"Hagen"



  ガシュン!ガシュン!
ブラスター独特の空気を裂くような発射音が、無骨な部屋に短く谺する。
扉を開け、射撃場に入って来たばかりのキスリングは、ひとり標的に向かう人物へ目をやった。
真っ直ぐに伸びる腕と背すじ。しなやかな体つきで、女性ということだけは判る。
透けるようなプラチナブロンドが印象的だ。その前髪は長く垂らされ、表情はよく見えない。ただ、白いシャツを着た肩には射撃手特有の筋肉がついているから、銃は撃ち慣れているのだろう。
 しかも、上級者だな。
キスリングは識別した。
 普通の人間は銃を撃つ際、無意識に反動を恐れる。だから、引き金を引く瞬間にどうしても銃身を下げてしまう。その恐れが、彼女にはない。
ガシュン!ガシュン!
次の二発は、的の心臓部分を正確に撃ち抜いた。
女はゆっくりと腕を下げ、左脇に下げたホルスターへ銃を収める。そして、背後に置いた椅子に掛けた上着を羽織った。もう帰るようだ。
彼女とは逆に上着を脱いだキスリングは、ドアに向かう女とすれ違いざま一瞬だけ視線が合った。左目は前髪で覆われている。右の灰緑の瞳は黒く澱む影を帯びて妖しく、彼の本能が理性に警告を与える。
 危険、だ。あれは本物の「戦い」を知る目だ。
軍専用のこの施設に紛れ込んだ見知らぬ人物。キスリングは誰何しようと振り返ったが、女は既にドアの外へと消えていた。




 キスリングは警備兵に目礼をし、帝国の重鎮でも限られた人々にしか入ることが許されないエリアへと踏み込む。
むろん、ローエングラム一世の死後も引き続き幼帝二世の親衛隊長を務める彼には、通行が許されている。
濃赤の絨毯の毛足は長く、キスリングの靴裏の感覚が変わった。むろん、足音はしない。
本人は「意識して足音を消しているわけではない」と弁明するのだが、結局「では習性のようなものなのか。さすがだな」などとかえって納得されるのだった。
重厚なドアの前に着いたキスリングは、襟元を正した。
ここは、ローエングラム王朝の実質的な最高権力者・ヒルデガルド皇太后の私室の前だ。今朝、直々に呼び出しの連絡を受けた。 「話がある」とのことだが、アレク陛下に関することなのだろうか。私室に呼ばれること自体が珍しいのも相まって、キスリングは多少の緊張を余儀なくされていた。
ノックをして部屋に入ると、部屋の中には既に一人の姿があった。
彼に背を向ける形で、ヒルダと対面している。
黒地に銀の肩章。帝国軍の制服。それも、自分と同じ近衛兵のもの。髪は……見覚えのある短いプラチナブロンド。
 ―――まさか。
その動揺を顔には出さず、隣に並ぶ。
「ご苦労さまですね、キスリング」
執務室よりは幾分かリラックスした表情でヒルダが迎えた。キスリングはそれに敬礼で応える。
「お話がお有りとのことですが…」
「ええ。そうなの。私の警備のことなのだけれど、個人的にひとり増やしたいと思って」
「行き届かぬ点がございましたか?」
私室に呼ばれるなら叱責であろう、と彼は思ったのだ。だが、ヒルダは首を振る。
「いいえ。そうではありません。ただ、同じ女性が傍に居てくれると、何かと助かると思っただけなの」
そして、片手をキスリングの隣の人物へと向ける。彼女がそうだ、ということなのだろうか。
あらためてキスリングは隣を向く。と、その人物は右手をさっと挙げ、額につけて敬礼する。
「グレタ・サトバルト中尉です。キスリング少将」
女性としては少し低めの声で名乗った。
やはり、昨日射撃場で見た女だった。軍服を隙なく着こなしている。細い頤に無骨な襟が妙に艶かしい。今日も左目は髪に隠れて見えない。キスリングはヒルダの手前、平静に敬礼を返す。
「ご要望は分りました。しかし、親衛隊員は厳重な身元の審査が必要なのです」
再びキスリングはヒルダに向き直った。
幼い皇帝や皇太后を警護する親衛隊員に不逞の輩が紛れ込んでいては本末転倒だ。それゆえ、隊員の選抜には細心の注意が払われる。
「サトバルト中尉の身元は、私が保証します。心配要りません」
きっぱりとヒルダが言った。強くはないが、異論は挟ませないという意思が感じられる。
「…わかりました」
逆らうわけにはいかないキスリングは、会釈して引き下がった。
「それでは、サトバルト中尉。これからは私の警護をよろしくお願いしますね」
「はい。及ばずながら、務めさせていただきます」
もう一度敬礼して、グレタは答える。軍靴の踵がカチリと小さく鳴った。




