煌 星





 フェザーンに居を移しても、エルフリーデが使うのは客間と図書室だけだった。
オーディンの宿舎で、彼女の心のなぐさめになっていたロイエンタール家代々の大量の蔵書は、そのままフェザーンに 移されていた。彼女には何も告げられずに。ある日、まだ開けたことのない部屋の扉を開けると、きっちりと本棚に並んで いるのが目に入って、エルフリーデを驚かせた。
「お嬢さまが見つけるまで、言わなくてよいと申されまして…すみません」
大きな本棚の列を見廻していると、後から入って来たニルケンスが詫びる。
「いいのよニルケンス…うれしいわ」
あの男が、自分のために何かしたと思われるのが嫌なのは知っている。
 それからエルフリーデは、寝椅子と小さなテーブルをひとつ持ち込んで、一日のほとんどを図書室で過ごした。 コンピュータの画面に映し出された文字をスクロールして読むより、彼女は一枚ずつページをめくるのが好きだった。




 帝国歴一年十月二十六日。
その日も、エルフリーデは軽い夕食をとった後、図書室に行った。昼間から読みかけの戯曲の続きが気になったのだ。
 八時を過ぎた頃、この館の主人、オスカー・フォン・ロイエンタールが帰って来た。珍しいことに客人を連れているらしく、 話し声がした。広間へ入り、ニルケンスが何度か行き来している音がする。おそらくもてなしの酒などを運んでいるのだろう。
 エルフリーデには興味がない。いや、そうでなければいけなかった。
 彼女の視線はまた膝の上の本に落ち、細い指が次のページをめくる。
 どのくらい経った頃か…階段のあたりで話し声がして、エルフリーデははっと我にかえった。
 首に引きつるような軽い痛みがある。話の続きに熱中しすぎて、姿勢も変えないまま読みふけっていたのだ。テーブルの上に 置いた時計はもう11時を指している。
 エルフリーデは肩に掛けたストールを寄せ、読みかけの箇所に栞を挟んでぶ厚い本を閉じた。
その時。笑い声が…聞こえた。
 思わず彼女は耳を澄ます。初めて聞くロイエンタールの笑い声。それは決して大きくなかったが、影のない心からの声だった。
 その相手は誰か。本当は来訪の時から気になっていた疑問がエルフリーデを動かす。彼女は図書室の扉をそっと開け、吹き 抜けの階段が見える廊下の方へ足音を殺して歩いた。
 大きな飾り柱からそっとのぞく。向こうからは陰になって見えないはずだ。
 階段の上に、軍服の上着を脱いで白いシャツ姿になったロイエンタールがいた。階段の手すりに腰掛けるようにして下を見る 口元がまだ笑っている、そして階段の中ほどに、もうひとり。
 小柄なようだが、とても姿勢がいいのでひとまわり大きく見える。髪は蜂蜜色。どうにか抑えようする努力がうかがえるが、 毛先があちこちを向いている。生き生きとした灰色の瞳が印象的だ。
 …ウォルフガング・ミッタマイヤー。“疾風ウォルフ”の異名を持つ名将。
ロイエンタールとこれほど親密に接する人物の名を、彼女はひとりしか知らない。視線の先に、帝国の双璧と呼ばれる二人が 揃っているのだ。
「からかうな。エヴァはいつも寝ずに俺の通信を待っているんだよ」
ふいに、ミッターマイヤーが笑った。彼の笑顔を見て、エルフリーデははっとする。ぱっと周囲が明るくなるほど屈託がない。 あれが数万の兵を率い、その名を聞いただけで敵がすくみ上がると言われる男なのだろうか。若いどころか笑うと少年の ようだ。彼もまた、エルフリーデの仇のひとり。しかし、憎みきれない魅力が在った。
 自分が永久に失ったものを見るようで、エルフリーデの胸が痛んだ。確かに昔、彼女もあんなふうに苦しみとは無縁に笑って いたはずだった。
柱の陰から図書室に戻り、扉を背にして彼女は立ちつくす。
もし、自分が狙った相手が、あの男だったなら…。
そう考えずにはいられない。
おそらくエルフリーデを、まったく違う運命が待っていただろう。彼はすぐに彼女を憲兵隊につき出し、事情を知れば同時に 助命をも嘆願したに違いない。
 それが、あんな風に笑える、愛されて育った者の持つ強さだからだ。
 寝椅子の横にある淡い光のランプ以外の明かりを消し、エルフリーデは扉の前から窓の前まで歩いていった。見上げると、 冬の訪れを感じさせる澄んだ夜空が広がっている。オーディンとは見え方の違う星々が、何と呼ばれているのか彼女は知ら ない。
 なにげなく、手を伸ばしてみる。
 フェザーンの星についての本もあるかしら…。
 エルフリーデがそう考えながら手を下ろした時、背後の扉が開いて誰かが入って来る気配がした。ノックの音も聞こえなかった ので、それが誰なのかすぐに分かる。
