6.聞こえる




 夕日紅率いる第八班は今日、演習林へ来ていた。
手裏剣、クナイなどの投擲練習をみっちりとこなし、忍術の基本の復習が終わったのは、日が傾き始めた頃だった。
「じゃ、今日は最後に幻術をかけるわね」
紅がキバ、シノ、ヒナタを列べて告げる。
「幻術ぅ〜?」
幻術が嫌いなキバがさっそく不平を鳴らした。
「嫌がらないの!敵の幻術にはまったら、攻撃もできなくなるでしょ!」
紅は少しきつい目をしてキバを睨む。うっと呻いて顎を引く彼に向かって、彼女は表情をゆるめた。
「今日は"自分が一番怖いもの"を見る幻術をかけるからね。ちゃんと"解"が出来たら、今日の授業はおしまいにするから、頑張るのよ」
「わかったよ…」
しぶしぶといった風情で、キバは口を尖らせながら了承した。両脇にならんだシノとヒナタは黙ってうなずく。
「じゃ、文句言ってるキバからにしましょっか」
 紅は足を一歩踏み出し、キバの正面に立った。キバは頭の上に乗せた赤丸を地面に下ろし、それが無意味だと分かっていても、思わず身構える。
両指が印を結び始めると、紅の瞳の赤さが一段と冴えてゆく。途端にキバが歯を食いしばり始め、赤丸が心配そうに小さく鼻を鳴らして見上げた。ヒナタはそっと背を曲げて、 赤丸をキバの足元から離す。幻術にかかっているキバが予期せぬ動きをして赤丸を踏んだりしないように。
「ううー・・・」
しばらくキバは唸っていたが、じりじりと両手が上がり、指が動き始める。"解"の印だ。
「か・・・解!」
絞り出すような声で、やっとキバが幻術を解くのに成功した。
「よし。合格よ」
「うへー。めちゃめちゃ怖いぜ」
自分を苦しめた幻影を振り払うように、キバが頭をふるふると動かす。その仕草が水に濡れた時の赤丸とそっくりで、紅とヒナタは少し笑った。
「じゃ、オレいち抜け!先にアカデミーに戻ってるぜ」
焦っているところを見せたのが恥ずかしいのか、キバは走り出しながらシノとキバに手を振る。その後を赤丸がすばやく追っていった。
「さて、次は・・・シノね。ヒナタは幻術が得意だから最後よ」
紅の言葉を聞いて、シノが黙って紅の前に立つ。彼より幻術が得意と言われたヒナタは不思議な気がした。年齢に似合わない落ち着きを備えたシノこそ、幻術の耐性は強いように思えたからだ。
 紅の幻術が始まっても、シノは微動だにしなかった。ただ二、三分過ぎるうちに、眉間に縦ジワが刻まれ、手は白くなるほど強くこぶしを握りはじめた。
 シノ君が一番怖いものってなんだろう…?
ヒナタが冷や汗を伝わせるシノの横顔を見つめた時、ばっとシノの左足が一歩下がり、素早い動きで両手が合わせられた。その勢いのまま、解の印が結ばれる。
「解!」
声と同時に眉間のシワは消え、シノはもとの冷静な顔に戻っていた。
「よし。合格。いいタイミングだったわね」
紅はほほえんでうなずき、シノは軽く礼をしてそれに応える。そして彼はヒナタに軽く手を上げ、キバと同じようにアカデミーの方へ歩いて行った。
「よし。じゃ最後にヒナタ」
気軽な様子で、紅は彼女の前に立った。
「ヒナタはこの前も幻術解くのすぐ出来たから、緊張しないでいいのよ」
紅はいつも、ヒナタに自信をつけさせようとしてくれる。たしかに先日、三人同時に紅の幻術をかけられた時、最初に解いたのはヒナタだった。
 がんばろう。せっかく紅先生が期待してくれてるんだから。
ヒナタはきゅっと唇を結び、紅が素早く印を結ぶ指をみつめた。
 私の一番怖いものー。
 そう思った瞬間、ヒナタの視界は暗闇に包まれた。何も見えない。何も聞こえない。まったくの闇と沈黙の中で、彼女は佇んでいた。視界はただ黒いだけなのに、ものすごい空間の広がりだけを感じる。真っ暗な広い広い場所に、彼女はぽつんと立っているのだ。
 おそるおそる、ヒナタは自分の手を目の前にかざしてみた。たしかに腕を上げている感覚はあるのだが、手は見えない。声を出そうと口を動かした時、それもできないことが分かった。
 これは、なに…?
聞こえるのは、自分が自分に問いかける心の声だけ。
 振り返っても、上を見上げても、足元をのぞいても、闇だった。
 これが私の、一番怖いもの…。
 ヒナタの背中を、ぞわっとした感覚が走りぬける。
ひとすじの光も見えない、完全な闇。自分の立っている場所さえ危うくなる。幻術だから、と自分にいいきかせてみるが、五感がうったえてくる本能的な恐怖はヒナタの心をじわじわとむしばむ。解の印を結ぶのに集中することさえままならない。
 怖い…!
 足から力が抜け、倒れ込むところも闇。
これは夢だ。子供の頃からくりかえし見る一番怖い夢。誰からも必要とされず、己れでさえ存在をつかめない、闇に塗り込められる自分。永遠の孤独。
 たすけて たすけて たすけて
 声の出せない口で、ヒナタは悲鳴を上げた。