 親衛隊は、軍服や銃の違いで一般兵とは区別される。
それらを貸与する為、キスリングはグレタを従えて装備廠へと向かっていた。
本部に戻り、副官に任せることもできた。だが、キスリングはグレタに何か得体の知れないものを感じ、自ら足を運ぶことにしたのだ。
彼女は寡黙な性格らしい。廊下を通り、いくつかのセキュリティチェックを抜ける間、まったく口は開かなかった。ただキスリングの半歩後ろをついてくるだけ。彼と同じように、足音はたてずに。
「銃の腕は確かなようだな」
最初に口を開いたのはキスリングの方だった。さすがに不自然な気がしたからだ。
「……ご挨拶もせず、申し訳ありません」
答えとは違う詫びが返ってくる。
「見覚えのない顔だが、どこの部隊に所属していた?」
今度はごまかせないように問う。上司から新任の部下への真っ当な質問。
が、グレタは答えなかった。いつまで経っても。
思わず、キスリングは足を止めて振り返る。ちょうど、長い通路の中ほどで。
「言えないのか」
やや、語気が荒くなったのを自覚する。
グレタは、わずかに目を伏せていた。睫毛さえプラチナブロンドで、それが開け放たれた窓から差し込む陽光に透ける。彼女は上司の態度に、驚いても怯えてもいない。
「…私を警戒していらっしゃる」
静かな口調で、グレタは言った。
「そうだ。いくら皇太后陛下が保障して下さると言っても、な」
「なぜですか」
彼女の視線が上がる。琥珀の瞳と灰緑の瞳が互いを映す。
キスリングは顎を引き、さらに表情を厳しくした。
「おまえからは、血の匂いがする」
最初に射撃場で見かけた時から感じていた、血の色濃い気配。死の泥濘に身を浸したことのある者のみが持つ、独特の匂いだ。彼にはそれが判る。己もまた、同じだから。
 二年前、旗艦ブリュンヒルトで繰り広げられた死闘が視界に重なる。
イゼルローン革命軍の兵士と戦った。ほぼ互角とみた相手。
床に転がった時、そこに溜まっていた血はまだあたたかかった。もしスピーカーから戦闘中止の放送が流れなかったら、1分後には自分かその兵士かが、床に新たな死の血だまりを作っていたことだろう。
グレタは凍りついたように動かない。ただ、瞳だけがわずかに見開かれている。
「おまえは、何者だ」
「……正直に言えば、警戒を解いて下さいますか」
暫しの逡巡をはさんで、やっと彼女は口を開いた。
「その答えが真に偽りでないなら」
キスリングは、視線を外さず答える。嘘を見抜く自信はあった。誰よりも洞察力を必要とする任務だ。
グレタが、小さく唾を飲む。喉が動く。
「旧帝国軍で"ハーゲン"に所属していました。私は……その、死にぞこないです」
その声が、初めて動揺をみせてふるえた。




 夜の執務室は、しんと静まり返っている。
副官も秘書官も帰宅し、ひとりになった部屋で、キスリングは机上のディスプレイ画面に視線を注いでいた。
将官以外の閲覧が許されない極秘資料。最高機密を意味するセキュリティのバナーが淡く光を放つ。夕刻、自ら軍務省の司令部に出向いてパスワードを入手したものだ。
"ハーゲン"。
北欧神話の英雄ジークフリートを騙し討ちにし、自らも瀕死のジークフリートに斬られて死んだ裏切り者。
グレタの発した単語は、キスリングでさえ詳細を知らない、旧帝国時代の極秘作戦名だった。
当時のローエングラム公が起こしたクーデターの混乱で、その資料のほとんどは失われた。というより、旧帝国軍首脳が意図的に破棄した痕跡さえ見受けられる。
結局残ったのは、その作戦が自由惑星同盟への潜入任務であったこと、携わったのがわずか数名のみであること程度だ。
この件に関しては、故オーベルシュタイン軍務尚書も興味を示していたらしく、後に散逸した情報の再検分が行われていた。それが、資料の後半に挿入してある。

