庇から、絶え間なく雨だれが落ちている。軒をたたく雨音はいっこうにおさまる気配をみせない。 「困ったな…」 テマリは小さくつぶやいて、折り畳んだ手拭いで肩を拭いた。染みこんだ雨で、髪も忍服もしっとりと濡れて重い。 今日は我愛羅の風影就任を五代目火影へ報告に来た。まだ外部に正式な発表はしていないが、同盟国の木ノ葉には疾く伝えておくべきだというのが幹部の一致した意見だったのだ。 火影は、まるでテマリが風影に就任するように、笑顔で「おめでとう」と言ってくれた。テマリは複雑な気持ちで、ただ深々と頭を下げる。火影はゆっくり休んでいくといいと勧めてくれたが、テマリは丁寧に断り、すぐに帰路についた。そして、木ノ葉の中心街にさしかかったところで急な雨に遭ってしまった。 小粒だが、速い雨足。サァァと駆り立てるように街並みを霞みに封じ込めていく。 砂の里には、ほとんど雨が降らない。たまに降ったとしても、これほどの雨量になることなど滅多になかった。普段なら一通りの雨具を持っているのだが、あいにく今日は身軽な装束で来てしまっている。 仕方なく、テマリは古い金物屋の軒下を雨宿りに借りることにした。軋む戸を開けてその旨を伝えると、金物屋の老主人は快諾し「茶ァでも飲むかね?」と言ってくれたが、やはり丁寧に断る。軒下を貸していただけるだけで十分です、と。 それから、もう三十分ほども経つだろうか。 テマリはどうすることもできず、庇を伝い、涙型を作って落ちていく雨だれを茫然と見上げていた。 「お!」 彼女の前を足早に通り過ぎようとしていた人影が、声を上げて足を止める。 黒い大きなビニールの様なものを目深にかぶったその影に、テマリは怪訝な視線を送った。 「こんなとこで何してんだ?おまえ」 軒下の隣に並んで話しかけてくる影に、テマリは一歩立ち位置をずらす。それと同時に、影はガサッとかぶったビニールを取り去った。 現れたのは、見慣れた木ノ葉の忍服を来て、濃い色の髪を一つに結わえた奈良シカマルだ。 「…なんだ、おまえか。変な格好してるから誰かと思ったぞ」 テマリは、ほっとして一歩戻る。 「ああ、本部から帰ろうとして外見たら雨降ってるからよ。デカいゴミ袋一枚もらってきた」 シカマルはゴミ袋の一辺を破って、それを被っていたのだ。実用だけで見た目に無頓着なところがいかにも彼らしく、テマリは苦笑した。 「で、おまえは何でこんなとこにいるんだ?」 再びの質問に、テマリは我愛羅の風影就任の件を話した。いずれは火影が正式に発表してくれるだろう。 シカマルは、それを話すテマリの表情が複雑そうなのが疑問だった。 喜んでいない訳ではなさそうだ。口元はほほえもうとしているから。でも。目の辺りに漂う困惑したような色が気になる。 いつも、眉も目尻もきりりと上げ、顎を引いた一分の隙もない表情を見ているだけに、いっそうの違和感を覚えるのかもしれない。 木ノ葉訪問の理由を話してしまうと、テマリは口をつぐんで視線を落とした。 シカマルは思わず、その横顔を見つめる。 雨に濡れてしなだれた結い髪。横髪の一房が頬に張りつき、つつと水滴を顎に流している。しばらく雨の中にいたに違いない。忍服も、華奢な肩が分かるほど重く濡れて見える。地面をたたく雨に向けられた瞳は、覇気を失って虚ろだ。 あまりにも無防備な様子のテマリからは、不思議な艶やかさが匂い立ち、シカマルを落ち着かなくさせる。 思わず彼は、テマリの腕を掴んでいた。 「…どうした?」 問いかける。テマリが顔を上げ、シカマルと視線を合わせた。 「………」 だが、何も言わない。唇がかすかに動いたが、言葉にはならなかった。小さくため息をついて、また視線を落としてしまう。 「今日のおまえ、おかしいぞ。何かあったのか?」 あまり問いつめてはいけないような気もするが、口が勝手に動いた。 