The Brilliant Epoc − 古き良きイゼルローンで − 

T : あわてんぼうの女神




 イゼルローンは、占拠当初の混乱状態が嘘のように落ち着きつつあった。大部分は事務監キャゼルヌ少将の功績である。
 民間人の移住もスムーズに進み、商業フロアでは多くの小売店や飲食店が営業を始めていた。
 そんな中スパルタニアンのパイロット達、とりわけハートのエースの強い要望で、バー“サーバルキャット”も開店した。 元々ハイネセンで彼らのたまり場になっていた“コヨーテ”の主人の弟が、わざわざイゼルローンへ引っ越して来て支店を 作ったのである。
「おおっ。内装もそっくりにしたんだな。やっぱ落ち着く〜」
勤務時間を終えたオリビエ・ポプランは、まだ真新しい匂いのする店内を見回して大きくのびをした。軍服のジャンパーの前は 開けられ、シャツの襟ボタンも外されている。彼の本領が発揮される時間がやってきたのだ。
 ポプランの後から“サーバルキャット”に入ってきたパイロットの面々も、ラフに配置された椅子に座ってくつろぎ始める。
さっそく好みの酒を注文する者、同僚を掴まえて首都に残してきた恋人の悩みを相談しだす者、ポケットからクロスワード パズルの本を取り出す者…。
「おいおい。もうそれかよ!」
白と黒が配置された表に目を凝らし始めた相棒のイワン・コーネフに、ポプランがからむ。
 しかし当人はかまうふうもなく、ペンを取りだして書き込みを始めた。
「つれないね、僕の相棒のコーネフさんは…」
しゅんとしてみせるポプラン。横目でコーネフをうかがいつつ。
「おまえさんがひとりなんて珍しいな。ふられたか」
パズルから目も上げずに言い返す。
「失礼な!おれがふられるわけないだろ!まだ後方担当の移動が少なくて女の絶対数が少なすぎんだよ!」
「でもゼロじゃないんだけどな」
ポプランがやりこめられる。涼しい顔をしてペンをくるくる回している男に何か反論せねば、と息を吸い込んだ時、入り口の ドアがギィと古風な音をたてて開いた。
 美女が、あらわれた。年齢は二十歳ちょっとというところ。肩よりやや短い黒髪。目尻にいくほど長い睫毛が琥珀の瞳を 印象的に彩る。軍服を着ているのがもったない。ぜひもっと露出の高いドレスを!とポプランの中の批評家が叫ぶ。
「どうしてこんな男ばかりのむさい場所へ?お嬢さん」
鉄面皮の相棒には興味を失ってポプランが声をかける。すると美女は、にこっとほほえんだ。笑うと両頬にえくぼができて 愛嬌がある。
「イワン・コーネフ少佐はいらっしゃいますか?」
しかし美女は、ポプランの予想外のことを訊く。今日はつくづく、彼の厄日らしい。
「コーネフはコレだけど…」
熱心にパズルを見つめたままのコーネフを指差すと、美女はつかつかと彼らのいるテーブルの方へ来た。
「おいっ。コーネフ。お前にお客さん」
これ以上ないというほど不機嫌な声でポプランがコーネフの肩を揺する。
「…ん?」
やっと顔を上げたコーネフの前に、笑顔の美女が立ちふさがった。
「イワン・コーネフ少佐?」
「そうだけど」
瞬間、美女の顔から笑みが消えた。
「マデリーンの仇っ!!」
その声と同時に、コーネフの視界からテーブルとクロスワードパズルが消え、左頬に熱い痛みが走った。 その衝撃で椅子から転がり落ちる。
 しーーん……。
 “サーバルキャット”にいた全員の視線がコーネフに集まる。
「……ナイスパンチ」
ポプランが思わず賞賛する。
 バーン!!
その時、入り口のドアから新たな人物が駆け込んで来た。慌てた様子の、若い女性軍人だ。なかなかかわいい顔立ち。
「アスティア!」
その女性が呼ぶと、拳を握ったまま立っていた美女が振り向いた。
「マデリーン!仇はとったわ!」
また笑顔になって握った拳を掲げてみせる。しかし、駆け込んで来た方の女性は笑い返さず、荒い息の中、
「ちが――う!!」
と叫んだ。




