はじまりのない終わり




 愚かだなと、分かっている。
 恋してはならない人を好きになる悪い癖。
帝国元帥ナイトハルト・ミュラーは、心の中で誰にともなく弁解した。
 ハイネセンは曇天。今にも雨粒がタクシーの窓をたたきそうだ。窓外を流れる街並みに目をやりながら、明日は 晴れるといいが…と彼は案じた。
 明日はヤン・ウェンリーを郊外の墓地へ埋葬するのだ。シヴァ星域会戦より二年半あまり。ヤン未亡人とユリアン・ ミンツのひそかな願いがやっと叶えられる。大げさなことを嫌う二人は、ごく親しい人だけを招いてささやかな儀式を するようだった。
 それに、彼は招かれている。もちろん非公式に。
 なぜ彼らが自分をそんなにも“買って”くれているのか、ミュラーにはよく分からない。敵として相対したことのある 相手だ。わだかまりがあって当然だと思う。しかし彼らは他の元帥達に失敬ではない程度の壁を造る一方で、 ミュラーには旧知の友人のように接するのだった。
 その理由を、ユリアンに問うたことがある。
「人徳ですよ、ミュラー提督。ヤン・ウェンリーは…あなたの事を良将だと言っていました」
人徳…と言われてもますます分からなかった。自分より人徳のある人物は他にもたくさん居るのに。
とにかく、戦場以外でもいがみ合うよりよほどいい。そう思ってミュラーは、深く追求するのを止めた。
 ゆるく結んだ紐のように、ミュラーと彼らとの交流は続いていた。
 無人タクシーが、ホテル「ホルマルド」の前に静かに止まる。ミュラーはカードを差し込んで料金を払い、エントランスの 前に立った。
 特に高級でもない、こぢんまりとした石造りのホテル。ここに、フレデリカ・グリーンヒル・ヤンが居る。明日、儀式が 終わってから催される食事会の打ち合せに来ているのだ。彼女に用があると連絡すると、秘書官が教えてくれた。
 ミュラーは、小さな嘘をついた。彼は秘書官に「では明日お会いした時でけっこうです」と言って取り次ぎを断ったのだ。 そして…私服に着替え、ここへ来た。自分でもよく分からないままに。
 回転扉を抜け、ホールに入る。清潔さに気を配った、木の椅子が並ぶシンプルな小さいカフェには、中途半端な 時間にしては多くの客が居た。奥には、泊まり客のためのフロントがある。そこでミュラーは立ち止まった。さて、 どうするべきか。ここまで来たのはいいが、ミセス・ヤンの居場所までは分からない。彼女がどの部屋にいるのかを 聞き出すためには、名乗らなければならないだろう。彼女は現在でも自治政府の重要人物だ。ある程度の警戒は されているはずだった。正体不明の人物に部屋を教えるとは思えない。
 しかし、名乗ってよいものか…。
 その影響を考えると、ミュラーは逡巡した。
「カフェで、出てくるのを待つかな…」
帝国元帥にあるまじき思いつきをした時、ふいにだれかに肩を軽くたたかれた。
「ミュラー元帥?」
 振り返ると、目当ての人物が彼の後ろに立っていた。淡いグレーのブラウスに黒のロングスカート。“ヤン未亡人”。 今でも多くの人が彼女をそう呼ぶ。
「ああ、やっぱり。ずいぶん似ている方がいらっしゃるんだなあと驚きました。どうしてここへ?」
ヘイゼルの瞳がほほえみながら問う。
「…カフェで、コーヒーをと思って…」
とっさに出た嘘は、とんでもなく説得力に欠けるものだった。「こんなところまで?」とさらに問われたら続けられない。
「まぁ。ミュラー元帥もここのカフェをご存じでしたか。ここのコーヒーは絶品ですものね」
納得、という風にフレデリカがうなずく。ミュラーは幸運な巡り合わせに、冷や汗をかきつつ感謝した。
「それでしたら、最上階のホールにいらっしゃいませんか?今日はこちらで明日の打合せをしているのですが、あの カフェからポットでコーヒーを運んでもらっていますので」
その誘いを、ミュラーは喜んで受けた。



 最上階のホールは想像していたより小さく、宿泊用の部屋の仕切をなくしたほどの広さだった。明日は本当に ささやかな催しにするようだ。
 フレデリカはミュラーを窓辺の椅子に案内し、自らポットを手に取ってコーヒー二人分を準備した。ホールには 白いクロスの掛けられたテーブルセットが五つ置いてあるだけで、他に人はいない。
「打合せは終わったのですか?」
ミュラーが訊くと、銀盆でティーセットを持ってきたフレデリカはうなずいた。
「最後に外部の警備の方と打合せをして、見送ったところでしたの」
「そうですか」
カップを置いたフレデリカが、ミュラーの向かいの椅子へ腰を下ろす。
「…髪を、お切りになったんですね」
今日、一階で声をかけられた時から気づいていたことをミュラーは言った。