『この作戦に関しては、肉親が自由惑星同盟へ亡命を遂げた者に対して、懲罰の意味合いが濃かったと推察される。
該当者から、肉体的・精神的に適するものを選抜し、帝国への忠誠を誓わせ、より困難な任務へと追い込んだ。
中には基地の内部構造等、有用な情報の送信に成功した者もいたようだが、潜入先からの帰還者は未だ一人も確認されていない。』

その、未確認の帰還者がグレタということになる。
潜入任務……。あの微動だにしない正確な射撃は、敵地で磨かれたものだったのだ。
うなずける気もした。それゆえに染みついた、血の匂いなのだろう。

グレタ・サトバルト。おまえも、見たのか。
いっそ死ねれば楽だと思うほどの、凄惨な戦場を……。




 親衛隊の任務は、過酷だ。
護るべき相手は、けっして代わりの利かない国主達。一瞬とて、気の休まる暇はない。
ひとたび大事が起これば、銃弾に身をさらす。「敵」の前に身をさらすのではない。「銃弾」の前に身をさらすのだ。
グレタは、優秀な近衛兵だった。
公務に忙しいヒルダの傍で、気配を殺し、周囲の警戒は怠らない。
女性同士ということもあり、カバーできる範囲が広いのも強みだ。ヒルダも彼女に気を許している様子で、皇太后付きの警備はぐっと精度が上がった。
キスリングは今まで、皇太后の為に女性親衛隊員を考案しなかったわけではない。何度か軍内で募集も行い、実際に審査したこともあるが、親衛隊の水準に足る適当な人材は見つからなかった。
元来、帝国軍にはごく限られた職務の事務官以外、女性が入隊する慣例がないのだから仕方ないのかもしれない。
まさか、皇太后自らがその人材を見つけてくるとは……。
しかも、彼女は旧帝国軍の暗部ともいえる部署にいたのだ。いったいヒルダとグレタの間に、どんな関係があるというのだろうか。
複雑な思いで、キスリングはグレタの仕事ぶりを注視していた。
寡黙で自己主張を抑えた彼女は、あまり女性を感じさせなかった。この部署では、何よりも実力が重視されることを知っているようだ。
キスリングと同じように謎めいたグレタが気にかかるのか、彼女の素性を問うてくる者もいたが、それには『皇太后陛下のご推薦だ』と答えるにとどめた。隊員もヒルダの名前が出れば、それ以上は追求してこない。
ふた月ほど経つうちに、すこしずつグレタは他の親衛隊員に馴染んだ。




ごく不定期に、ヒルダはアレクを連れ、ラインハルトの墓を訪れていた。
これは非公式な行動で、云わば気晴らしだ。墓参が気晴らしというのもおかしな話だが、帝国の頂点に事実上ひとりで立つ彼女にしてみれば、詮無いことかもしれない。亡き人のみにしか打ち明けられない本心があるのだろう。
とはいえ、警備は手を抜けるわけではなく、その日も親衛隊は通常通りの体制でヒルダと幼帝に付き従っていた。
雨上がりの首都は鈍重な雲がかかり、また一雨来そうな気配だ。
故人の希望に沿ってごく質素に造られた霊廟内で、ヒルダはアレクと静かな時間を過ごした。
扉が開いて屋根つきの回廊に歩み出て来た時、一時間ほどが経っていた。腕に抱いていたアレクを養育係の婦人に渡し、グレタに誘導されて地上車へ向かう。
全体指揮のため待機中のキスリングが、地上車班へインカムで連絡する。
その時。
空気を乱す黒い影を、彼は豹にも擬えられる本能で感じとった。
背後を振り返る。花壇をかき分けるように走ってくる親衛隊の制服を着た男と、目が合う。頬に無精髭。正式な隊員ではない。男の右手に、ブラスターが握られているのを確認する。
その銃口の狙いは、ヒルダだ。
「サトバルト!」
キスリングが短く叫んだ時、グレタはもうヒルダを背後に庇っていた。左手で円柱の陰に彼女を押し隠し、右手の銃を構える。
しかし、ヒルダを庇った分だけそれは遅れた。
男が続けざまに放った光線の一本がグレタの額をかすめ、一本が彼女の左肩に吸い込まれる。閃光と血が飛び散った。それでも、彼女の構えた銃は微動だにせず、正確に男の眉間を撃ち抜く。
のけぞりながら、男の体が階段を転げ落ちた。数人の近衛兵と憲兵がそちらへ駆け寄る。
侍女たちの悲鳴が、空気を切り裂く。
「メルジー!メルジー!」
聞いた事のない名で呼びかけ、美しいレースのブラウスが血に染まるのも構わず、ヒルダがグレタを抱き起こす。キスリングも手早く部下に指示を出した後、そちらへ向かう。
「お願い、しっかりして…!」
はらはらしながら見守る侍女らを脇に、ヒルダはグレタの傷に手を当てていた。白いハンカチから血が滲み、みるみるうちに赤く染まっていく。銃を正確に扱うため、近衛兵の肩は防弾具で覆われていない。ちょうどその部分を撃ち抜かれたようだ。
「大丈夫、よ…」
額に受けたほうの傷から滴り落ちる血を袖で拭い、グレタが体を起こした。その時初めて彼女の額が顕わになる。
新しい傷の下のほう、こめかみの辺りに古く大きな傷痕が見えた。髪の生え際に食い込むように、皮膚のところどころが赤褐色に変わっている。ひどく痛々しい。いつも髪で左目側を隠していた訳がやっと分かった。
キスリングはヒルダの横にひざまずき、グレタの背中を支える。
「動脈を損傷したかもしれない。動くな。救護班が来る」