「……私は」 掴まれた腕をそのままに、テマリは小さな声で口を開く。 「心をなくしてしまったのかもしれない」 続けて言うと同時に、ひどく思いつめた様子の表情が上げられる。 「心…?」 テマリの言う意味が分からず、シカマルはまた問い返すしかなかった。 「我愛羅は…頑張ったんだ。自分が恐れられているのを承知で、一下忍として正規の部隊に入って、黙って危険な任務をこなして…立派に皆の信頼を勝ち取った」 それはシカマルも知っていた。伝令役などで砂の里に遣わされたり、我愛羅自身が木ノ葉に出向いて来たりして見かけるたび、彼と同行者の距離は縮まっているようだった。昔、中忍試験の時に感じたような得体のしれない禍々しさは影をひそめ、表情には穏やかさを見出すこともある。 それが、なぜテマリを追いつめているというのだろう。 「良かったじゃねぇか。それがおまえの望みだったんだろ?」 「そうだ。そのはずだ…」 言いながら、テマリはゆっくりと首を振る。 「なのに私は、我愛羅におめでとうが言えなかった。カンクロウは手放しに喜んでやってて、我愛羅は嬉しそうだったのに。なぜだか分からない。何にも言えなくて、ただ、父さんとか、母さんとか、昔の、いろんな、事を思い出して…」 息もつかずに言って、言葉が途切れる。 テマリは、知らないのだ。人の心には、自分でも理解できないような複雑な感情が生まれることがある。いつもいつも、正しいことを考えるわけじゃない。でも生真面目な彼女には、その複雑さが許しがたいのだろう。 全部しゃべらせてやろう、とシカマルは思った。普段は口数の少ないテマリ。きっと今、彼女は自分の思いを聞いてほしいのだ。内側に溜めた重みに押しつぶされる前に。 「私はひどい。ずっと我愛羅を恨んでた。母さんが死んだのはあの子のせいじゃないのに。守鶴に、取り憑かれた時も、逃げて…」 自分を責めて絞り出す声は、聞いているシカマルまで胸が痛むほど苦しげだった。 「…私…あの子がひとりで苦しんで、それでも頑張ったの知ってるのに…どうして…素直に喜んであげられないのか…」 テマリの唇が言葉を紡ぐたび、彼女の緑の瞳がにじむ。それが涙のせいであることに、シカマルは息を飲んだ。 オイ、泣いてんのか…! 赤みを帯びるテマリの頬。見たこともないほど頼りなげな表情。敵に追い詰められた時より、シカマルは焦った。 どーすりゃいいんだ! 彼女はまだ、シカマルを見ている。と、さらに瞳を満たす涙が増えた。切れ長の目尻から、一筋の流れがあふれようとした、瞬間。とっさにシカマルは腕に止めた額当てを引きちぎるように取って、その青い布でテマリの目の下を押さえる。涙が頬を伝うのを見るのは耐えられそうになかった。あんまり痛々しくて。 驚いたテマリの目が丸く見開かれる。 「悪ぃな。ハンカチとか気の利いたもんは持ってなくてよ」 涙を吸って、青い布がじわりと藍色に染まる。はじめて自分が泣いていることに気がついたのか、テマリは自分の頬に当てられたシカマルの手の上に、自分の手を重ねた。お互いの体温が伝わってあたたかい。 「あのさぁ、おまえ」 シカマルはすこし顔を寄せる。今はもう視線の高さに差がない。 「いっつも里の責任、とか上忍としての自覚、とかめんどくせーこと真剣に言ってんのに、これ以上いろいろ背負い込むなよ」 テマリは何も答えず、目だけで先を促す。 「その気持ち、我愛羅にそのまま話せばいいじゃねーかよ。遠慮とかナシに何でも話せるのが姉弟ってもんだろ。オレはひとりっ子だからあんましよく分かんねぇけど」 どんな顔をしていいか分からず、シカマルは苦笑いして見せた。 「心をなくした、なんて思いこみ過ぎだと思うぜ。なくしてないから苦しんでるくせに」 この気持ちを、そのまま我愛羅に伝える……? 珍しく真剣なシカマルの言葉を、テマリは反芻していた。