、我愛羅は遠くから歩み寄ってくる人影に気づいた。 黒い外套が風にはためき、細い足がのぞいている。飛ばされて来る砂を避けようと、時折襟元を掻き寄せているようだった。 我愛羅が居るのは砂の里でも裏道にあたる地区だ。こんな時間に、余所者が通りかかることはまずない。だとすると、彼には思い当たる人物がたったひとり、居た。 我愛羅はゆっくり歩き出し、岩山を下り始める。あの人影は、すぐ近くの切り立った岩壁の間を通るはずだ。その道は里の中心へと続いているから。 岩壁の間に入って、風と砂から逃れた人影は、ほっとしたように首の後ろの髪を梳いていた。 「テマリ」 一段上の岩場から、我愛羅は声を掛ける。影はびくりとして、こちらを見上げた。 「なんだ。我愛羅か。びっくりした」 テマリはそびやかした肩を下ろし、ほほえむ。 「夜中に散歩もいいが、少しは寝なきゃダメだぞ」 「分かってる」 いつもと同じ会話。またかと思いながら、どこか嬉しい。 我愛羅はトン、と軽く跳び、テマリの隣に降り立つ。 その瞬間。彼の目に、テマリが外套の下に着た小袖が映った。彼女がほとんど着ない朱色。そして、襟元からのぞく鎖骨の下に、着物より濃い緋の痣がある。それはまるで、白い肌に咲く花のように残された、唇の跡。 我愛羅は自分の中で、カチリと何かがズレる音を聴いた気がした。 頭に浮かぶのは、一人の男の顔。茫洋とした雰囲気にそぐわない鋭い眼光を持つ、木ノ葉の忍。 あいつ、か。あいつがお前に、所有の烙印を刻んだというのか。 「我愛羅?」 じっと固まったように見つめる彼を、テマリが不思議そうに見返す。 「……どこに行っていた」 問う声が低く、冷たくなる。 「胡蝶街だが」 我愛羅の表情の変化に気づいたのか、テマリの瞳に不審さがよぎった。 「武器も持たずにか」 今日のテマリは、扇を背負っていない。 「休暇だったんだ。クナイくらい持っていればいいだろう」 珍しく彼女がむきになっている。まるでそれ以上は問いつめるなと言わんばかりに。 ここで引き、「むきになるなよ」とでも言えば冗談で済ませられる、と我愛羅は分かっている。しかし緋の痣が生じさせた本心と表層のズレは、さらに彼を先へ押しやる。 「何しに行っていた」 「……お前に関係ないだろう」 テマリの瞳が、戦いの時と同じに冷たく澄む。予想通りの答え。ますます硬く閉ざされる心。 我愛羅は自分が追い込んだにもかかわらず、逆に傷つけられたような気がして、奥歯を噛みしめた。 「私は先に家へ帰るぞ」 困惑しか感じられない状況から逃れるために、テマリは身を翻した……はずだった。しかし、気がつくと我愛羅にがっちりと肩を掴まれ、後ろの岩壁に押しつけられていた。 ぱらぱらと岩壁を滑り落ちる砂の音が聞こえる。 「我愛羅!」 腕に力を入れたまま顔を伏せている弟の名を呼ぶ。何かおかしい。いつもの我愛羅ではない。これではまるで… 赤みを帯びた褐色の髪が、テマリの目前で揺れた。ゆっくりと目を開けながら、我愛羅が顔を上げる。息がかかるほど近い。自分と同じ緑の瞳が、昏い影を帯びていた。 「我愛…」 「男の匂いがする」 テマリの言葉を、我愛羅がさえぎる。思いがけない台詞に、テマリは頬がカッと熱くなるのを感じた。まだ躰のあちこちに残る情交の埋み火。出立のぎりぎりまで這わされたシカマルの指や舌の感触が甦って、肌がざわつく。 「何を言ってる…!」 自分のはしたなさを咎められたようで、テマリは我愛羅の視線をよけた。その仕草が、いっそう胸元にある痣を露わにするとも知らずに。 