紅藤色の絹は親指で撫でると、信じられないほどなめらかだ。淡い光沢が、これは極上の品だと告げている。
女ならば、誰しも手放しで喜ぶであろうこの贈り物に、テマリは溜息をついた。絹の衣を元通りに仕舞い、朱塗りの大箱に蓋をする。そして背後を振り返り、
「我愛羅、これも返してくれ。着る機会がないからな」
そう言って苦笑いを向けた。しかし我愛羅は硬い表情だった。いつもは首をすくめて箱を受け取るというのに。
「どうした?返してくれないのか?」
弟の不自然な様子に、テマリの唇から笑みが消える。我愛羅はひとつ小さく溜息をつくと、片手に握っていたものを彼女へ差し出した。
「……これが、一緒に来た。“風影”宛に」
それは我愛羅個人にではなく、公式な文書というわけだ。
テマリは我愛羅の手から、きっちりと三つ折りにされた手漉きの和紙を受け取る。開いて文字を目で追うと、彼女の緑の瞳は大きく見開かれた。
「お前に婚嫁の申込みだ。……どうする?」
我愛羅の問いかけに、テマリは視線を落としたまま、凍りついていた。





葉風の標
――― 30.未来予想図 ―――




 最初は、里の運営に関わるいくつかの報告とそれに対する意見を聞く、いつもの会談だった。
シカマルはここ二年ほどで任務の現場に出る回数が減り、取りまとめとか調整とか、デスクワークが主になってきている。いかにもやる気なさげな雰囲気は変わりないが、結局のところ上手く事をおさめてくれるので、首脳部に重用されていた。
「……ま、こんなとこですかね」
一通りのやりとりを終え、シカマルがめくっていた紙の束を元に戻すと、正面の火影は椅子を後ろへずらし、重厚な執務机の上へどんと足を置いた。相変わらず堅苦しいのは苦手らしい。
「ご苦労さん」
表情はもうすっかりリラックスしている。
「どーいたしまして」
それを合図にシカマルが部屋を辞そうと背を向けた時、
「なぁ、シカマル」
ふいに呼び止められた。
「は?」
彼が振り返ると、火影は窓の方へ視線を投げている。シカマルは眉間に浅く縦皺を刻んだ。それは火影が言いづらい事を口にする時のクセだったから。
「風影の……姉君なんだが」
風影の姉君?……ってテマリのことか?
急に出された話題に、シカマルはとまどった。なぜこの場でいきなりテマリの話なのだろうか。そう思いながらも、嫌な胸騒ぎがこみ上げてくる。
「風の国の大名菱貝家から、三男夕霧殿の嫁御にと申し入れがあったそうだ。以前、警護の任務についた彼女を見初め、ずっと熱心に手紙や贈り物を届けていたんだが、彼女はそれを断り続けていて、ついに正式な申込みになってしまったらしい」
火影は一気に言った。
 どくん。
急に自分の心音が耳元で聞こえ、シカマルの動きが止まる。
 風影――我愛羅はつい昨日、数名の随行を連れて非公式に木の葉を訪れたばかり。今の台詞が火影の悪い冗談でないことは確かだ。
菱貝家といえば、火の国にも名が通るほどの名家。嫡子はくノ一の嫁を迎えることなど到底無理だが、三男なら仕方がない、と当主も諦めたのだろう。
 ふいに、シカマルの脳裏をテマリの面影がかすめる。
 彼女は今年、二十一になった。
風を操る術はますます冴え、常に任務の最前線に身を置いている。ぶっきらぼうで女らしくない言動は相変わらずだが、それと反するように彼女は美しさを増した。いくら忍服で隠されていても艶やかさが匂いたつ肢体。強い意志を秘める緑の瞳が印象的な顔立ちと相まって、人の目を引かずにはおかない。ただ、当人はそんな事実に全く無頓着だが。
 苦労知らずの若様が惹かれてしまうのも無理はない。彼女は荒野に在りて、なおいっそう瑞々しく咲く花だ。温室育ちの華美な花々ばかりを見てきた若様には、ずいぶん新鮮に見えたことだろう。
「そう…ですか」
他になんとも答えようがなく、シカマルは小さい声で言った。
「大名と繋がりができることは、砂の里にとっても大きな利になる」
やはり視線を逸らしたまま、火影が続ける。
「正式に承諾の使者を出す決議が、五日後に行われるそうだ。それが決まってしまえば、大名相手に撤回はできない。絶対に」
ずいぶん急いた話だ。それでも菱貝家にしてみれば、待ってやっていると言いたいところだろう。
「………おまえはそれでいいのか?」
いきなり正面を見据えてきた火影に問いかけられて、シカマルは唇をきつく結んだ。
 鳩尾を突かれたように、息が止まる。
なぜ自分にそんな事を問うのか、と逆に訊き返しても、答えてもらえそうになかった。もう気づかれているのだ。砂の里との共同任務には積極的に参加して来たことも、テマリが木ノ葉を訪れるたび、彼女を男達の目から匿おうと密かに画策してきたことも。
今度は、シカマルが目を逸らす番だった。
「すべては、あいつが自分で決めることだ」
敬語も忘れて、彼は低くつぶやく。
 下される決定に口を差し挟む権利が、いったい自分のどこにあるというのだろう。
上忍にはなった。しかし、首脳の肩書きを持つわけでもない、若造の忍だ。ましてや彼女とは、属する里が違う。これは何よりも明確にふたりを隔てている。
せめて心の奥底深くに沈めてきた想いを告げていたなら、何か変わったのかもしれないが………。
 もう、遅い。