「あっ」
「…え?」
執務机の上で半分居眠りをしていたイゼルローン総司令官ヤン・ウェンリーは、傍らに置いた机の上で熱心に決裁書類を 整理していた副官の上げた声に反応した。
「ああ、すみません。今日入港した艦艇に、友人の名前があったので」
嬉しそうにフレデリカがほほえむ。
「親しい人かい?」
「ええ。士官学校時代の同級生です。もう二、三日後に入港するって聞いていたのに…早まったようですわ」
彼女が仕事中にプライベートな話をするのは珍しい。
「司令官はご存じありません?アストライア・レミルって…」
「んん〜。ごめん。知らないな」
ヤンが答えると、フレデリカはにっと口角を上げた。
「じゃ、“ヘイスティ・ゴディス(あわてんぼうの女神)”って言えば分かります?」
「あー!彼女か!」
それは、士官学校出身の者には馴染みの名だった。先に卒業しているヤンも、後輩達からの伝聞で知っている。士官学校 始まって以来の天才…になるはずだった生徒。フレデリカと同年卒業者の首席。艦隊運用シミュレーション等で抜群の成績を おさめたが、とにかくおっちょこちょいで、試験の回答欄を逆から打ち込んだり、シミュレーションマシンに乗り込む瞬間足を 踏み外して額を強打し気を失うなど、もう事実か創作か分からないような話が伝説化している。
 ちなみに女神と呼ばれるのは、彼女の名前“アストライア”が古代神話の正義を司る女神の名だからだ。
「へぇ。彼女がイゼルローンへ来たのかい?」
ヤンが思い出し笑いをしながら訊く。
「はい。今はS−81輸送部隊中隊長で、補給艦“エドモンズ”に乗ってるんです」
「ヘイスティ・ゴディスが赴任するなら、何か面白いことがありそうだね」
「ええ。きっと」
フレデリカは入港艦艇名簿を閉じ、確信めいた表情でうなずいた。




司令官室のふたりが、暢気に顔を合わせて笑っている頃。
「あははははは!!」
もっと大声で笑っている人物がいた。オリビエ・ポプランである。
「いやあ、いいパンチだったよ、レミル大尉」
ポプランは横に立つ女性の肩をぽんぽんと叩いた。
「…ホントにすみません…」
ほっそりした体をさらにふたまわりほど小さくしたアストライアは、また椅子に腰掛けたコーネフに頭を下げた。彼女がパンチを 食らわした相手は、店主が用意した氷袋で腫れてきた左頬を冷やしている。
「もういいよ、レミル大尉」
騒ぎ立ててもポプランの美味しいエサになるだけなので、コーネフはなるべくおだやかに言った。
実際には、彼女の拳は過去何回かの男相手のケンカでも覚えがないくらい痛いパンチだったが。
「んもう!あわてんぼうなんだから!わたしはアイヴァン・コーネンって言ったのに〜〜」
アストライアの隣で後から入って来た女性軍人――マデリーン・ケンジット少尉がため息をつく。
「…ご、ごめん…」
またアストライアが縮こまった。
「友達思いなのはうれしいけど、ちゃんと確認してね」
「…はい」
「んっ?コーネンって、第五空戦隊のコーネン少佐のこと?」
同時にため息をついた女性ふたりの間に、ポプランが割って入る。
「第五空戦隊だったんですか。あいつめーーー!」
マデリーンの眉がキッと上がる。
「コーネンがどうしたの?」
「あいつってば、別れた後に無断でわたしのフェザーン銀行口座からお金下ろしたんです!やっと見つけたわ。 とっちめてやるぅ〜」
言いながら、もうドアのほうへ駆け出すマデリーン。その後をあわててアストライアが追おうとする。しかし、ポプランの腕が それを止めた。
「コーネンを懲らしめるのは俺にまかしといて。君はかわいそうなコーネフ君についててあげてよ」
“かわいそう”を強調して、ポプランがウインクする。そしてマデリーンの後をスキップでもしそうなほど軽い足取りで 追っていった。
「…任しといていい。あいつは三度の飯よりケンカが好きな奴だから」
呆然と立ちつくすアストライアに、コーネフが声をかける。さすがにもうひとつ彼が大好きなものの名は口に出さなかった。 空戦隊全体の品位をこれ以上落としたくなかったので。