「はい。これですこし区切りがつきますので…」
耳へ手をやりながら、フレデリカが答える。三月ほど前にヴィジホンで話した時、捩って後ろでまとめていた彼女の 金褐色の髪は、肩に届くか届かないかというくらいに短くなっていた。
 そう、最初に出会った時と同じに。
あれはもう三年も前。絶望と悲哀につつまれたイゼルローン。ユリアン・ミンツに案内された部屋に、彼女は立って いた。扉がスライドするのと同時に目が合う。かすかに潤むヘイゼルの瞳。泣いた跡を隠しきれていない目元。 気持ちを支えるように引き結ばれた唇。死者を悼む黒い服さえ、彼女の美しさを引き立たせる。
 ミュラーは、胸を衝かれた。自分が帝国の正式な使節であるとか、彼女がヤンの妻であるとか、一瞬そんなことは すべて頭の中から消えたほど。
 ほほえんだところが見たい。
 切実にそう思った。
「遅くなって、申し訳ありません。もっと早く墓地が見つかればよかったのですが」
思い出に縛られる胸の内を見透かされるのが嫌で、ミュラーは視線を落とした。
 その視界に、フレデリカの細い指が入ってくる。彼女はテーブルの上に組んだミュラーの手に、かすかに触れる くらいそっと自分の手を置いた。
「どうぞ、お気になさらないで下さい。元帥はわたしたちのために十分お骨折り下さいました。わたしもユリアンも、 とても感謝しています」
言い終わって手を引く。その手を握って留めたい衝動を、ミュラーは抑えた。
「ヤン・ウェンリーも喜んでいると思います」
顔を上げると、フレデリカが目を細めていた。
 そんなに感謝しないで欲しい、とミュラーは後ろめたく思った。ごく親切な気持ちとして、ヤンをハイネセンへ葬る ことに難色をしめす役人達を説得し、彼らの望みのために行動してきた。表向きは。でもそれが本当は彼女に 会いたいためだなどと知ったら、何と言われることか…。
 その邪さを責められるならまだ楽だ。しかし彼女はきっとしない。困ったようにほほえんで、今後一切彼をやん わりと避け続けることだろう。そのほうが…倍もつらいに決まっている。
「そうですか…微力ながら、お役に立てたなら良かったです」
満足したように、ミュラーはほほえみ返した。
 放っておいてしまったカップをソーサーから取り、口へ運ぶ。酸味の少ないほどよい苦さのコーヒーが素直に 美味しい。フレデリカもやっと、カップを取り上げた。
「今日、ヘル・ミンツはどうされたんですか?」
しばらくして、ミュラーが問う。自らも自治政府のトップのひとりでありながら、彼女を護衛するように付き添っている 青年の姿が今日は見えない。
「ユリアンは、ラスタ地区の方で役人同士が揉めているとかで、急に出かけて行きました」
フレデリカの眉が、やれやれというように下がる。自治政府の内部もまだ落ち着かない。
「そうですか。彼なら大丈夫でしょう。揉めごとを抑える天才のようですから」
ふたり同時に笑う。激することなくいつでも冷静なユリアンは、よくそういう場に駆り出されているのだ。
「本当は…ユリアンを自由にしてやりたいんです」
ふいに唇から笑みを消して、フレデリカは小さく言った。カップを置いて、それを見つめる。
「あの子は、人生で一番自由に楽しく暮らせる時をずっと戦場で過ごしてきましたから…好きなように生きて、 恋をして、幸せになってほしいと願うのですが…」
「時代が、それを許しませんね」
口ごもったフレデリカの後を、ミュラーは続けた。
21歳の若さで、指導者として立つ青年。その重圧につぶされることなく、精力的に責務を果たしている。自分に 甘えを許さない姿勢は、はるかに年上の政治家にも受けがいい。しかしそう在ることに、見えないところでどれ だけ努力していることか。
「はい…それがつらいところです」
うつむいたまま、フレデリカが唇に指をあてる。彼女の悩みはつきないようだ。
 しかしその憂い顔も、ミュラーにはまぶしく映る。淡く桜色の紅を引いた唇を見つめてしまう。
 彼女の唇は、どんなふうに自分を呼ぶだろう。“ナイトハルト”と…
 今のミュラーは、普段の彼を評する常識的だとか温和だとかの言葉から最も遠い位置に居た。さっき後ろめたく 思った反動か、秘めた想いを熱が急に侵蝕する。
「あなたはどうなんですか?」
強い口調にならないよう、問うた。
「え?」
フレデリカが顔を上げる。
「あなたも若いです。あなたはもう、誰かに恋をして幸せに生きることはないのですか?」
言い終わった瞬間、後悔の烈風が彼の熱情を一気に冷ました。
 今までずっと忍んで来て、なぜいまさらこんなところで馬鹿な事を訊くんだ!こんな事を訊くのは、彼女に恋を していると白状したのと全く同じだ!
