白き眠り





 隣の部屋から、女の含み笑いが聞こえる。
エルフリーデは、浅い眠りの中でそれを聞いていた。
 気にすることはないわ。めずらしいことではないもの。
いつも通り、彼女はそうやってやり過ごそうとした。隣は客室。ロイエンタールが誰かを連れて来るならその場所だけだ。
 しかし、その夜の女は少し違っていた。遠慮、というものがない。声を抑えようとする気配がないのだ。到底エルフリーデには真似しえない艶めかしい声が、壁の向こうから部屋の空気をふるわせてくる。
 否応なく聴覚を刺すその棘に、聞こえないふりをしようとする彼女の耳は、よけいに敏くなった。無視しなければと思うほど、神経が集中して睡魔を薙ぎはらう。
「いや…」
小さく言って、エルフリーデは上掛けの中にもぐり込んだ。しかし、音を遮るのに効果はあまりない。
 彼女がなによりも嫌なのは、ロイエンタールが他の女を抱いた後、必ずエルフリーデの部屋を訪れることだった。まとわりつく芳香を隠しもせず、彼女の顎に手をかける。そして口づけようとする。
 拒んでも、むしろそれを楽しむようにエルフリーデの唇を追うのだ。彼女の手首に跡がつくほど握ることも厭わない。
ふいに、女の細く叫ぶような声が聞こえた。
今のエルフリーデには、それが何の声なのか分かる。彼女の頬がカッと上気し、下肢が震えた。エルフリーデの躰は知っている。快感の頂点のほんのわずか手前まで、彼女を執拗に追いつめるあの男の残酷さを。その声は、自分がいつも唇の間で押し殺す甘い悲鳴だ。
 もう、それ以上聞いていられなかった。エルフリーデは身を起こし、耳をふさいでベッドから去った。



 ロイエンタールがエルフリーデの部屋の扉を開けた時、部屋の主の姿はどこにもなかった。
ベッドの中にも、寝椅子の上にも、気に入っているらしい出窓にもいない。いつもは平然と彼の視線を受け止め、彼の口づけをどうあっても拒もうとする娘。他の行き場所などないはず。
 静まりかえる部屋をもう一度眺めたあと、もしやと思ってロイエンタールは浴室の前へ歩いて行った。その中からも一切の音は聞こえないが、とりあえずドアのレバーに手をかけて引いてみる。
 それを開けた瞬間、ロイエンタールは驚いて、思わず中へ足を進めた。
空の白い浴槽の中に、エルフリーデがいた。耳をふさぐように手をあてたまま、体を丸めて眠っている。
白く薄い夜着から淡く肌が透け、クリーム色の長い髪が、ゆるやかに躰に沿って広がる。その表情はすでに安らかで、長い睫毛が影を落とし、桜色の唇がほんの少し開いていた。浴槽の側には、彼女のためにニルケンスが飾った白い薔薇が、清楚に咲きほこる。
浴室にはふさわしくない、幻想的な眺めだ。
まるで、冷たく白い浴槽が、彼女の棺であるかのように。
それを見下ろしながら、ここに閉じこめておけたらいいのかもしれない、とロイエンタールは思った。自分以外の男を知らず、その心に侵しがたい純粋さを秘めたまま、この静謐の中で、永遠に。
 力なき復讐者。煩わしい、と思う存在。エルフリーデをこの屋敷に置いている事こそが危険なのだと、ロイエンタールは分かっていた。しかしその一方で、鎖に繋いででも留め置きたいと思っている自覚がある。彼の矛盾に満ちた孤独な歪みを、唯一撥ねつける存在として。
 ロイエンタールはそのまま、眠るエルフリーデを長いこと見つめていた。




 次の日の夜。
 エルフリーデは、自室の寝椅子に腰掛け、図書室から持ち出した本を膝の上に広げていた。仕事から帰ったロイエンタールが部屋に入って来たのには気づいたが、敢えて顔は上げなかった。
 訪れたほうの男がずっと押し黙っているので、さすがに訝しんだエルフリーデが顔を上げようかとした時、
「俺はフェザーンへ行く」
やっとロイエンタールが口を開いた。
 忌まわしい新皇帝が首都をフェザーンへ移すらしいという噂は、彼女も聞いている。もちろんそれに伴い、軍の中枢も移動するのだろう。
「お前はどこへなりと好きなところへ行け。俺にはもう関係無い」
突き放す、冷たい声。自分がエルフリーデにとって仇である事など忘れた言い方。まるで彼女が愛人のひとりのような。
 エルフリーデは何も言い返さなかった。ただ、胸で熱を帯びる怒りだけを感じていた。昨夜のことも重ねて思い出すと、その熱はさらに剣呑になる。
「金なら要るだけニルケンスに言うがいい。すぐに用意してくれるだろう」
ロイエンタールは視線を本へ落としたままのエルフリーデに、さらに言う。
おそらく彼女が激怒するに違いないと考えていた彼の予想は外れ、やっと顔を上げたエルフリーデの表情は平静だった。
 …どうした?素直に従うつもりか。
ロイエンタールは複雑な感情を以て、立ち上がりゆっくりと彼に向かって歩いてくるエルフリーデを見つめていた。
彼女が目の前まで来たところで、
「これで、終わりだ」
きっぱりと告げる。
と、ふいにエルフリーデはロイエンタールの軍服の襟を掴み、どんと押した。彼女の思いがけない行動に、ロイエンタールはそのまま壁に背をついてしまう。
そして、エルフリーデは手を離さないまま背伸びをした。今度は襟を引かれる形になったロイエンタールと、視線がぴったり合う。
「見届けてやるわ。おまえの破滅を。おまえのそばで」
エルフリーデの唇がほほえみとともに言った。挑みかかる表情は、今まで見たことがないほど艶やかで美しい。
ロイエンタールが口を開こうとした瞬間、彼女はその唇を噛みつくようなキスで制する。ロイエンタールの体が壁に押しつけられた。
 長い、長い口づけ。彼が息をつめるほど。
やっとエルフリーデが唇を離した時、思わずロイエンタールは深く息を吐くはめになった。
それを見て、エルフリーデはくるりときびすを返す。そして婉然と扉の方へ歩き、ただの一度も振り向かず出ていった。
 ぽつんとひとり、部屋に残されたロイエンタール。
「・・・負けた」
戦場でなら忌み嫌うその言葉が、思わず彼の唇からこぼれる。しかしその表情は、ほんの少し笑っていた。







今回は800hitを踏んで下さった豆小豆さまからのリクエストで。「オーディンを離れる直前くらいの時期のロイエル」というリクエスト内容でした。お待たせしてすみません。
いつもエルフリーデがロイエンタールに振り回されてばかりでは面白くないので、今回はエルフリーデに"勝って"もらいました。しかも完勝っぽいですよ。でかしたエルフリーデ(笑)!
が、部屋を出ていったあとどこ行くの?ってツッコミはなしで(^^;
どこ行ったんだろう………(おいおい)
なにはともあれ、豆小豆さま、ステキなリクエスト、ありがとうございました。