 その夜。仕官用カフェテリア。
「ええっ。コーネフ少佐を殴ったの?」
フレデリカが目を丸くする。
「うん…人違いで…」
グラスの氷をストローでくるくる回しながら、アストライアは小さく呟く。
「あいかわらず、話題作りに余念がないわねぇ」
そう言って、フレデリカは気に病んでいるアストライアを笑い飛ばした。
「悪いことしたなぁって真剣に悩んでるのに!」
「冗談よ。ポプラン少佐とコーネフ少佐なら大丈夫よ」
二人をよく知るフレデリカは、アストライアにうなずいて見せた。
「あのふたり、ああ見えてもうちの空戦隊のエースなんだから。周りにいたのもみんな部下だと思うわ。ちゃんと口止めして くれたわよ」
「うん…でも、今回の補給任務ってスパルタニアンの修理交換部品揃える責任者なのよ。気まずいなぁ」
「んん〜。それは仕事だからしかたないわね」
さすがにフォローしようがなく、フレデリカもいっしょにため息をつく。
 しばらくアストライアはグラスに視線を落としていたが、ふいにまたフレデリカを見上げた。
「あのね、フレデリカ…」
「なに?」
「殴ったことが広まるのは…事実だからしかたないけど…」
「けど?」
だんだん消え入るようになった語尾を、フレデリカは問い直した。
「私、力加減せずに思いっきりやっちゃったのよ!」
「うわ――!」
さすがのフレデリカも眉を下げる。日頃はどちらかというとおっとりしているのに、授業となると男子生徒も投げ倒していた アストライアの士官学校時代を思い出したのだ。
「アスティア、接近戦の授業得意だったもんねぇ…」


 同じくその夜。コーネフの私室。
来訪者が、勝手知ったるといった感じでチャイムも鳴らさずに入ってきた。
「やー!コーネフ君。具合どお?」
上機嫌のポプラン。
「おまえさんは良さそうだな」
左頬に白い絆創膏を貼り付けたコーネフが、振り向きもせずに言った。その視界にポプランが回り込む。
「コーネフ君。マデリーン嬢からいろいろ聞いたんだけどさ。レミル大尉は士官学校じゃ有名な才媛だったんだってよ!」
「才媛が人まちがいで殴るのか?しかもいいパンチだったぞ」
絆創膏を指で押さえる。しゃべると切れた口の中がピリッと痛む。反射的に首を右へ傾けたからまともには食らわなかったが、 訓練されてない人間なら脳を揺さぶられて失神してもおかしくない。
「でも、おっちょこちょいなトコがあって歴代主席にはなれなかったんだとさ」
「…だろうな」
楽しそうに話すポプランを睨んだ。
「でも、そんな完璧じゃないとこがかわいいじゃん。ねぇ?」
「かわいい女がグーで人をぶん殴るのかっ!?」
人の気も知らないポプランに、珍しくコーネフが声を荒げる。
「痛てッ」
また痛みがはしって、コーネフは顔をしかめた。
「何言ってんだ。美人に貸し作れたんだから感謝しなきゃ」
その言い方は、まんざら冗談でもなさそうどころか羨ましそうだった。