グレタは軍病院に運ばれ、治療を受けた。
幸い動脈にも神経にも損傷はなく、止血処置のみで済んだ。ただ、失血が多かったため、今晩だけは入院させて様子をみる、と医師はキスリングに告げた。
犯人は身元調査の結果、以前親衛隊に属していた男と判明した。伸び放題の髪と無精髭のせいで、元同僚にも分からなかったらしい。いつのまにか反体制の過激派に取りこまれ、皇帝母子が隠密に墓地を訪れるところを狙ったようだ。
親衛隊に所属した者は、機密保持上、除隊後も居住地を明らかにしなければならない規則がある。だが、男は除隊後の居住地を申請しておらず、憲兵隊から身柄確保の要請が出ていた矢先の事件だった。


ようやく騒ぎが収まり、警戒線が解かれた頃、皇太后は青い顔をして自ら軍病院を訪れた。
騒ぎの後だというのに、最小限の随行しか連れていない。これも"非公式"だ。
キスリングの姿を見つけると、ヒルダはその随行さえ下げ、病院内に在る特別室で彼と向かい合った。
「……あなたには、サトバルト中尉のことを話しておかなくてはならないわ」
沈痛な面持ちで、ヒルダは口を開く。
「"ハーゲン"の件ですか」
「ええ。貴方はハーゲンがどんな組織だったのか、資料を読んだわね?」
機密資料のパスワードを請求したことなど、とうに知られていたらしい。
「はい。詳細は不明でしたが」
「グレタはハーゲン計画のただひとりの、生き残りです。本当の名前はメルゼエラ・ハプトゥルト。私と彼女は高等学校時代、同級生だったの。彼女はスタッフェン伯の庶子だけれど、明るい性格で、とても優秀な体操選手だったわ」
スタッフェン伯。
その名には、聞き覚えがあった。
ダグトーム宙域開発絡みで住民の意見を支持した為に、ブラウンシュヴァイク公一派から煙たがられ、自由惑星同盟に亡命した有力貴族。
「では、彼女は父親のことで、忠誠を試されたのですか…」
ハーゲンの追加資料には、『肉親が自由惑星同盟へ亡命を遂げた者に対して、懲罰の意味合いが濃かったと推察』云々と記してあった。それを思い出したのだ。
「そうです。彼女が優秀な体操選手であったことが、さらに禍いしたのね。ある日彼女は憲兵に連れ去られて、学校から姿を消したわ。同級生たちと探したけれど、六年以上も行方が分からなかった…」
ヒルダは大きなため息をひとつ、吐く。
「……1年前、フラウ・ヤンから私信がありました」
共和政府代表の"ヤン未亡人"ことフレデリカ・G・ヤンとヒルダは、数こそ違えど、人類を二分する勢力の会頭という立場だ。だがその垣根を越え、私生活では徐々に友人関係を築いてきた。時折TV電話などで話し込んでいるのを、キスリングも知っている。
「ハイネセンの旧同盟軍の施設を解体した際、最深の地下室に拘束されたままの工作員らしき人物を発見した、という知らせでした」
あえて私信にしたのは、過去の事象で現在の外交関係を紛糾させたくなかったからだろう。もちろん、こちら側としても同じ考えだ。
「それが、サトバルト中尉だったのですか」
「ええ。拘束具に繋がれて、自白剤を大量に投与されて……。帝国軍の侵攻で同盟軍人が逃げ出した後は、細い一本の栄養点滴だけで彼女は生きていたの。正気を保っていたのが奇蹟だわ」
終戦からおよそ一年以上、光の差さない場所で拘束されていたことになる。
「すべてを秘密裏に行う、と協議して、引き渡しは私が立ち会いました。最初は彼女だと分からなかった。体は衰弱して骸骨同然、髪は真っ白だったから……」
その時のことを思い出したのか、ヒルダは腕で自分の体を抱くような仕草をした。
さらに、重い口調で続ける。
グレタをこの病院に預けたこと。話せるまでに回復してはじめて、旧友だと分かったこと。
憲兵隊に連れ去られた後――彼女はハーゲンの一員として訓練を受けた。同盟軍に潜入したものの、とある基地の破壊工作に失敗して、捕まってしまった。尋問と拷問の日々が続き、ある日それがぷっつりと止み……周囲は無人になった。以後は暗い部屋でひとり、ただ"生きながらえて"きた。戦争が終わったことさえ、知らなかったという。
「私は、元の生活を取り戻してほしいと思いました。彼女も旧王朝の犠牲者のひとりだから。でも、彼女は元の自分に戻ることを拒んだの。メルゼエラ・ハプトゥルトは死罪に価うことした、と言って」
「それは、同盟軍に居た時にという意味でしょうか?」
「おそらくそうでしょう。人を殺めたのに、自分は生き延びた矛盾に苦しんでいるのよ。任務のための殺人だから仕方なかったと言っても、気休めにはならないわ。罪の意識に苛まれて……」
ヒルダは視線を落とした。その表情には無力感が窺える。実質的には最高の権力を有する彼女でさえ、人の心だけは意のままにできない。
「少しでも生きる目的を持ってくれたらと思って、"グレタ・サトバルト"という新しい人間を作り出したの。私の警護兵として」
キスリングは、自分がグレタの素性に疑問を挟んだ時の、ヒルダの決然とした口調を思い出した。あの言葉には、複雑な思いが込められていたのだ。
「キスリング少将」
「はい」
「メルジー…いえ、グレタと話をしてもらえないかしら。私では、彼女の痛みを共有することさえできないから……」
頼りなげなヒルダの言葉に、キスリングは黙礼を返した。




