祈りの夜に





 エルフリーデは、しばらくこの館の主に会っていなかった。
フェザーンへ居を移してから、帝国の周辺できな臭い事件が続いたせいか、ロイエンタールは大本営の置かれたホテルにそのまま滞在する事が多いようだ。たまに、ニルケンスが衣類などを届けに行くのを見かける。
 だからその夜もエルフリーデは電気を消し、ベッドに寝転んで窓外の星々を見上げながら、夜更かしをしていた。
遠くまで来た、と思う。復讐を果たせないまま、もう幾日が過ぎたか…。
 フェザーンに居るのだと意識するたび、幼い頃のことが無性になつかしくなる。

 コールラウシュ家は、いつもにぎやかだった。
たまにやって来ては、大きな手でエルフリーデの頭を撫でるリヒテンラーデ候。気むずかしいという評判の大叔父も、彼女にとっては優しい好々爺だった。大叔父がくれる本はいつも少し難しかったが、エルフリーデが読み終えると、感心した様子で感想を聞いてくれた。
 訪れる客たちはエルフリーデを小さな淑女として扱い、多くの使用人たちが彼女にほほえみを向けた。広い庭は駆け回るにもってこいで、大きな図書室は特に彼女のお気に入りの場所だった。エルフリーデの姿が見えなくなると、乳母は先ず最初に図書室をのぞいたものだ。
 今はもう、物語の中の出来事のように遠い記憶…
 ただ、父母の死に際の事だけは鮮明に覚えている。
エルフリーデの父は、軍人ではなかった。工部省の一官吏に過ぎなかったのだ。しかし反逆者の一族として捕らえられ、刑場へ連行されていった。左右の手を下士官に掴まれた姿で軍用車に乗る前、泣きすがるエルフリーデに、父はほほえみを返した。
「さよなら。愛しているよ、エルフリーデ」
娘が持つ自分の最後の記憶が、笑顔であるようにと父は願ったのだろう。
母は、流刑地の収容所で感染症に罹り、命を落とした。重篤になるまで病気を隠していた。母は死にたかったのかもしれない、とエルフリーデは思っている。生粋の貴族として生まれた母に、収容所暮らしはあまりに過酷だった。
「強く、生きて、エルフリーデ。どうか幸せに…」
それが母の最期の言葉だった。最悪の環境に在っても、娘の幸福を祈らずにいられなかったのだろう。
エルフリーデの両親は、ただの一度も復讐の事を口にしたことがない。
しかし、彼女は復讐を誓った。ひとりぼっちになって、砂塵の舞う収容所で。隠し持った母の形見のルビーと引き換えに手に入れた、たった一本のナイフを握りしめて。
 人はそれを、理不尽だと罵るかもしれない。代々続く特権に浸りきって生きてきたのはそちらだろう、と。
 だが。
エルフリーデには、ほかにどうすればいいか分からなかった。彼女を支配する強烈な孤独と哀しみ、憎しみ。狂気に堕ちる崖に、つま先だけで立っているような危うい心。そこに打ち込んだ復讐という黒い楔だけが、かろうじて彼女を支えていられるのだ。
 生きてゆくための、復讐…。
エルフリーデは体を横たえたまま、胸の上で手を組んだ。過去を想うとき、いつも鼓動が早くなる。



 キィ…
かすかな音がして、部屋の扉が開かれた。エルフリーデははっと上半身を起こす。
 廊下の明かりを背にして、ロイエンタールが立っていた。白いシャツの上に軍服を肩掛けている。
パタン。彼の背後で扉が閉まり、部屋はまたもとの薄闇に戻った。
「ひさしぶりだな」
ロイエンタールがそう言いながら、ベッドの方へ歩いてくる。エルフリーデは警戒するように、端までしりぞいた。
 顔が分かるほどロイエンタールが近づいてきたところで、彼女は彼の様子がいつもと違うことに気づく。
疲れているのか、表情には翳が濃い。頬の肉が少し削げ、冷たく見える面差しをいっそう鋭利にしている。特に、その眼がエルフリーデを怯ませた。黒の右瞳も青の左瞳も、何か得体のしれない禍々しさを感じさせる光を帯びているのだ。
ロイエンタールはそのままベッドへ上がり、動けないでいるエルフリーデの隣にうつぶせた。そして急に左腕を伸ばし、彼女の肩を掴まえて引き寄せる。
「この眼がこわいか」
ゆっくりと顔を上げ、エルフリーデの瞳をのぞきこむように訊いた。呼気から、かすかにワインの香りがする。
「こわい…わ」
なぜ、素直に弱みを見せたのか分からない。ただエルフリーデはそうとしか応えようがなかった。彼女はその時、本当に目の前の金銀妖瞳が帯びる光を畏れたのだ。
それを聞いたロイエンタールは、唇にかすかな自嘲の笑みを刷き、右手で右眼の上を押さえた。
「この黒は罪の色だ。俺は生まれながらにして罪人なんだ」
 低く、呪うようにつぶやく声。