そんなこと考えたこともなかった。 「正直に話したら…我愛羅が傷つくかもしれない」 額当ての布の下で、声がくぐもる。 「あのなぁ…」 シカマルの顔が、さらに傍に寄った。 「そんなふうに、ミョーな気遣いされる方が傷つくんじゃねぇの?今までのおまえの思い、聞いて受け止めるくらいの度量はあるよ。今のあいつには」 「………」 津波のようにおし寄せて来た感情の波が鎮まるのを感じて、テマリは自分の頬からシカマルの手と額当てをそっと外した。 すぅ、と息を吸い込む。鼻の奥が熱い。泣いたのなんて、何年ぶりだろう。 目の前のシカマルは、額当てをポケットに突っ込み、テマリから視線を外して降り続く雨を見上げている。 思いをぶつける、か。 テマリも、同じように雨を見上げた。一心にただ、降る雨。地面に落ちて、土に染みこんで。深く。深く。 たとえ本当の思いをぶつけ合って、傷つけてしまったとしても、私たちには時間がある。もう二度と会えない父や母や夜叉丸と違って、許し合うこともできる。 我愛羅、火影就任、おめでとう。 湧き出るように、その言葉が浮かんできた。何もかも話したら、最後にそう言える気がする。 「……帰る」 テマリが言うと、シカマルはまた彼女に視線を戻した。 「帰って我愛羅と話す。早く…話さないと」 意を決したせいか、いつもの顔に戻ったテマリに、シカマルはにっと口の端を上げた。 「でも、まだ雨強いぞ。オレん家寄って、雨具持ってくか?」 「んん…。いや、いい。今すぐ帰りたいんだ」 テマリは今にも駆け出しそうだ。また気持ちが退いてしまわないうちに、一歩でも砂の里に近づきたいらしい。 「よし、じゃ、コレ持ってけ。少しは違うから」 そう言ってシカマルは、足元に置いていた黒いビニールを取り上げる。 きょとん、とテマリがそれを見た。雨具というにはあんまりな、破いたゴミ袋。 「ぷっ」 思わず、テマリは吹き出す。これを人にもったいぶって貸そうなんてひどすぎる。 「おまえはどうする?コレがなきゃ困るだろう」 「オレは家が近いし、帰ったらすぐ着替えられるからいい」 ふふん、といった風情でシカマルはビニールをテマリに被せた。彼女が器用に指を動かして裂けた端と端をキュッと結ぶと、意外とすき間なく体を覆うことができた。これなら雨合羽代わりと言って障りない。この際体裁に構ってはいられないことだし。 「けっこう使えるな」 「だろ?奈良家秘伝だから、砂の里では真似すんな」 シカマルの軽口に、まだ赤さの引かない頬をゆるめてテマリが笑う。そして彼女は、傍らに立て掛けておいた扇子を持ち上げた。 「じゃ、帰る。風邪、引くなよ」 そう言って扇子をしっかりと抱える。 「おまえもな。気をつけろよ」 手を軽く振るシカマルにうなずきを返して、テマリは雨の中に二歩、走り出した。そして急に足を止め、振り返る。 「奈良シカマル!」 雨音に負けないように、なるべく大きな声で呼んだ。 「なんだよ?」 まだ軒下に居たシカマルが身を乗り出す。 「ありがとうな!」 そう言うと同時に、ニシシ、とテマリが照れたように笑った。そしてすばやく身を翻し、走り去ってゆく。 雨霞の中に消える黒いビニールの後ろ姿を、腰に手を当てて見送りながら、シカマルの唇にも笑みが浮かんでいた。 ―――いいね、やっぱり、その顔が。泣き顔も、悪くねぇけど。 ちょっと書くつもりが長くなってしまいました。 初めての気弱テマリ。彼女が抱えているであろう複雑な思いをなんとか表現したかったんですが、あんまり書きすぎると 不幸の押し付けみたいでうざったいし、悩みました〜!そして、相変わらず青いシカマル。動揺するシカマル書くのがホントに 好きだなぁ、私(笑)。自覚ないままに気苦労を背負い込むテマリと、それをこっそりフォローするシカマルという構図がお気に入り です。 |