 自分の率いる第二空戦隊のミーティングを終えたコーネフは、会議室のエリアを抜けて整備倉庫に来た。自分のスパルタニアンから 模擬戦のデータを取っておこうと思ったのだ。
 着いたところは中央が大きな吹き抜けになっている三階で、一階にはずらりとスパルタニアンが並んでいるのが見える。天井の高さから いって、元は艦艇の整備用らしい。
 ぐるりと駐艇場をかこむ通路を歩き、自分のスパルタニアンに近い方の階段から一階に降りようと手すりの端から見下ろした時、ふいに 一階に居る人物が目に入った。
 濃いグリーンの作業用ツナギを着ているが、ヘルメットからのぞく黒髪とほっそりした横顔を見れば、なぜかそれがアストライア・レミル だと分かる。大きなダンボールを足元に置き、手に持った小さめのノートに何か忙しそうに書き込んでいる。
なぜ大尉なのに作業服なんぞ着てるんだろう?コーネフはいぶかしんだ。
 その時、アストライアの後ろから彼のよく知る人物が走り寄って来た。明るい褐色の髪。だれにも真似できない軽い足取り。オリビエ・ ポプランだ。
 ポプランはアストライアの肩をぽんと叩き、はっと顔を上げた彼女に何か話しかけている。遠すぎて何を話しているのかは分からない。
 あの手を使うだろうな、とコーネフは思った。それとほとんど同じタイミングで、ポプランが背をかがめる。聞こえなかったのか、アストライアは え?というようにポプランの方へ耳を傾ける。
 コーネフの予想どおりだ。ふいに小声で話しかけ、相手が自分に耳を寄せてきたところを頬にキスする。気に入った女の子に対するポプランの 常套手段。
 が。今回はそううまくいかなかった。ポプランが今がチャンス!とばかりに顔を寄せた時、アストライアが手に持ったノートを落としたのだ。 ポプランの唇の先に彼女の頬はない。見事な空振り。
 コーネフは思わずぷっと吹き出す。なんてタイミングがいいんだ。
出鼻をくじかれたポプランが、仕方なく笑ってアストライアにまた話しかける。それにつられて、彼女も笑う。
「レミル大尉!」
ふいにすぐ下の階から声がして、アストライアがぱっとこちらを見上げた。コーネフは突然の出来事に一瞬固まる。
やばい、気づかれたかな。どうもバツが悪い気がして、コーネフは頭を引っ込めた。
「足りなかったデフの部品来ましたよ。ありがとう!」
下の階から整備兵らしき声がする。
「待たせてごめんなさい。フィラープラグももうすぐ届くと思います」
「よろしく!」
バタン。下で扉の閉まる音がした。
それと同時に、
「コーネフ少佐―!」
吹き抜けの下からアストライアの声が呼んだ。やっぱり気づかれてたか…。
姿を見られたなら無視するわけにもいかず、コーネフはもとのように手すりのそばへ寄る。
「ああ、レミル大尉」
とりあえず今気づいたふり。こういうのは性に合わないなとつくづく思いながら。
「顎の具合いかがですかー?」
アストライアが手をメガホンのように丸めて問う。コーネフは頬に手をやった。三日前の腫れはほとんど引いて、もうぱっと見は分からなくなっている。
「もう大丈夫だから。気にしなくていい!」
彼が応えると、アストライアはヘルメットのつばを押さえながら二度うなずいた。
「いや、気にしてやって!」
そこへポプランから横やりが入る。
おまえさっきまで彼女の頬にキスしようとしてたくせに…。心の中でコーネフが毒づく。
「口の中が治ったら、メシくらいおごってやったら?レミル大尉」
わざとコーネフにも聞こえるように大きな声で言う。
「あっ。はい」
真面目に答えるアストライア。彼女はまた手でメガホンを作る。
「ぜひお詫びをさせて下さい、コーネフ少佐!」
三階からでも、その琥珀の瞳が真剣なのが分かる。コーネフはポプランにはめられたと分かっていたが、それを無下に断ることができなかった。




