「やさしい午後」 なつかしい……。 不意に胸が締めつけられる様な感覚がして、桂は目を開けた。 少し体を休めるつもりだったのに、うとうとと浅い眠りに落ちていたようだ。 体を起こすと、夕方前の太陽が和室の畳を照らしているのが目に入った。 この家の主人の「やっぱり新しい畳はいいねぇ」という嬉しそうな言葉を聞いたせいか、全く同じことを言った懐かしい人を思い出してしまった。夢の中で。 あれは、十になるやならずの頃だったか。 有徳の志を掲げた私塾へ、桂は熱心に通っていた。その主宰者の名は、吉田松陽という。 およそ儲けることなど知らぬ人だった。出自の士農商も問われなかったし、学ぶ意欲さえあれば誰でもそこへ通うことができた。わずかな塾費を滞らせても、催促しているのを見たことがない。 その人は、ただ子供たちに学問を教えるのが楽しくて仕方ない、といった様子で、破れた障子やら毛羽立った畳やらには、てんで無頓着だった。 ある日、その惨状を見かねた近所の畳職人の親分が、塾の畳を全部新品に替えてくれた。親分の孫もこの塾で学んでいたからだ。 熟練の職人の手に成る畳は、ぴっちりとした組目が美しく、それは良い香りがした。 初夏に駆け込んだ草むらのような、青くて清らかな…… はしゃぎながら寝転がる子供たちに目を細めながら、その人は「やっぱり新しい畳はいいねぇ」と、そうほほえんだのだった。 もう褐色になってしまった思い出は、今でも桂の口元をほころばせる。 自宅では、こんな思い出に浸ったことはない。この家だからこそ、くつろいでしまったようだ。 とん、とん、とん…… 階下から、手馴れた包丁の音がする。 まな板を叩く心地よい調べは、畳の香りと共に、彼に安らぎを与えた。 同時に、微かな罪悪感も混じる。 この場所でこんなことを感じるのは、本来許されざることなのだ。 桂は立ち上がり、着物と髪を整えた。 「手元、気をつけんのよ。本当に大丈夫なの?」 調理場に立つ作務衣姿の幾松が、心配そうに隣の手元をのぞきこんでいる。 一方、隣に立つ白く無表情で巨大な物体―――エリザベスは、事も無げに空いたほうの手でネギの根元を抑えた。 とん、とん、とん。 幾松ほどとは言えないが、小気味良いリズムでエリザベスは小口切りを刻んでいく。 「あら、うまいじゃない!」 はじけるように笑って、彼女は手を叩いた。 階下に下りてきた桂は、そんなふたりの様子に、しばし声を掛けるのを忘れて見入る。 幾松は、最初に見たときこそ怯えていたが、何度か蕎麦を食べに来るうちに、感情をボードで表すこの奇妙な地球外生物に慣れていった。今ではこうやって、桂抜きでも困惑している様子がない。 一方のエリザベスは、幾松の作る麺物のファンなんだそうだ。『ラーメンの』ファンと書かないところを見ると、蕎麦好きの桂に気を遣っているのだろう。 「こんな手で、よく包丁が握れるもんだねェ」 エリザベスの、指のない手袋のような手をとって感心していた幾松が、不意に桂に気付いた。 「あら、目が覚めたのかい」 「……ああ。長居してすまない」 桂は、調理場への縄のれんをくぐった。 「いいんだよ。ずいぶん疲れてるみたいだったからね」 そう言って、彼のために茶を淹れる準備をしてくれる。 見抜かれていたのか、と桂は顎に手を当てた。 また真選組に追われて、夜中の江戸の町をあちこち隠れ回っていたのだ。「少し休ませてもらえまいか?」と、普段と変わりなくここへ顔を出したつもりだったが、彼女を謀ることはできなかったらしい。 「さ、座りなよ」 促されて、桂はカウンターの端に腰掛けた。 外に準備中の札が掛かっているようで、店内に他の客はいない。いつもこんなふうに、さりげなく幾松は気を遣ってくれる。 とはいえ、桂と幾松の間には何もない。 一度、互いの災難を助け合っただけ。その他には何も。 桂は常連客と呼べるほどここに来られるわけではないし、店の切り盛りで手一杯の幾松とは、北斗心軒以外で会ったこともない。 それでも、桂はここに来ると落ち着く。