「……ヒナタ!ヒナタ!」
 必死に自分を呼ぶ声で、ヒナタは重いまぶたをなんとか薄く開いた。
気がつけば紅の腕の中に倒れ込んでいる。
「く…紅せんせ…」
声が出せることにほっとして、ヒナタは大きく息を吐いた。
「驚いたわ。大丈夫?急に倒れたのよ」
「すみません…」
彼女はせっかく紅が期待してくれたというのに、応えられなかった自分が悲しかった。だが、あの闇を思い出すだけで身震いがする。
「謝らなくていいのよ。何度も練習すればいいんだから。それより今は動かないほうがいいわ」
そう言って紅は、真っ青な顔をしたヒナタを傍の大きな木の幹へもたれさせた。
「そんなふうになるなんて…。何を見たの?」
赤く美しい瞳が、心配の影をたたえてヒナタの顔をのぞきこむ。紅は教える術に容赦がない反面、それ以外は本当にやさしい。
「………」
 ヒナタは答えられない。自分の中に巣喰う孤独の闇を、うまく言葉にできなかった。
「言いたくないならいいのよ。よほど怖かったのね。でもねヒナタ、それは忍であるために、あなたがいつかは克服しなきゃいけない怖さなの」
「はい」
苦しそうな顔をするヒナタの頭を、紅は勇気づけるようにぽんぽんと掌で軽くたたいた。
「さて、ちょっとお水持ってきてあげるから、しばらくここで休んでなさい」
「…すみません」
「謝らなくていいって言ってんのに。この子は」
紅は微笑しながら立ち上がり、動いちゃダメよ、とさらに言ってからアカデミーの方へ走っていった。
 ひとり残されたヒナタは、頭も背後の幹へ預ける。精神的な衝撃の余波がまだ彼女の体内で小さく渦を巻き、とてつもない疲労感になって全身を覆っていた。
 情けないなぁ…もう…。
 克服しなければならない怖さなのだと紅は言った。いつかあの恐怖と冷静に向き合う日が来るのだろうか。ヒナタは声も出せなかった自分を思い返して、その日はずいぶん遠そうだ…と肩を落とした。
 その時。
 幻術の影響で紗がかかったように見えるヒナタの視界に、人影が入ってきた。
紅、ではない。彼女が戻って来るにはあまりにも早すぎる。もっと小柄な…
 冷たい印象の整った細面。大きめの上着と短い丈の黒いズボンが、夕なずむ太陽で朱色に染められている。
 …ネジ兄さん。
 なぜだか分からないが、彼女の最も苦手な人物がそばに来たのだ。この姿を見てなにかひどい言葉を投げつけられるのではと、ヒナタは体を起こそうとする。しかし腕も足もまだ自分のものでないかのように重く、かすかに身じろぎした程度にしか動かせなかった。
 迷いのない足取りで、ネジはヒナタのそばに来る。そして膝をつく。
 あれ…いつものネジ兄さんじゃない…
 ネジの顔が見えた瞬間、ヒナタは感じた。どこが違うのか、具体的には言えない。いつものように表情は厳しかったから。でも、心なしか自分と同じ灰色を帯びた白い眼に、心配そうな影が差している。それはさっき、彼女が紅の赤い瞳の中に見たのと、同じ影だ。
「…呼びましたか?」
ネジは静かにそう言った。
「呼ぶ…?」
小さな声で、ヒナタが問い返す。
「あなたの声が聞こえました。助けて、と」
ネジの言葉に、ヒナタははっとして体を起こした。闇の中で自分の心の中にだけ響く悲鳴。誰にも届かないと思っていたのに。
「聞こえた…の…ですか…」
言いながら、ヒナタは意識がかすむのを感じた。急に動いたためか、全身から血の気がふっと引く。ぐらりと揺らぐ彼女の体を、テーピングに覆われたネジの白い手が支えた。そのままそっと、元のように幹へ預けられる。
「…無事ならいいんです」
「ネジ兄さ…」
開きかけたヒナタの唇は、途中で止まった。ネジの手がそのまま、彼女の顔に伸びたから。
……頬に触れたその指が、あんまりやさしかったから。
「いいから、休みなさい」
いつもの突き放した口調で、ネジはヒナタに言う。彼女の視界に映る、夕日の朱に片頬を染めた従兄の端正な顔がぼやけていく。眠りに落ちようとしているのだ。
 どうしてかな…
閉じかけたまぶたに逆らいながら、ヒナタは考えていた。
 ネジ兄さんは怖いもののはずなのに…
そばにいてくれると、安心…。
 その感情を理解できないまま、彼女は唇にわずかな笑みをのせる。そして睡魔に抵抗するのをやめた。今ヒナタを包みつつあるのは、あの恐ろしい暗闇ではなく、あたたかな眠りの薄闇だった。


end





 お題もの一作目。しょっぱなはやっぱりネジヒナでいこうと思いつつ、ネジ兄さんの登場が遅っ。
幻術の練習ってどうやるのがあんまり分からないので、テキトーです。すみません。ひさしぶりに少年少女達を書いているのですごく新鮮でした。個人的にはヒナタと同じく、シノの一番 怖いものが気になります(笑)。





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