「お前は砂の忍だぞ」 耳元で我愛羅が言う。 「そんなことは分かっている」 テマリは身を捩ろうともがくが、彼女よりはるかに大きく成長した我愛羅の前では無力だ。 「どこにも、行かせない……!」 我愛羅は呻いて、テマリの肩を掴んだ手に力を入れ、さらにぐっと彼女を岩壁へ押しつけた。背中に当たる硬い凹凸で、テマリの肩甲骨が軋む。殺気さえ感じさせる、恐ろしい力。 後戻りできない衝動にのみ込まれようとしているのを自覚しながら、我愛羅はテマリの肩口に顔を埋めた。冷えた肌に熱い唇が当たる。かつて手放したはずの狂気が、また彼を侵そうとしのび寄って来る。 その時、我愛羅の体が揺らいだ。テマリが腕だけを伸ばして、思い切り彼の上着を引き寄せたのだと気づくのに、少し間があく。押し退けられることはあっても、引き寄せられるとは思っていなかった我愛羅は、テマリの肩から手を滑らせ、彼女の上半身へ倒れ込んだ。 「我愛羅!」 上着を引き寄せたテマリの腕がそのまま背中にまわされ、強く抱きしめられる。 「いやだ。どうしたんだ、我愛羅!おかしくならないでくれ。昔みたいに…!」 悲痛に響くテマリの声。震える腕。それが我愛羅を正気に戻す。 「テマリ…」 冷水を浴びせられたような気持ちで、我愛羅は小さくつぶやいた。 弟で在ることをずっと甘受してきたのに。それでそばに居られるならいい、と思っていたのに……。 見知った男の影に悋気を起こして、一番たいせつな人を怯えさせてしまった。妬いて、どうなるものでもない。彼女は自分の恋慕など砂粒ほども知らず、ただ弟として愛してくれているのだから。 「我愛羅…我愛羅…」 必死に呼ぶテマリの声は、涙交じりになっていた。昔のように我愛羅が守鶴の狂気に支配され、助けることもできない、恐ろしい存在になってしまうのが嫌だった。それだけは何としても阻みたかった。 「テマリ」 今度は少し、大きな声で我愛羅が呼ぶ。そして彼女にもたれかかっていた上体を起こし、すがる手を下ろさせた。 「だいじょうぶだ。守鶴じゃない」 テマリと視線を合わせて、言い聞かせる。 「…本当か?あいつがまた、お前をおかしくさせてるんじゃないのか?」 目じりに涙をためたまま、彼女は問う。我愛羅はそれに、こくんとうなずいて応えた。 「すこし、虫の居所が悪かったんだ。八つ当たりをしてすまなかった」 ことさら冷静にそう言って、体を離す。どう考えても妥当な言い訳には思えなかったが、テマリは安心したように胸へ手を当てた。 「それなら、いいんだ…」 ほっと小さく息をついて、我愛羅へほほえみかける。安堵したやさしい笑みが、複雑な痛みと甘さで彼の胸に沁み通った。 「やっぱり、疲れてるんだよ。眠らないとダメだ。私といっしょに家へ帰ろう」 テマリは心配そうな顔に戻り、我愛羅の袖を引く。自分がこうと決めたら有無を言わさぬ様子が、子供の頃とすこしも変わっていない。 「そう、だな…。疲れているんだろうな…」 テマリが見つけてくれた理由に逆らわず、同調する。 「じゃ、帰るぞ」 さっそく彼女は街の方角へ歩き出す。我愛羅の袖を掴んだまま。一歩遅れるようにして、彼も歩き出す。 これで、いい。 我愛羅は胸の痛みをなだめるようにつぶやいた。 これでもうすこし、テマリのそばに居られる……。 砂の上を慣れた様子で歩いていく姉弟を、月だけが静かに見下ろしていた。 現在連載中の本編で守鶴が我愛羅から抜かれかけてますが、この話は守鶴がまだ憑いているという設定で書いてます。ご了承ください。 ぶつかり合う異種の愛情。どっちもつらいところです。 |