  そして、ロイエンタールは語った。自分の出生にまつわる、忌むべき秘密を。無彩色の生い立ちと、父と母の末路を。

  彼もまた、その夜なぜ過去を語ったのか分からなかった。自らを蝕みつつある叛逆の澱みを、堰き止めておきたかったのかもしれない。
  エルフリーデは、彼女の肩を片手で掴んだまま語る男の言葉を聞きながら、彼の体に宿る冷たい焔を感じていた。原罪という名の焔は、内側からロイエンタールを焦がすのだろう。耐えがたい痛みと共に。それは、彼女の憎しみとよく似ているのかも…しれない。
  話し終わった後も、ロイエンタールは右手を目の上にずっと当てていた。そのまま顔を伏せる。エルフリーデの胸に、彼の上半身の重みがかかった。
「おまえは…おれを殺したいんだろう」
エルフリーデの夜着の上で、くぐもった声が訊く。熱が伝わる。
「……そうよ」
彼女はうなずく。
「ならば、早く…しろ。でないとおれは…」
ロイエンタールの言葉は、そこで途切れた。その代わりに、エルフリーデの胸にかかる重さが増す。彼女の肩から彼の左手が落ち、腕を撫でるようにすべり下りていった。
  やがて、静かな寝息が聞こえ始める。よほど疲れていたのだろう。
  エルフリーデはなるべく体を動かさないように注意して、ロイエンタールの背から軍服の上着を取った。代わりに上掛けを引いて、彼の背を覆う。
  そしてまた、想った。自分の幼い頃を。たくさんの笑顔に囲まれて、幸せでいることだけが務めだった日々。
  エルフリーデは、胸の上で眠るロイエンタールに視線を落とした。深い眠りについて、閉じられた両の眼。額に乱れる髪を、指でそっと梳く。
彼の過去で、ちいさな子供が泣いている、と彼女は思った。罪の意味も知らず、たださみしくて、ひとりぼっちがいやで…。それが見える。
 同情なんて、この男が最も嫌悪するたぐいのものだ。
それでもエルフリーデは、決して起こさないよう、やわらかく、やわらかくロイエンタールの頭を抱いた。
「生まれながらに罪を負った者などいないのよ・・・」
ちいさくつぶやく。
いつか、この男が原罪の焔に灼き尽くされるのだとしても。
いつか、ふたりの前に血に染まった終わりが来るのだとしても。
今夜だけは、おだやかに眠ればいい。口には出さず、彼女はそっと夜に祈った。
 






 1000hitを踏まれたJuscoさまからのリクエストは「ロイエンタールの眼にまつわるエピソードをはじめて聞くエルフリーデ、少しだけ二人の心の距離が縮まるところ」 とのことでした。
 どっちかというとエルフリーデの過去中心になってる気もします…すみません。二人の心の距離はどうでしょう。縮まったかな〜〜(不安げ)?
こんなことがあっても、次の朝目を覚ませば、また甘さとは程遠い雰囲気で接する二人だと思いますが、この話ではエルフリーデが本来持っている やさしさとか共感する心を感じていただけると嬉しいです。
 しかし、わたしの書くエルフリーデはいっつもベッドに寝てていかんですな(苦笑)。
 Juscoさま、おこがましいですが、本当に創作意欲を刺激されるお題でした。ありがとうございました!