 それからさらに三日後。
商業フロアの一角。公園の時計塔の下で、アストライアは佇んでいた。
時刻は7時…6分。約束時間を6分過ぎたところ。
 コーネフをお詫びの食事に誘ったものの、来てくれるかどうか自信はなかった。自分がしたことを考えれば仕方ないが。でも、仕事の上でも接点が ありそうなので、気まずいからと逃げてばかりいられない。
 アストライアはスカートに手をやって、折ジワを伸ばす。ハイネセンから持ってきたわずかな私服は、連日の激務でハンガーに掛けるヒマがなくトランクに しまったままだったのだ。彼女は今日、ラフな格好をしていた。グレーとエンジのチェックシャツに淡いベージュのスカート。膝下のブーツ。
 なんというか、もっとこう女性らしい格好のほうがコーネフ少佐は喜ぶのかな…。
 時計塔の時計が7分を指したのを確認した上で、さらにアストライアは腕時計に目をやった。こちらももちろん7分。
 細かく動く秒針を目で追いながら、何分まで待てば諦めがつくだろうと自分の気持ちを測っていた時、急に彼女は手首をがしっっとすごい勢いで掴まれた。
「!?」
「走れ!」
顔を上げると、フライトジャケット姿のコーネフが彼女の手首を掴んで言葉通り走り出そうとしている。慌てて駆け出すアストライア。
「どーしたんですか!?」
足がもつれないように気をつけつつ訊くと、コーネフはさっと背後を振り返ってまた前へ向き直った。
「ポプランの部下が後をつけて来てんだよ!あんにゃろ、ある事ない事言いふらすつもりだな」
「ええっ」
「おまえさん、詰所の俺の机に待ち合わせのメモなんか貼るなよ!あのお調子者がほっとくわけないだろ!」
「すーみーまーせーんー!」
自分はあやまってばっかりだなぁと思いながら、アストライアは公園のベンチを飛び越えた。
「とにかく、追っ手を巻くぞ!」
コーネフは作戦会議の時くらい真剣な面持ちで言った。
 ヤツの酒のつまみにされてたまるかよ!




『こちら“カーデュー”。ターゲットの姿は第12区にもありません』
「了解」
『こちら“モーレンジ”。第8区も同じくです』
「了解」
『こちら“エドラダワー”。第17区も同じくです。完全に見失いました』
「り、了解」
通信機の通話スイッチから指を離して、ポプランはそれをテーブルに転がした。
彼は作戦本部としてバー”サーバルキャット"に陣取っているのだ。部下に通信機を持たせて仕事上がりのコーネフの後をつけさせたが、どうやら勘付かれた ようだった。商業エリアの飲食街のどこにも彼らの姿はない。
「ああ、くそっ。コーネフのヤツどこに行きやがった!あの堅物がアストライア嬢の肩を抱いてる写真でも撮って、ばら撒いてやろうと思ってたのに〜!」
悔しそうにグラスのウイスキーを煽るポプランの背後のカウンターで、”サーバルキャット"のマスターは意味深な笑みを浮かべつつグラスを磨いていた。