 明かりも点けていない薄闇の病室。ベッドの傍らに、グレタは立っていた。キスリングに背を向ける形で、カーテンの隙間から夜の庭をみつめているようだ。白く裾の長い患者着のせいで、亡霊めいて見える。
「……痛むか?」
軍服を脱げば、華奢さの目立つ背中に問う。生涯癒えない傷を負い、死者の影を引きずる背中。
撃たれた肩をかばうように、ゆっくりとグレタは振り返った。
「いえ。先ほど、痛み止めを処方されましたから」
そう返す彼女の側まで、キスリングは歩をすすめた。
グレタの顔色は青白く、頬だけがほんのり朱に染まっている。負傷して、熱があるのかもしれない。
「痛み止めは効かないんだろう」
彼の言葉に、グレタは目を見開いて一歩後ろへ下がった。
「少将…」
多量の自白剤投与は、身体の免疫機能を著しく破壊する。プラチナブロンドの髪も、白髪になってしまった髪がそれ以上染料を受けつけないからに違いない。
「皇太后陛下に、すべてお聞きした。おまえの素性も、"ハーゲン"での任務も」
「そう…ですか…」
ほっとした様子と、何かを怖れるような様子が、グレタの表情に混ざる。彼女は大きな絆創膏の貼られた額を窓ガラスにつけ、深いため息をひとつした。長い前髪が、さらりと流れる。
キスリングは、元の髪の色は何色だったのだろう、と思った。
「生きていていいのか、自分でも分からないんです。かといって死ぬ勇気もない…」
初めて聞く、弱々しい声音。
一度目を伏せてから、キスリングも窓外へ視線を投げた。
小高い丘の上に建つ軍病院からは、フェザーンの街の明かりが見える。深夜のせいか数は多くない。西の方でひときわ明るい光を点滅させているのは、宇宙港だろう。
「……どうしても、眠れない夜があるか?」
それは、任務の時とは違い、答えを要求しているような訊き方ではなかった。
グレタは顔を上げ、キスリングの横顔をみつめる。気難しげな印象の強い横顔が、今は、やさしく遠い目をしている。
「あります。悪夢さえ訪れてくれない夜が」
正直に、彼女は答えた。
「そんな夜はどうする?」
グレタへと視線を戻して、さらにキスリングは訊く。
「何も…。朝が来るのを、ただ待ちます」
「そうか……」
言いながら、彼はグレタの左頬へ手を当てた。顔色は青白いのに、やはりすこし熱い。
人差し指が、普段は髪で隠されたこめかみの大きな傷痕に触れる。ざらり、と。おそらく、電極を押し当てられたのだろう。引き攣れた皮膚。拷問の名残。何度か、指先でそこをなぞる。彼女はされるがままになっていた。
体操の選手だったという、明るい少女。その面影はもうグレタにない。父の背信の代償のため、彼女がつぐなったものはあまりにも大きかったのだ。
やがてキスリングが頬をつつむようにすると、グレタは目を閉じ、すこしずつ彼の掌に顔を預けてくる。