安寧、と呼ぶにふさわしい気持ちになる。 こんなことは、求めていなかったのに。 自分は大義に生きる。それだけを決め、多くの同胞を亡くしながらも、孤独な戦いを続けてきたのに。 どうしたことだろう、これは……。 「はい。熱いから気をつけな」 白い湯飲みに入った茶を、幾松が桂の前に置く。 「これは…?」 出された茶は、緑茶よりやや黄みがかり、蒲公英のような香りがした。 「薬湯混ぜたんだよ。アンタ、胃が弱いんだろ。寝起きに冷たい水はいけないよ」 「……かたじけない」 桂は軽く頭を下げた。 彼は何か問題が持ち上がると、よく胃を壊す。精神的な苦悩が、体を苛むのだ。昔からそうだった。 ―――何もかもお見通しだな。 「やだねェ。あんたは腺が細そうだから、そう思っただけだよ。侍ってやつは大げさなんだから」 ぷいと、幾松は背を向けて冷蔵庫の方へ行ってしまう。 言葉ほど、口ぶりは呆れていなかった。照れているのだろうか。桂はいぶかしむ。 彼が茶を口に運ぶと、素朴で柔和な味がした。かすかな苦みも混じるが、むしろそれが体を内側からしゃっきりさせる。 「しまった。ネギがもう無いね」 冷蔵庫の中身を点検していた幾松が、声を上げた。 「買い物に行ってこなきゃ」 そう言いながら扉を閉め、カウンターへ戻ってくる。腰のエプロンを解きかけた彼女の前に、ひょいとエリザベスが立ちふさがった。 とんとん、と白い手が胸(?)を叩く。 どうやら自分に任せろ、という身振りらしい。 「……いいのかい?」 小首を傾げる幾松に、エリザベスは 『仕込み、大変』 と書いたボードを掲げて見せた。 「ふふふ、ありがとう」 嬉しそうに、彼女はほほえむ。そして、ネギを切った後のエリザベスの手を濡れ布巾で丁寧に拭いてから、買い物籠と買出し用の財布を預けた。 主婦のようにその籠を腕に掛けたエリザベスは、もう一度胸をとんとんと叩いてから、店の外へ出て行く。 「不思議だねェ、エリザベスって」 白い大きな後姿を見送った後、幾松は呟いた。 「……どこからどう見ても不思議な存在だが」 また一口、茶を啜って桂が答える。 「見て呉れの話じゃないよ。中身の話だ。侠気があるっていうか…」 「エリザベスは、俺の友から預かったのだ。その男に少し似ているかもしれぬな」 「友達?」 「ああ。今は宇宙のどこをうろついているのやら…。見た目は道化じみてるが、やはり侠気を忘れぬ男だ」 桂の視線が遠く投げられる。 『地球はわしにゃ狭すぎるんじゃ』。そう言って豪気に笑う友の顔が懐かしい。 「ふうん…」 彼のしみじみとした口ぶりで察したのか、幾松はそれ以上問わなかった。まな板の傍にあったメンマ用の筍を取り上げ、平たく刻み始める。 一方、桂はぐいと残った茶を飲み干し、カウンター席を立った。湯飲みを洗い場に置き、羽織を脱ぐ。袂に入れていた紐取り出して襷掛けすれば、準備万端だ。 「さて、私は何を切れば良いのだ?」 そう言って、幾松の隣に立つ。 「は?」 怪訝な顔で、彼女は桂を見返した。 「手伝うぞ」 「お断りだよ」 間髪入れず、拒否される。 「なぜだ。エリザベスはいいのに、俺はダメなのか?」 口を尖らせて言い募る桂を、幾松は睨んだ。 「ダメなのか、じゃないでしょーが!この前もそんなこと言って手伝ってくれたのはいいけど、指の皮削いだって大騒ぎしたの誰よ!?結局皮が見つかんなくて、あのチャーシュー、一個丸ごと台無しにしたのを忘れたかァ!」 一気に言う内にまた腹が立ってきたのか、彼女は語気が荒くなる。しかし当の本人は涼しい顔のままだ。 「確かに前回はいささか手落ちがあった。しかし今日の俺は違うぞ。たとえ手の皮を削いでも、今日は黙っておくつもりだ」 「アンタね、そんな問題じゃ…」 言いかけて止め、幾松は溜息をついた。怒るのが馬鹿馬鹿しくなってしまったようだ。 「じゃ、そっちやってよ」 指差す先には、いくつかの丸ごとキャベツ。 「もう芯に包丁入れてあるから、一枚ずつ剥いて」 「キャベツじゃ物足りぬのだが…」 「文句があるわけ?」 