 その頃。一日の作業を終えて静まり返るスパルタニアン格納庫を、ふたつの影が歩いていた。
スパイ映画さながらにポプランの追っ手を巻いたコーネフとアストライアである。
「よし。ここなら大丈夫だな」
コーネフはやっと立ち止まった。壁には『U』と大きく書かれ、見上げるような大きさのスパルタニアンがきっちりと方向を揃えて駐めてある。アストライアの 目の前には、艇身に大きくクラブのマークが描かれた機体があった。眠っているようにひっそりとして見える。
「これが…コーネフ少佐の?」
隅に置いた大きな軍専用納品ケースの中を、ガサガサと何か探しているコーネフに訊く。
「ん?…ああ。そうだよ。俺のスパルタニアン」
ちょっと自分の機体を見上げて彼が答えた。
クラブのエース。その名をアストライアもよく知っている。だからこそマデリーンが口にした名を間違えたのだ。あまりにも彼が有名だったから。
「あった」
そう言って、コーネフはアストライアのそばまで戻ってきた。手には真新しい樹脂のシートを持っている。それをコンクリートの床に広げて、すとんと腰を下ろし、 肩に斜めがけにしていたバッグを取った。
「座れば?」
ぼうっとスパルタニアンを見上げていたアストライアははっと我に返り、素直にコーネフの隣に腰を下ろした。しかし彼が何をするつもりなのかよく分からない。 この状況はピクニックそっくりだけど…。
「ほら」
コーネフがバッグから片手では余るくらいの紙包みを取り出してアストライアに渡す。彼女が反射的に受け取ると、それはほんわかと温かかった。
「これは?」
自分も同じ包みを手にとったコーネフに訊くと、彼はピリリと包みの中ほどにあったテープを剥いだ。
「ポプランのヤツが何か企んでるのはわかったから、昼間のうちに”サーバルキャット"のマスターに頼んどいたんだ。マスターの特製ホットサンド。 あの人元は料理人だから、サンド作らせても旨い」
彼が言い終わるかどうかのうちに、ふわっと香ばしい良い香りがアストライアの方までただよって来た。
「でも、今日は私がお詫びに食事を…」
彼女がいいかけた時、
「うわっ。走りすぎたなこりゃ。具がバラバラにずれてる」
コーネフは包みの中をのぞきこんでぎょっとする。しかしそれほど気にするふうもなく、包み紙をうまく避けてがぶっとサンドにかみつく。
「だから私が…うわっ」
なおもアストライアが言いかけると、コーネフは口をもぐもぐさせながら包みをさっと膝に置き、バッグの中から水筒型コーヒーポットを出して彼女に投げた。 アストライアは包みを両手で持ったまま、何と腕二本の間でキャッチする。
「おみごと」
「コーネフ少佐!」
包みとポットを膝に下ろしてコーネフに抗議すると、彼はまた一口かみついたところだった。
「この前も、もう気にしなくていいって言ったろ」
淡々と言う。全くもってその言葉に他意はなさそうだった。暗に恩を着せるふうでもなく、無理をしてるふうでもなく。
「はい…ありがとうございます」
アストライアはそう言うしかない。これ以上ごちゃごちゃ言えば、彼女のほうが執念深いみたいだ。
「食えば?旨いし」
コーネフは親指で彼女の膝の上の包みを差す。アストライアはなんだか嬉しいような残念なような不思議な気持ちにとまどいながら、まず水筒に手を伸ばした。 喉がカラカラだった。
 密閉のふたを取り、スライド式の内ぶたをずらして、小さいほうの飲み口に唇をつける。反対側の大きいほうの飲み口はコーネフが使うだろうと思ったから。
 こくんと一口飲んでアストライアはすぐ口を離した。そして小さく笑う。
どうしたんだという顔でこちらを見たコーネフに、彼女は水筒を差し出した。
「走りすぎて、こっちはカプチーノになっちゃってます」




 いざ仕事の関係というだけになってしまうと、コーネフとアストライアに接点はそれほどなかった。彼らにポプランのような積極性の1%でもあれば話は 違っていただろうが…。

 それでもコーネフは一度だけ、彼女を見た。
ある日アストライアは整備場の一角で、部下を集めて検品のチェック項目と不良品の取り扱いを説明していた。前にも見た濃緑のツナギ姿にヘルメット。 空気清浄機が完備されたオフィスに閉じこもっていないで、いつも人手不足を補おうと自ら現場に出てくるのだと人づてに聞いた。だからこそ体に合わない 装備で子供のように見えても、彼女の説明を聞いている部下たちの表情が真剣なのだろう。