 ロイエンタールは何も言わず、寝椅子に深く腰を下ろした。エルフリーデはじっと星空を見上げたままだ。
「…あれが、ウォルフガング・ミッタマイヤーなのね」
しばらくして、エルフリーデが口を開いた。
「そうだ」
冷たい声が返ってくる。さっきまで笑っていたというのに、その片鱗さえうかがわせない。
「光の差す道を行く人ね、あの人は。誰からも愛される人だわ…」
彼女の視界に映る星々の中で、ひときわ明るく見える星をじっと見つめて言った。
その言葉に、答えはない。その代わり、すこしの間をおいてロイエンタールは立ち上がり、エルフリーデの後ろまで歩いて来た。 そのままゆっくりとエルフリーデの細い腰に右手をまわし、左手は肩ごしに彼女の頬へあてる。
首を傾けてロイエンタールが耳につくほど唇を寄せると、腕の中でエルフリーデが体を硬くした。
「惚れたのか」
そっと囁く。予想もつかない問いかけに、エルフリーデは頭の芯がかっとなる。
「馬鹿なことを言わないで!」
思わず大きな声が出た。
「まあ、そうむきになるな。あの男は結婚しているが、それでもいいというご婦人方は大勢いる」
エルフリーデには、背後の男の口元に浮かぶ嘲笑が見えるようだった。自分がそういう節操のない女達と一緒にされたと 思うと、余計に腹が立つ。
「だが残念だな。あの男には愛しい細君しか見えていない」
なおも続けるロイエンタールの唇から耳を離そうともがいた瞬間、彼の腕に力が入り、エルフリーデはぐっと抱き寄せられる 形になった。結い上げている髪がゆるみ、肩から腰の下へずれていたストールが、ふわりとふくらはぎを撫でて床へ落ちる。
 身動きのできない力強さ。ロイエンタールの頬が、エルフリーデの耳の後ろにぴったりとつく。彼女は耳たぶの裏にあたる息を いつもより熱く感じた。
「…酔っているの?」
その熱さに侵されるのを耐えながら、エルフリーデが訊く。
「酒で酔ったことなどない」
言いながら、彼女の頬に当てていた手を外す。それはゆっくりと下へ伸びて、腿の外側で止まった。
 今夜エルフリーデが着ているのも、ロイエンタールが用意した服の一枚だった。黒のノースリーブのワンピース。光沢を消した シルク地。靴紐のようにクロスさせた背中側のリボンで脱ぎ着する凝った造り。膝丈で、腿まで深くスリットが入っている。エル フリーデの華奢な脚を強調して見せる絶妙の位置だ。
 そのスリットのそばへロイエンタールが手を置いたために、スカートの生地が割れてめくれる。その狭間から、彼はエルフリーデ の腿の内側へと手を這わせた。
 息と同じように、いつもより熱い手。ぴくっと内腿が震える。
「…あっ」
思わずエルフリーデは、窓ガラスに手をついてしまう。
ロイエンタールの視界に、細く美しい手が映った。その白い甲に、自分の右手を重ねる。そして左手は腿のさらに奥へずらす。 足の付け根のすこし手前。エルフリーデの体でもっともやわらかく、彼女の吐息を誘う場所。
「はっ…あぅ」
自分の快感にとまどうような声。その声音がロイエンタールは気に入っている。この幼さを残す肢体に不似合いな煽情。 もっと焦らしたくなる。
 そして彼は、唇でエルフリーデのうなじをなぞり上げた。
「いや…あっ」
彼女は声を殺そうと自分の唇を噛むが、それはくぐもった吐息になってあふれ、かえって色情的に部屋の空気を揺らした。
 望まない快感に、体を折ろうとするエルフリーデ。しかしロイエンタールはそれを赦さず、もう片方の手も窓ガラスにつかせることで 体を支えさせた。
「いい声だ…なによりの贈り物だな」
ささやく、ロイエンタールの声。
意味が分からず振り向きかけたエルフリーデの唇を、迎えるように首を傾けてロイエンタールが自分の唇で塞ぐ。かすかな 赤ワインの芳香が、エルフリーデの舌にのせられた。それだけで彼女は酔ったように、自分の頬が上気するのが分かる。 胸の奥深くから満ちてくる熱。心がその熱を拒み、体がその熱を求める。
 唇を離さないまま、ロイエンタールは重ねていた右手を外し、背中で結わえられたリボンに伸ばした。
しゅっ。
 鋭い音とともにリボンが解かれ、エルフリーデの背中が腰近くまで露わになる。その開いた布地の奥へロイエンタールは手を 差し入れ、彼女の乳房を掌で包んだ。甘い疼痛がエルフリーデの体を縛る。
「…ぁ…ん…」
閉ざされた唇に耐え切れず、エルフリーデはロイエンタールの唇からのがれて前のめりになり、手と同じように窓ガラスへ頬をつけた。 硬い冷たさが、熱い頬の熱をやわらげる。
 腿の内側へ置かれたままだったロイエンタールの左手がさらに奥を撫で上げたとき、エルフリーデの吐息がガラス窓を白く曇らせた。