 笛を吹くような啼き声をはなちながら、砂鷲が高く空へ羽ばたいてゆく。その小さくなる影を、テマリはじっとみつめた。
めずらしく彼女は、無為の時間を過ごしている。廊下の出窓に腰掛け、壁に背を預けて。
菱貝家からの文書が届いた後、テマリは里の首脳部の命ですべての任務から外された。大名に嫁ぐ予定の彼女が怪我でもしたら一大事だからだ。
 テマリは窓ガラスに額を寄せる。
風影の屋敷の窓からは、防風に優れた造りの家々が見渡せた。
昔は、愛情の見出せない血族と、忍として生きるしかないさだめを憎んだこともあった。でも今は、諦めでも義務感でもなく、この里に自分の身を捧げようと思っている。この里が好きだから。ここに住む人たちが好きだから。
そのために、今回の縁談は願ってもない機会だ。菱貝家と縁を持つことは、砂の里にとってどれほど頼もしい後ろ盾になることか。
 それなのに。
なぜか一人の男の顔が、テマリの思考を遮る。
めんどくさがりやで、でも共同任務の時には頼りになる戦略家で。年下だから弟のように思っていたら、あっという間に一人前の男の顔をするようになってしまった、他国の忍。
「奈良シカマル……」
自覚のないまま、彼女は呼ぶ。
その名が、小さく硬く鋭い棘になって胸に刺さった。思わずテマリは、鎖骨の下を手で押さえる。棘は問う。これでいいのかと、何度も。
 これでいいんだ。
強く自分に言いきかせる。
忍服を脱ぎ、扇を置いて、命の心配など無縁の城に住む。美しい絹と豪奢な食事。女が求めてやまぬ幸福で満たされた生活。夜の森に息を殺して潜み、干肉を齧って飢えをしのぐこともない。手を濡らす鮮血の悪夢にうなされることもない。
 だから、これで………
「姫」
背後から急に声をかけられて、テマリははっと振り返った。
彼女をそんなふうに呼ぶ人物はひとりしかいない。腰掛けた出窓から立ち、頭を下げる。
「お久しゅうございます。夕霧様」
テマリの丁寧な挨拶に、近づいて来た柔和な顔立ちの男も会釈を返す。色合いに派手さはないが、しっくりと落ち着いた重ねの大名装束が、長身に似合っている。
「所用にかこつけて、来てしまいました」
悪びれもせず、子供のようににこりと笑う。
「驚かれましたか?先日の文書のこと」
「……はい」
隣に並んだ夕霧へ、テマリは素直にうなずいて見せた。
「こんな、権力を嵩に着たようなやり方が良くないのは認めます。でも私は他の大名の姫より、貴女がいいんです」
きっぱりと夕霧は言う。
「なぜですか。私と夕霧様では、生まれも育ちも……何もかも違います」
ずっと抱えてきた疑問をテマリはぶつけた。彼女でなくても、彼は同じ事を何度も周囲から問われたはずだ。おそらくもっと厳しい口調で。
「……昔、私は貴女に救われました。気軽な行幸であったはずが、思わぬ叛徒の襲撃に遭って、最低限の警護しか連れていなかった我々一行はまさに絶体絶命でした。その時貴女は年上の部下に“決して振り返るな”ときつく言い含めて私達を逃し、ただひとり敵の一党の前に立ちはだかった。貴女の目には一片の怖れもなく、背中にはただ己を信じる強さがみなぎっていました」
なめらかに過去を語った夕霧は、きれいな弧に目を細める。
「貴女は凄絶に美しかった。望んでも望んでも、自分には持ちえない強さに憧れました。あの瞬間、私は貴女に恋をしたんです」
言い終わった後、さすがに照れくさくなったのか、夕霧は視線を外して顎を撫でた。
「だから私は、貴女がいい。ずっとそばに居てもらいたいんです」
飾らない彼の言葉が、テマリの耳にすっと収まる。こんなにも希まれて嫁ぐのは、女にとって最高の幸せなのだろう。
 ―――それなのに。
やっぱり、あいつの顔を思い出してしまう。
 鋭い棘が、胸に痛い。