「いや、やらせていただこう」 それ以上は逆らわず、桂は幾松の隣に立った。調理台の上に転がったキャベツを裏返し、芯の根元に親指を掛ける。瑞々しい黄緑色の葉が、ぱりりと小気味の良い音を立てて剥がれた。 案外手際の良い桂に安心したのか、幾松はまた筍を切り始める。 「アンタは、どうして今でも攘夷志士なんかやってんの?」 しばらく経った頃、手を止めずに彼女は訊いた。気軽なふうを装っているが、声に混ざる微かな緊張を、桂は聞き逃さない。 「俺に、これ以外の生き方は考えられないからな」 敢えて、彼も何気なく答えた。 「どうしてさ?侍の中には、今の世に馴染んで暮らしていってる奴もいるのに」 芯に近づくにつれ、剥きづらくなってくる葉と格闘していた桂の手が、止まる。 「幾松殿」 あらたまってそう呼ばれて、幾松の手も止まった。 「俺には、生涯の師がいる。その方はもう亡くなってしまったが、俺はその方の教えを守って武士の義に生きると誓ったのだ。だから、生き方は曲げられぬ」 思い出すのは、師の笑顔ばかり。心に刻むのは、師の言葉ばかり。昔を思う時、桂の胸は痛み、同時にあたたかい。 「そう……」 呟くように幾松は言った。そして、顔を伏せてしまう。横髪の房が垂れ、彼女の表情を隠す。 訝しく思った桂は幾松に近づいた。 「幾松殿?」 「どうしたんだろうね、私は…」 彼女の白い手が自分の作務衣の襟元をゆっくりと掴む。 「何か、心配になるんだよ。私がアンタの心配なんかしたって仕方ないのにさ。嫌なことばかり考えてしまう」 言いながら、幾松は顔を上げた。言葉通りに心配そうな顔がはっとするほど美しく、桂は思わず目が離せなくなる。 見つめあったまま、気まずい沈黙が流れた。 「……やだね、私、何を…」 沈黙に耐えられなくなった幾松が口を開いた時、不意に桂が彼女の手を上から掴んだ。 「大丈夫だ。俺は」 「え?」 「何の根拠もないんだが、俺は大丈夫だと思う。今まで危なかった事は何度もあるが、その度に何やかやと助かってきたから」 大真面目な顔で言う。幾松は一瞬きょとんとした後、苦笑した。 「強運だって言いたいのかい?ホントに根拠がないねェ」 ふっと、空気がゆるむ。桂は離しがたいような気持ちで、幾松の手から自分の手を外した。華奢な指の感触だけが掌に残る。 「だから、まぁ、あまり心配するな」 柄にもなく顔に朱が昇ってくるのを自覚しながら、桂は慌ててキャベツに向き直った。また小さく、幾松が笑うのが分かる。 「そっか。でも、気をつけなよ。命は一個しかないんだからね」 あまり深刻な口調にならずに言い、彼女も仕込みを再開する。 ふたりの間に在る、すこし特別な空気。それを今は、はっきりさせたくない。そばにいるだけで心地良いから。 桂は順調にキャベツの葉の山を築いていく。幾松は筍の短冊切りに下味の準備を始める。その手が、ふと止まった。 「髪、邪魔でしょ」 そう言って幾松は流しで軽く手を洗い、エプロンのポケットから結い紐を取り出す。長い髪を後ろでひとつに束ねる時、一度だけ彼女の指が首筋に触れるのを桂は感じた。 「スポーツ刈にしたほうがいいだろうか?」 前から少し気になっていたことを、問うてみる。 「何言ってんの。綺麗よ、アンタの髪。うらやましいくらい」 「そうか…」 なごやかな時を過ごすふたり。ゆっくりと沸いてきたラーメンスープの香りが、そろそろ夕刻だと告げる。 その頃エリザベスは、『北斗心軒』の外で店に入るタイミングを失って立ち往生していた。 初の桂×幾松。「幾松さんの『男はスポーツ刈りが一番』って言ったのを、ヅラが案外気にしてるといいな」 なんて思って書き始めた割りに長くなりました(苦笑)。 お互いの境遇に躊躇しつつ、一緒に居る時間を楽しむふたり+エリザベスが書けて満足でもあります。 ところで、私は幾松さんはヅラより年下希望派です。だって、年下の未亡人の方が萌えませんか?アンバランスな 感じで。いかがでしょ? |