 アストライアも一度だけ、彼を見た。
遠くからだったので正確ではないが、スパルタニアンの模擬戦を終えて外から帰って来たばかりのようだった。パイロットスーツを着て、クラブのマークの 入ったヘルメットを片手に抱えている。若い部下が敵と遭遇した場合の対策を訊いているのか、両手でしきりに位置を示していた。それをコーネフは うなずきながら聞いていたが、ぱっぱっと部下の手の間を何か言いながら指差す。その瞬間、部下がきまり悪そうに笑った。するとコーネフはしっかりしろ という感じで、部下の額の髪を手でぐしゃっと崩したのだった。信頼、尊敬。そういう形のないものが目に見えた気がした。




 イゼルローンの部品倉庫はコーネフのお気に入りの場所だった。いつも人気がなくひんやりとして、かすかな機械油の香りがただよっている。
 ボルトやハブなど細かい部品をしまっておく棚の一角に、ぽかんと空いている2メートル四方の棚があり、そこに腰掛けてクロスワードを解くのが何よりの 息抜きになるのだ。
 今日も模擬戦で部下を鍛えたコーネフは、ミーティングを終えてそこに陣取っていた。
 カタン。カチ、カチ、カチ、カチ…
月刊パズル誌付録の特大クロスワードに長い時間熱中していたコーネフが、定期的に聞こえてくる物音に気が付いてペンを止めた。
 棚の中から首だけを伸ばして、音のした通路側をのぞく。二メートルほど横の棚の下段に向かって、見慣れたツナギを着たアストライアが跪いていた。 手にはチェックリストのボードとレーザーペン。また検品を手伝っているようだ。ギアの部品を数えるのに熱心で、隣の棚に腰掛けたコーネフには全く気が ついていない。
「45、46…っと。第六オルタネータワイヤー46本チェック」
新人のように口に出して確認しながら、入力画面をペンでなぞる。ピッと確認アラームが応えた。
「レミル大尉!」
ちょっと大きめの声で呼んでみる。
「うわぁぁっ!コーネフ少佐!?」
ふいに声をかけられたアストライアは、体をびくっとさせた拍子に尻もちをつく。頭を前に振ったので、ヘルメットがずれて目の前が真っ暗になった。 あわててひさしを持って上げる。
「何で部品倉庫でもヘルメット被ってんの?」
驚かせた事を詫びるでもなくコーネフが問うと、アストライアが口を尖らせた。
「上官が『お前は運が悪いから何か大きなものが上から落ちてくるかもしれない。ヘルメットは常に被っていろ』って真剣に言うんです…」
「あはははは。そんな気がするなぁ」
コーネフが笑顔全開で笑った。アストライアはそれに驚く。こんな風に笑う人なんだ…。それは彼女の上官のおかげだったが、とても嬉しくなった。
「おひさしぶりですね」
「そうだな。おつかれさん」
アストライアが立ち上がって言うと、コーネフは持っていたペンを置いて軽く敬礼してくれた。
「なにしてたんですか?」
彼が手に持ったままの雑誌に目をやる。
「クロスワード」
「ああ、そういえば最初にお会いした時も持ってましたね。お好きなんですか?」
「これがスパルタニアン操縦以外の、唯一の趣味で」
コーネフが雑誌をアストライアの方に掲げてみせる。それはもう表紙の端がくたっとしていた。
「ずいぶんかけ離れた趣味ですね…」
感心したのかどうか微妙な表情でアストライアはその表紙をじっと見る。その時、コーネフははっとある事を思い出した。
「そうだ。ひとつ解けないとこがあって…」
雑誌を膝に置いて、ぱらぱらとページをめくる。上隅を三角に折っていた所を見つけて指で止めた。
「なんでしょ?」
アストライアも背を伸ばして覗き込む。
「『女性が肩に巻くもの。毛皮で作られることが多い』で、五文字。二文字目が"I"最後が"T"。…見当もつかないんですよ」
わざとコーネフは丁寧に訊いた。アストライアはよろしい、というようにうなずく。
「"TIPET"ですね。肩紐のないドレスを着た時に、アクセサリー代わりに巻くんです」