 シカマルは古びた紙箱を棚から下ろし、フタをはずした。
中には、細く折り畳んだ跡の残る小さな紙がたくさん詰められている。テマリから文使いの役目を任され継いだサザイ達が届けてくれたものだ。
なんとなく捨てられずに、シカマルは彼女からの文をすべてこの箱に入れてとっておいた。底のほうへ手を入れれば、紙の四隅が褐変したような昔のものまである。
薬学の知識に関する質疑応答の素っ気ない文面から始まったふたりのやり取りは、詰め将棋の問題、任務の成果、里の出来事……と、だんだん内容が親密になっていった。
几帳面に並んだテマリの文字に目を落とす。普段気を抜くことのない彼女は、ほんの時折手紙でだけ、弱音を垣間見せることがあった。シカマルはそれがなんだか心配でもあり、嬉しくもあった。会えることは少なくても、数行の文字で繋がるかすかな絆。サザイの飛来を楽しみにするようになったのは、いつの頃からか……。
 シカマルは窓の方へ目をやる。
上忍になって実家を出てから、このアパートの一階でひとり暮らしを始めた。それでも変わらずに文は届いた。
部屋に帰って電気を点けた瞬間、窓の外でうれしそうにはばたいて、足に括った手紙の筒を見せるように羽ばたくサザイ。すぐに窓を開けないと、小さな嘴でガラスをコツコツつつき始める。言葉が分かるわけでもないのに、
『あーもう、わかったよ。せっかちだな』
と苦笑しながら鍵を外したものだ。
 だがあの窓辺に、サザイが来ることはもう、ない。
深い溜息をついて、紙箱にフタをする。いっそ燃やした方がいいだろうか、と考えた時、
「奈良シカマル」
テマリの声が聞こえたような気がして、シカマルはばっと窓辺に行った。窓を開けると、小さな白い花弁を孕んだ風が吹き込んで来る。
「テマリ。……テマリ!」
夜闇に包まれた狭い裏庭に向かって呼ぶ。確かな彼女の気配。窓枠を飛び越え、草の上に下りる。ほぼ同時に、たった一本だけ植えられた雪柳の木の下がぼうっと霞んだ。垂れた枝に咲き乱れる純白の花に、黒い人影が重なる。シカマルはそこへ駆け寄った。
「ばれた…か」
人影は、困ったように笑うテマリに変化して現れる。
「お前、幻術はヘタだからな」
すぐ向かいに立って、シカマルもぎこちなく笑った。
 そして、ふたりは……言葉を失った。





後編へつづく






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