 慣れた様子で身づくろいをしたロイエンタールは、床に膝をついてくずれ落ちたエルフリーデをストールで後ろから包んだ。
その肩はまだ荒い息に乱れ、結った髪から落ちたおくれ毛が汗に濡れているのがいっそう艶かしい。
「ひどいわ…こんな…」
抗議の声も低くかすれる。
「今日は俺の誕生日だ。その贈り物と思え」
かすかにからかうような言い方。先刻ロイエンタールが口にした言葉の疑問が解けると同時に、エルフリーデは精一杯彼の金銀妖瞳を睨んだ。
「だれがおまえに贈り物なんか…!」
まだ彼女の肩に置かれたままだった手をぱしん、と払う。
「返せと言っても返せないぞ」
そう言ってロイエンタールは立ち上がり、悠然と扉の方へ歩いていく。その行為の激しさの痕跡を微塵も感じさせない、冷たい背中。
 エルフリーデは、まだ余熱に汗ばむ自分の体にストールをぎゅっと巻きつけた。敗北感としか言いようのないくやしさに蝕まれて、彼女は 窓の外を見上げる。
 無数の星々が、濃さを増した夜空を変わらず飾っていた。あの明るい星は、もう見つけられなかった。



ende







 300hitを踏んでくださった”りあす”様のリクエストで書かせていただきました。
リクエスト内容は『ロイエンタールの誕生日,ロイエル,痴話喧嘩,大人色強め』でしたが、わたしの筆ぢからが無いために、 どこまで応えられているのか疑問なところです…。
 内容のことを少々申しますと、「青の呪縛〜」からこの話の間を繋ぐ話も考えているせいで、エルフリーデがいきなり本好きに なっていたりします…。あとは相変わらずロイエンタールが下心まんまんの服をエルフリーデに着せていますね(笑)。彼女は お財布を持たされていないので、黙ってロイエンタールの持ってくる服を着るしかないわけですよ。こんな設定考える自分を どうかと思いますけど…。
 それと、一応彼女が星に手を伸ばすところは、本編のフェリックスと対にしてみました。あのシーンがとてもせつなくて好き なので。
 最後に、リクエストを下さったりあす様と、最後までお読み頂いた方に心から感謝いたします。ありがとうございます。これ からもよろしくお願いします。