そう言って彼女は、両手を肩に回す動作をした。
「そんなの分かるはずもないな…お。そうなると後が続けられそうだ。ありがとう」
残りのマスを確認しながら、コーネフが礼を言う。
「どういたしまして」
アストライアはぺこりとして、また隣の棚まで戻ってチェックリストのボードを持ち、床に膝をついた。さっきと同じように一度ボルトの 部品に手を伸ばしたが、ふっと引いてまた立ち上がる。
そして、コーネフの前に戻って来た。その気配に気づいて、彼も顔を上げる。
「コーネフ少佐は、どうしてスパルタニアンのパイロットに?」
格納庫に行った時から訊きたかった事を、なるべく深刻にならないように言ってみた。
「……イワンで、いいよ」
なにげなく、コーネフがつぶやいた。アストライアの頬が、かすかに赤くなる。それをちょっと笑って見てから、彼はクロスワードとペンを 傍らに置いた。
「なんでかな…」
額の上にのせていた防護ゴーグルも外して本の上にのせる。コーネフは一度天井を見上げ、壁に背中をあずけた。ちいさなため息をひとつ。
「俺はさ、小さい頃から割と器用で、スポーツとか何でもそれなりに出来たんだ。でもそれは…人よりすごく優れたところがないって事でもあって…」
少し遠い目をしている、とアストライアは思った。瞳がいつもより深い青を帯びている。
「だから、中等学校まで自分がどんな仕事をしたいかとか全く考えられなかった。でも、二年次の職業適性のテストでスパルタニアンの模擬マシンに 乗った時、担当の先生が“才能がある”ってすごく褒めてくれて…それが嬉しかった」
「だから飛行学校に入ったんですか?」
「…うん。まぁ、そんな感じだな」
珍しく自分の事をたくさん話したのが照れくさいのか、コーネフは右手を額に当ててうつむいた。それを見たアストライアはほほえんで首をかしげ、 彼の青い瞳をのぞきこむ。
「いい先生ですね。コーネフ少佐、いや、わが軍の恩人ですよ」
小さな顔に似合わないごついヘルメットを被った、少女のようないたずらっぽい笑顔がコーネフの目の前にある。彼はその笑顔をじっと見つめてから、 彼女のヘルメットのゆるいあご紐を手で掴んだ。
「…イワンでいいってば」
あご紐をぐっと引かれたので、アストライアはそのキスを拒むことができなかった。
 唇が軽くふれて、離れるだけの軽いキス。あご紐を離されたアストライアは、自分の顔が真っ赤になるのを自覚する。
「突然すぎですよ…イワン!」
彼女の抗議に、犯人はふふん、といった風情で眉を上げてみせた。余裕の表情。さっきまで照れてたくせに、とくやしまぎれにアストライアは思った。
「こういうのはポプラン少佐の専売特許じゃないですか!だいたい心の準備ってものが〜!」
真っ赤な顔でにらむアストライアのヘルメットの後頭部を、コーネフが手でぽんっと軽く。またヘルメットが前にずれて、彼女の視界は真っ暗になった。
「のわっっ」
「うるさいよ、アスティア」
その慌てた様子がおかしくて、コーネフはボードを抱えたままもがくアストライアを抱き寄せた。



T:あわてんぼうの女神 おわり









   わたしはヘタしたら本編よりも「外伝2 ユリアンのイゼルローン日記」が好きなヤツなので、ああいう明るいヤン・ファミリーが書ければなぁと 思ってこの『古き良きイゼルローンで』を始め、最初は一番好きなコーネフにしました。
この話の元はとても古くて、実は銀英伝に関する創作小説では一番昔に書いた物だったりします。話の流れなんかはずいぶん変わっているものの、 やはり感慨深いです…。アスティアは文武両道・才色兼備のはずが、すこーんとどこか抜けてるので書いてて楽しかったです。彼女は今後も このシリーズに出てくる予定ですので、気に入っていただけるとうれしいです。肝心のコーネフは別人になってしまったような気もしますが(苦笑)、 少しはクロスワード以外のしあわせも見つけてほしくて、こんな感じに…。許してください〜〜。