 自分に悪態をついても遅い。
思いもかけないことを問われたという感じで、フレデリカはヘイゼルの瞳を丸くした。別人を見るように、まじまじと ミュラーをみつめている。
 敵に囲まれた時でさえ感じなかった怖さ。この場から逃げたい、と彼は逼迫して思った。
 ふいに、フレデリカがほほえんだ。
それは、これまでミュラーが見た中で最も美しいほほえみだった。
「ミュラー元帥。わたしは死にました」
しかし唇から出たのは似つかわしくない言葉。
「…え?」
意味が分からず、今度はミュラーがとまどう。
「今、あなたの前に居るのは骸にすぎません。わたしの心は…あの日、レダUの艦内で死にました。あの人と いっしょに…」
静かに、フレデリカが言った。
「つらくはないんです。あの人が遺して、わたしに預けてくれたすべてのものが大切だから。ただそれを護るために 今のわたしが在ります。それが十分にわたしの幸せです」
その言葉が強がりでない証明のように、彼女は美しくほほえんだままだった。
 ミュラーは何も言えない。
この世を去ってなお、彼の前にヤン・ウェンリーが立ちふさがる。彼が恋う女性の心を永遠へとさらって。
『私は貴方にこそ宇宙のこちら側に生まれていただきたかった…』
聞き覚えのある声が、彼の記憶から蘇ってくる。
 完膚無きまでに彼と彼の上役の艦隊を叩きのめした男。会えば、激昂して銃を向けてしまうかもしれないとまで 危惧した彼の憎悪を、出会った瞬間になぜかその茫洋とした風貌で中和してしまった男…。
ああそうだ、俺はあの男を嫌いになれなかったんだった。
 あらためて、ミュラーは思い知らされた。だとしたら、自分がフレデリカに魅了されたのも、死せる魔術師の深謀なの かもしれない…。
 人が悪いぞ。
ほとんど言いがかりのようにミュラーは胸の内でつぶやき、
「ああこれは失礼しました。お節介な性分でどうしようもありませんね」
と、冗談で済ませられる最後の線に踏みとどまって言った。
「いえ。ご心配ありがとうございます。自治政府にはわたしがより働くようけしかける人はいても、心配してくれる人は なかなかいませんの」
片眉をすこし上げて、フレデリカが冗談で返してくれる。ミュラーは内心胸をなでおろした。
 またカップに手を伸ばし、口をつける。繊細な造りのカップにちょうど一口分、彼の焦った喉を潤すに足るコーヒーが 残っていた。それをぐっと飲み干す。そしてソーサーに戻すと、ミュラーは立ち上がった。
「それでは、そろそろ失礼させていただきます」
「あ…はい」
フレデリカも椅子を立つ。
「明日は直接、墓地のほうへ参りますので」
ミュラーが軽く会釈をすると、フレデリカはぺこりと頭を下げた。
「よろしくお願いします」
そして起こした彼女の顔に、ふっと光が一条差した。ふたりとも窓の外へ視線を送る。さっきまでの重苦しい曇の連なりが 薄れ、そこから太陽が少し顔をのぞかせたのだった。
「明日は、晴れるとよいですね」
ミュラーがまぶしさに目を細めて言う。
「ええ。きっと晴れると思いますわ。お天気の良い日が好きな人でしたから」
すこし遠い目をして、フレデリカが明るい声で言った。



 ホテルの回転扉を抜けると、外はすこし人通りが増えていた。ミュラーはいったん立ち止まり、空を見上げた。もうすぐ 夕刻になる。先ほどの太陽の光が、雲を茜色に染め上げることだろう。
「わたしは死にました」
胸の中で、先ほどのフレデリカの言葉を反芻する。そしてあの美しいほほえみ。
 これであきらめられる、と彼は思った。
ちいさな想いだと決めつけて胸にしまっていた。でも今それを断ち切られて、想いの大きさに気がつかずにはいられない。
戦場で受けたどんな傷よりもその切り傷が痛む。
 愚かだなと、分かっている。
 恋してはならない人を好きになる悪い癖。
 ミュラーは一度奥歯を噛みしめてから視線を前に向け、ポケットに両手を入れた。
そして一歩、踏み出した。









 これから書くミュラーのお話のプロローグ部分として書きました。
うううう〜〜ん。ミュラーがちょっと青すぎですね…。妄想全開?
ミュラーも好きなのに、なんでこんなふうになってしまうのか。ミュラー好きな方多いから怒られそう!あうっ。
 どうにもこうにも「ヤン夫人は美しい女性でしたよ…」というあの一言が忘れられず。なんで訊かれてもないのにそんな事 言うのかしら…さては一目ボレ?とか勝手に想像していたので、そういう設定で書いてます。でもあっさりかわされたので ”はじまりのない終わり”で。ちょっとかわいそう過ぎるタイトルでしょうか。
その分、次のお話ではがんばります!