首を傾けて、キスリングは彼女の唇に口づけた。
薄い唇に触れて、はなれて。
ゆっくりとまぶたが上がり、灰緑の瞳がキスリングを見上げる。
そこに非難の色はない。ただ、真意を図りかねているだけだ。
「同情だと…思うか?」
キスリングは、自分の胸にかすかに灯るものを意識した。
「…いいえ」
視線を外さないまま、グレタは首をふる。
「同情は…こんなふうにするものじゃありませんから」
彼女が言い終わるのと同時に、キスリングはまた唇を塞ぐ。首を傾けて、深く。腰に手をまわして引き寄せると、グレタの手が、飾り紐ごと彼の軍服の布地を掴む。
なぜだかは分からない。キスリングは、上司と部下であることも、ここが病院であることも忘れて、ただ、グレタに触れ、彼女がここに在ることを確かめたかった。
人並み以上に持つはずの理性と冷静さが、不可抗力の熱に熔かされようとしている。
彼は唇を離し、グレタを正面からみつめた。ちいさな吐息が、濡れた唇からもれる。はだけてしまった胸元から見える包帯が、薄闇に白く浮かんだ。
「痛むだろう」
「いいんです…痛み以外に、生きている実感がないから……」
グレタはキスリングの肩口に顔をうずめる。
その項に彼は唇を当て、ささやく。
「痛み以外で、実感しろ……」


 傷つけられ、治癒した頃また同じ場所を傷つけられたグレタの体には、あらゆるところに傷痕がある。
それを撫で、舐め、キスリングは彼女を抱いた。急かしくもやさしい愛撫にグレタの体が応える。彼女は、自分の中で苦痛と快感が混ざり合うのが分かった。
やがて、快感だけが体の芯を埋めていく。
彼女は逆らわず、それにすべてをゆだねる。
快楽の波が静かに去る頃、キスリングはグレタをそっとベッドに横たえた。乱れた軍服の襟を、彼女の指がまた掴む。
「薬…効かないはずなのに…眠いんです…」
伏した目が、ゆっくりとまばたきをする。
キスリングは、その手を上から握った。
「ここに、居る。すこし眠るといい」
「居て…くださいね…」
夜を怖がる子供がそれを隠すように、グレタは小さく言う。
白いブランケットをかけてやりながら、めずらしくキスリングの口元に笑みが浮かんだ。




約一ヶ月の加療で、グレタは親衛隊の任務にもどって来た。
再び影のごとく、ヒルダに付き従う。
社交的な性格ではなかったが、誠実な任務態度で周囲からの信頼を積み重ね、彼女は長く皇太后の警護を務めた。
彼女はもう、ひとりきりで眠れぬ夜を過ごすことはなかっただろう…。









出番があんまりない割には、キスリングって美味しい役回りですよね。アニメでも衣装が特別だし。
男性キャラだと、ロイ・ファー様・コーネフに次ぐくらい好きなので、キスリング使って、ちょっと大人カップルな話を書きたいと思って、こんな感じになりました。
できればもうちょい、大人な雰囲気にしたかった…!